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小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
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 ちょーっとやっぱり気に入らないというかしっくり来ないんですけどね。いらないところというか、書けないだろうところは端折りまくってますしね。書こうとして書けない納得できないところは切ってもいいだろうかって感じですね。趣味だからね、オッケーさvv







 真珠と称えられる王都の影に、刑場はある。

 清浄を際立たせるためには、汚濁が必要とばかりに、瀑布の裏側に、それは存在した。裏見と呼び習わされ、いつしか転じて恨みと呼ばれるようになったその場所こそが、罪人を処刑する場だった。

 羊歯の垂れ下がる天井から滲み滴り落ちる水滴が、水たまりをあちらこちらに作っている。

 ぐるりと柵に囲まれた一段高い位置に硬い岩盤の平地があり、処刑台が据えられている。既に貴賎の別ない物見高いものたちが柵の外側に集まっていた。

 轟々ととどろきわたる水音を術士たちが消しているため、ざわざわとした喧騒と期待や蔑みに満ちた視線が、湿度と冷感と共に、アヴィシャの全身に絡みついてくる。

 王城の地下牢から続く長く険しい階段を降りた先が、ここだった。

 アヴィシャは既視感に囚われる。

 これと似た場所を、幾度か見た記憶があった。

 ゴツゴツとした岩肌に囲まれた空間。

 ああ。

 無表情の裏側で、そうか−−−と、アヴィシャは思い出す。

 混沌の神の御座(みくら)に、ここはとてもよく似ているのだ。
 
 己の愛するものたちが囚われていた場所に−−−。

 いつはてるとも知れぬ長く神子とは名ばかりの贄の日々を愛するものたちが過ごしていたのとよく似た場所で、己は、ほんの一刻にも満たぬ時を過ごせばいいのだ。

 それを苦痛と思うは愚か。

 アヴィシャはゆっくりと目蓋を閉じ、開いた。







 ファリスに抱き抱えられ、トオルはそれを見た。

 震える手が、柵を握りしめる。

 左右からトオルを抱えるファリスとアディルの全身の強張りが痛いくらいだったが、それさえも気にはならなかった。

 声が出れば、叫んでいただろう。

 遠目ではあったが、粗末な生成りの着衣を身に纏った男がアヴィシャだと、わからないわけがない。

 どうして。

 なぜ。

 いつもは綺麗に撫でつけられているアヴィシャの前髪がその端麗な額に乱れかかっている。まるで望遠鏡で見る月のように、とても近くにアヴィシャがいるかのように、そんな些細なことまで見てとることができた。

 誰かが、なにかをがなるように捲し立てている。

 周囲が、やけに大きな声でなにかを喚いている。

 そんな中、一際耳を聾する金属音が轟き渡り、周囲のどよめきがやまる。

 とてつもなく嫌な予感が背筋を這い登り、トオルの心臓を心を乱れさせる。

 その手に凶悪な鋭さを持つ斧を持った男がひとり現れる。

 罅割れかすれた呼気にも似た小さな悲鳴が、喉を痛めつける。

 小刻みな震え、脂汗が、全身をしとどに濡らす。

 アヴィシャを乱暴に木の台に昇らせ、荒々しく寝かせつけ、押さえつける。

 アヴィ!

 声にはならない悲鳴が、やはり空気を掻き毟る。

 どうして。

 なぜ。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 見たくない。

 けれど。

 見たくない。

 でも………。

 あそこにいるアヴィシャに、駆け寄りたい。

 この頼りない身体で覆い被されば、少しでも彼を助けることができるだろうか。

 この柵が、邪魔になる。

 アディルとファリスがいなければ立つことさえままならないこの身が、疎ましかった。

 振りかぶられる斧の残酷な軌跡を、トオルは見たと思った。







 誰か!

 誰でもいい!

 惑乱する心の底から、トオルは願った。

 なんであろうともかまわない。

 神であろうとも、悪魔であろうとも。

 今更この身が何度目かの死を迎えても、アヴィシャが殺されるよりは遥かにマシだった。

 だから。

 自分をアヴィシャのところに!

 この身が盾になるのなら、喜んで盾になる。

 応−−−と。

 その後なら、かまわない。−−−なにがかまわないのか、わからないままに心から願っていた。

 諾−−−と。

 歓喜の声が脳裏にこだまするのを聞いたような気がした。







 しかし。







「アヴィ………」

 かすれた声が軋むように、倒れ伏す男を呼ぶ。

 突然現れたトオルに、即座に対応できるものはこの場にはいなかった。

 茫然と、ただ、それを、膝に抱え上げる。



 それを。



「アヴィシャ………」

 呼ぶ声に誘われるかのようにゆっくりと。

 酷くゆっくりと。

 膝の上のそれが、目蓋をもたげて、トオルを見た。



 握り潰されるかのような胸の痛みに、ただ、それを、アヴィシャであったものを、抱きかかえる。

 まだ微暖(ほのあたた)かな、熱いほどの血をとめどなく流す、それを。



 けれども、涙は出なかった。



 栗色の眼差しが、とろりと白い膜を帯びたように光をなくしてゆく。

 いつも何かを堪えるように自分を見て、それでいて優しくやわらかに微笑んでくれたアヴィシャという存在が、ただの物体へと変貌を遂げてゆく。その絶望に、トオルは、周囲を見回した。

 誰かは知らない。

 血に染まった斧を手にした男も、アヴィシャを押さえていた男たちも、偉そうにふんぞり帰っている二人の男も、トオルは知らない。

 見知った顔は、アヴィシャの娘だと名乗った少女だけ。

 視線が少女の顔で、ふと、止まる。

 少女の、色調だけがアヴィシャに似た瞳がトオルを捉えて、息を吹き返したかのように光を弾いた。途端、少女は動いた。トオルをそうと見た上で近寄り、見下ろした。

「大公は死んだの。アグリアメタクシの偽物を作らせて売り捌いていたから。そのお金で反逆を企てていたから。だから処刑されたの。わかった? もうあんたをたすけてくれることも、守ってくれることも、ないの。そんな危篤なひとなんて、どこにもいないの。あんたには、今のその格好がお似合い。どうせ、それで哀れみを誘って、大公をたぶらかしたんでしょ。大公はそんなあんたをかわいそうに思って、酔狂で引き取ってくれたのよ!」

 蔑む眼差し。

 嘲る口調。

 馴染んでいたものだった。

 けれど、

「それでも、たとえ同情だろうと酔狂だろうと、かまわなかったんだ」

 そう。

 かすれる声で、トオルは、言い募る。

 アヴィシャと彼に仕えたふたりだけが、この世界でトオルにとってかけがえのない存在だったのだ。


PR
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 薄暗い。<PBR>
 窓にかかったブラインド越しの陽光のせいか、部屋の中は薄暗かった。<PBR>
 もしくはそれは、僕自身の心のありようのせいだったのかもしれない。<PBR>
 青みがかった薄暗さの中で、僕は背中に冷たいものを感じながら立ち尽くしていた。<PBR>
 高級ホテルの最上階の一室にある広い応接室の中、まるで会議室のように設え直されたのだろうソファとテーブルの向こう側にずらりと揃っているのは一族の重鎮達だ。彼らの鋭く責めるような視線が僕を射殺さんばかりに凝視してくる。<PBR>
 背中を流れ落ちるのは、間違いなく脂汗だった。<PBR>
 一族の長の息子ではあっても、僕はスペアにすぎず、スペアからすら脱落した出来損ないなのだ。<PBR>
 そんな自分を自覚していたから、僕は逃げたのだ。<PBR>
 逃げたところで、だれひとり困ることはないと、おそらく問題児が消えてくれたと重鎮達はホッとしただろうと思っていたのだが。<PBR>
 それなのに、なぜ。<PBR>
 僕を探すものなどいないだろうと、探すものがいるとすれば、それは彼以外にあり得ないと、そう確信していたというのに。<PBR>
「奏(そう)座りなさい」<PBR>
 父のすぐ下の弟、伯父にあたるマルグリット子爵が溜息をつきながら手で椅子を指し示す。<PBR>
 そのどこか疲れたような表情に、僕の心臓がより一層縮み上がった。<PBR>
 ゆっくりと、重厚感の勝るゴブラン織の座面に座る。<PBR>
 忘れ去られすでに香りの散ったコーヒーに手を伸ばし一気に飲み干す。<PBR>
 乾いていた喉が数時間振りの水分に潤った。<PBR>
「逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ」<PBR>
 眉間に刻まれた苦渋の証を指先で揉みほぐしながら、厳しい言葉を紡ぐ。<PBR>
 ああ、変わらない。<PBR>
 あの息苦しかった世界で散々味わったそれは、懐かしさよりも苦しさを思い出させるものだ。<PBR>
 出来損ないだと、直接にではなく告げてくる無慈悲なことば。<PBR>
 安易かとは思った。<PBR>
 逃亡先を母の故郷に選んだことは、確かに安直だったろう。それでも、母方の親族に接触することなくこの国で暮らそうとしたことは、それほど愚かな策ではないと思えたのだ。<PBR>
 事実、五年、逃げ切ったではないか。<PBR>
 彼とは違い、東洋の血を色濃く受け継いだ僕は、ほんの少しばかり彫りが深いだけで、この国の人間として違和感なく溶け込めていた。<PBR>
 髪も瞳も、母と同じ黒。<PBR>
 ねっとりとした漆のような色を、僕はあまり好きではなかった。<PBR>
 彼のような美しさはなくても、あの国で違和感のない金の髪や麦の穂のような色に憧れたものだった。僕のこの髪の色は、一族にとっては異端の色でしかなかったからだ。<PBR>
 そう。<PBR>
 今僕を凝視している重鎮達の誰もが、金か麦の穂色の髪を持っているように、一族の中では僕だけが異端だったからだ。<PBR>
「もっとも、我々から逃げ切ることなどできることではないだろうが」<PBR>
 単に、逃げたことが愚かだと、そう告げてくる。<PBR>
 わかっていない。<PBR>
 ぐるぐると渦を巻くのは、心の奥底に長らく押し込めていた吐き気だった。<PBR>
 僕は、逃げなければならなかったのだ。<PBR>
 そう。<PBR>
 逃げなければ。<PBR>
「お前の身柄は引き取った。戻りなさい」<PBR>
 どこに? などと茶化すことはできなかった。<PBR>
「お前にはお前の役割がある」<PBR>
 カラーレンズの奥の薄いグレイの瞳が、僕から逸らされることはない。<PBR>
「スペアの僕に何の役割があるというのです」<PBR>
 スペアの上に出来損ないの僕に。<PBR>
 口角がひきつれるように持ち上がってゆくのがわかった。<PBR>
「捨て置いてくださって結構ですよ」<PBR>
 どこか別の国にでも逃げようか。それとも。<PBR>
「そうもいかないだろう」<PBR>
 言外にお前の思惑など問題ではないのだと匂わせて、別の重鎮が口を出す。<PBR>
「クリュヴェイエ公爵がお前の現状を知らないとでも?」<PBR>
 その名に全身が震えるのを必死で堪えた。それでも、血の気が引いて行くのが感じられる。ぐらりと視界が大きく揺れて、ただでさえ青暗い闇がひときわ深さを増した。<PBR>
 ああ−−−と、現象を理解する。<PBR>
 最近は、より正確に言えば、ここ五年ばかり起きることのなかった貧血だった。<PBR>
 あの頃は、すぐに貧血を起こして意識を失っていた。それもまた、スペアとして出来損ないの謗りを受ける原因ではあったのだ。<PBR>
 だれひとりとして、それがどのタイミングで起きているのかを理解してくれるものなどいはしなかった。<PBR>
 いや、ただひとりだけ。<PBR>
 貧血の原因である当のクリュヴェイエ公爵だけが、底意地悪く喉の奥で笑いを噛み殺しながら僕を見ていた。<PBR>
 伯父の、どこか彼に似た薄いグレイの瞳が、視界で揺れている。グレイの瞳の奥に、かすかな憐憫を感じたのは気のせいだろうか。<PBR>
 首を振る。<PBR>
 この貧血は心因性のものだ。<PBR>
 青く暗く狭まってゆこうとする視界を、必死に元に戻そうと努める。<PBR>
「わかりました」<PBR>
 かろうじて椅子から立ち上がった僕が一歩を踏み出したその時、<PBR>
「なにがわかったというのかな?」<PBR>
 涼やかな中に毒を混じえた声が耳を射った。<PBR>
 錯覚ではなく、射たれたとそう思った。<PBR>
 ホテルの上等なカーペットの上に踏み出した足がバランスを崩したのを他人事のように感じていた。<PBR>
 とっさに伸ばした手で重厚な椅子の肘掛を掴む。<PBR>
 息が荒くなった。<PBR>
 苦しい。<PBR>
 ダメだ。<PBR>
 このままでは、捕まってしまう。<PBR>
 せっかく逃げたのに。<PBR>
 平穏な毎日を送っていたのに。<PBR>
 誰か。<PBR>
 誰か。<PBR>
 誰か。<PBR>
 救済を乞う声にならない叫びが、荒ぶる鼓動にリンクする。<PBR>
 けれど、誰が僕を助けるだろう。<PBR>
 鼓動と脈動とがからだを震わせる。<PBR>
 この五年、誰とも深く関わってはこなかった。<PBR>
 振り返ることさえも恐ろしかった。<PBR>
 それは、すぐに逃げ出すことができるようにとの配慮であったのか、それとも、こうして捕まることがわかってのことであったのか。<PBR>
 いつの間にか溢れ出していた冷や汗が瞼を濡らし、目を痛めつけてくる。<PBR>
 そんな視線の先に、彼がいる。<PBR>
 僕の顎をきつく掴んで、自分の視線に無理矢理に合わさせる。<PBR>
 首が痛い。<PBR>
「いつまでそんなぶざまなさまを晒している」<PBR>
 この私の弟ともあろうものが。<PBR>
 頬を張るような鋭い叱責に、涙がこみ上げてくる。<PBR>
 ああ本当にぶざまきわまりない−−−と。<PBR>
 引きずり上げるようにして僕を立たせた彼の、ほんの少しだけ乱れた淡い金色の髪の間から覗く薄いブルーグレイの眼差しが、凝視してくる。<PBR>
 端麗なと表現するも烏滸がましい美貌がそこにはあった。<PBR>
 犯しがたい威厳を放ちながらそこに存在する彼が、なぜ僕の兄なのか。<PBR>
 形良い鼻梁の下、薄いそのくちびるが、皮肉げな冷笑を刻んでいた。<PBR>
 誰が彼と僕とが双子の兄弟だと思うだろう。同じ歳だというのに、彼はすでに完成された貫禄を身につけている。外見だけではなく、内面からにじみ出るものまでもが、立派な支配者のものだ。それなのに、僕はといえば、二十五歳に見られることさえ少ない。そう、この島国にあってさえ、僕は幼く見られてしまうのだ。<PBR> 
 再び顎を持ち上げられ、<PBR>
「窶れたな」<PBR>
 言われて、顔を背けた。<PBR>
 嘲笑じみたそのことばに湧き上がってくるのは、羞恥以外のなにものでもない。<PBR>
 窶れた。<PBR>
「………」<PBR>
 反論もできなかった。<PBR>
 留学先の大学を勝手に退学して姿をくらませた僕は偽名を使ったために不法滞在者となった。そんな僕に出来る仕事はアルバイトくらいなものだったからだ。それも夜の仕事、接客は性格上無理だったため裏方だった。華やかな脂粉にまみれた虚飾の世界の陰の中でただ毎日を過ごしていた。<PBR>
 それでも、<PBR>
「離せ」<PBR>
 僕だとてもう子供ではない。<PBR>
 自分の力だけで生きてきたのだ。<PBR>
 密入国者が働いている店と摘発され、僕もまた不法滞在者として収監された。<PBR>
 できればこの国にいたかった。だから特別滞留許可を得ようとしたのが、仇になったのだろう。なぜ、本来二重国籍保持者であったのに、国籍選択の期限である二十二歳までに日本の国籍を得なかったのかと質問されても、答えようがなかったのだ。<PBR>
 国籍を得て、戸籍を持った途端、兄に見つかるのは火を見るよりも明らかだった。<PBR>
 今、現在のように。<PBR>
「まったく。なんとも嘆かわしい。この私の弟が、不法滞在者などという不名誉な犯罪を犯すとは」<PBR>
 涼しい表情で僕を否定しながら顎を握る手には力が込められてゆく。<PBR>
 砕かれそうな痛みに、眉をしかめる僕に、<PBR>
「奏、お前はこの私の、クリュヴェイエ公爵の実の弟であるという誇りを忘れたのか」<PBR>
と、糾弾の手を緩めない。<PBR>
 けれど、僕にはそんな誇りなどない。<PBR>
 僕の誇りは、十年前、この兄によって粉々に砕かれたのだから。<PBR>
「僕は、もう、クリュヴェイエのものじゃない」<PBR>
 者なのか、物なのかもあやふやに叫ぶ。<PBR>
「それは、あんただって知っているだろう! あんたが、あんなことを僕に強いなければ、僕だって、まだクリュヴェイエの名に誇りを持てただろうけど………」<PBR>
 十年前からの五年間が、どれだけ僕の誇りを粉々に打砕き続けたのか、この兄が知らないわけがない。<PBR>
 一族の重鎮たちが雁首を揃えていることさえ忘れて、僕は叫んでいた。<PBR>
 ぶざまだろうとなんだろうと、かまいはしない。<PBR>
「そんな名前なんか、捨てた! とっくの昔に! だから、あんたは、もう僕にとって」<PBR>
 喉が破れても構わない、と、できる限りの大声で叫んだせいでおかしなところで息が切れたけれど、<PBR>
 「赤の他人なんだ」と続けようとしたその刹那に頬に弾けたその衝撃に、部屋の空気が凝りつくよりも先に、<PBR>
「だまれ」<PBR>
 似つかわしくないひび割れたような声だった。<PBR>
 張られた頬の痛みさえ忘れるほどの、豹変だった。<PBR>
 十年前のあの出来事が脳裏にフラッシュバックする。<PBR>
 あの悪夢の五年間が、僕の動きを呪縛しようとする。<PBR>
「お前は私の物だ」<PBR>
 野蛮な劣情をはらんだ野獣の唸りのような声が、呪縛を解く。<PBR>
 踵を返した僕の足を、兄が払った。<PBR>
 まろんだ僕をひっくり返し両肩を絨毯に押さえつけ、猛々しいくちづけを落としてきた。<PBR>
 もがく僕の手を取ってくれる存在は、だれひとりとして現れず、僕はその場で十年前の再現のように双子の兄の暴虐に曝されたのだ。<PBR>
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 ***** <PBR>
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 兄の劣情をこの身に打ち込まれ、とめどない白濁を注がれつづけた。<PBR>
 重鎮たちのだれひとりとしてその場を動くことはなかった。<PBR>
 兄による弟への蛮行を認めるかのごとき空気がその場にあった。<PBR>
 なぜ。<PBR>
 僕はただの出来損ないで、クリュヴェイエには必要のない存在であるだろうに。<PBR>
 痛くて熱くて苦しいばかりの兄の熱に犯されつづける。<PBR>
 そんな僕の白くかすんだ視界に映る、重鎮たちの見えるはずのない影が、異形の形を取って見えた。<PBR>
 そうして兄が僕から身を離したとき、<PBR>
「確かに」<PBR>
と、誰かの声が聞こえた。<PBR>
「クリュヴェイエの血を確認いたしました」<PBR>
と、誰かがつづける。<PBR>
 これで名実ともにアンブロワーズ・響(ひびき)・クリュヴェイエがクリュヴェイエ公爵の当主であると承認いたしました−−−と。<PBR>
<PBR>
 アンブロワーズがクリュヴェイエでありつづけるために、テオドール・奏はアンブロワーズの受け皿となるのだと。<PBR>
<PBR>
<PBR>
<PBR>
「二度と逃げることは許さない」<PBR>
 兄の満足げな声が耳元で聞こえたとき、<PBR>
『逃げるなら、一生逃げ切れるようにするべきだ』<PBR>
 伯父の言葉が脳裏にこだました。<PBR>
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 ***** <BR>
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<BR>
 見てしまった。<BR>
 そう。<BR>
 遂に。<BR>
「汚らわしいっ!」<BR>
 吐き捨てるエドナの声が遠く聞こえる。<BR>
 わざわざ見る必要などありはしなかったのに。<BR>
 知りたくなかった。<BR>
 疑惑は疑惑のままで、そっとしておきたかった。<BR>
 そう。<BR>
 なのに。<BR>
 なのに、エドナは目の前に突きつけたのだ。<BR>
 ウィロウさまとアークレーヌさまの情事を。<BR>
 領主館にはさまざまな仕掛けがあるとは聞いたことがあった。<BR>
 ロマンス小説やゴシック小説などに出てくる古めかしくもおどろおどろしい館には、隠し部屋や拷問部屋、地下牢、脱出路などさまざまなものが存在した。けれど、まさか現にこうして自分がそんな場所に立つことがあるなど、考えたことはなかった。<BR>
 確かに、この館もまた、小説に登場するかのような古めかしい古城ではあるけれど。<BR>
 アークレーヌさまの寝室を覗き見する仕掛けがあるなど、そうして自分が今まさにはしたない覗きをしているなど、信じることができなかった。<BR>
 信じたくなかった。<BR>
 目の前で繰り広げられている忌々しくも隠微な光景を。<BR>
<BR>
<BR>
 ハロルドさんさえもが自室に引き取り寝入っただろう深夜、エドナと一つ寝台に入ったものの眠れずにいたわたしに、彼女がそっと囁きかけてきたのだ。<BR>
 これこそが、彼女の本当の目的だと言わんばかに。<BR>
「ケイティさまが抱えていらっしゃる疑惑を確かめませんか」<BR>
 まるで堕落を促す悪魔の誘惑のようなことばに抗うことさえしなかったのは、彼女がわたしの抱くその疑いを知っていたという驚きの為だったろうか。<BR>
 その真偽を確かめることができるのならと、彼女の誘いに乗ったのは、そう答えなければ彼女が部屋を出そうなそぶりを見せたからかもしれない。<BR>
 そうして、わたしはエドナに導かれるままに進んだのだ。<BR>
<BR>
 夜のしじまに私たちの足音が響く。極力忍ばせたそれは、カーペットの上ということもありまるで花びらを一枚ずつちぎっているようなささやかなものだったろうが、わたしには心臓に悪いほど大きく聞こえてならなかった。<BR>
 中央の大階段を過ぎて、北の領域に足を踏み入れたのは初めてだった。<BR>
 カーペットの色、家具のひとつとってしても、雰囲気がガラリと変わっていた。<BR>
 ああ、ここは、わたしの領域ではないのだと。<BR>
 黒地に異国風の模様が織り出されたカーペットの上を歩きながらそう思った。<BR>
 部屋の区切りごと、廊下の曲がり角ごとにガス灯がオレンジ色の光を丸く灯している。そのずっと奥に、アークレーヌさまのお部屋はあるのだとエドナは云う。<BR>
 左右に広がる廊下の上部に吊るされた古めかしい緞子がカーテン状に左右に纏められたその向こうに、廊下を横切った正面に、両開きの黒檀の扉があった。<BR>
 その前まで来て心臓がいっそうのこと小刻みな鼓動を刻む。<BR>
 苦しい。<BR>
「こちらです」<BR>
 ランプの灯さえ届かない闇からわたしを招く白い手や首につながる小さな顔が、まるで幽鬼じみて見える。<BR>
 いけない。<BR>
 こんなことしてはいけない。<BR>
 疑惑は疑惑のままにしておかなければ。<BR>
 わたしの疑惑はただでさえ、世をはばかるものなのだ。<BR>
 白日の下に晒されてしまっては、今まで通りの毎日を過ごすことはできないに違いない。<BR>
 警鐘が頭の中に響き、視界が揺らぐ。<BR>
 ぐらぐらと揺れる視界いっぱいに、エドナの手がわたしを招く。<BR>
 喉の奥に何かがこみあげてくる。<BR>
「こちらです」<BR>
と、しびれを切らしたらしエドナがわたしの手首をつ噛んで引っ張る。<BR>
 乱暴なと思う余裕さえなかった。<BR>
 そのままどうやったのか、ぽっかりと開いた小さな空間に引き込まれた。引きずられるようにして闇の中を進む。<BR>
 そうして進めばやがて行き止まりにたどり着く。<BR>
「この壁です」<BR>
 言いながらエドナが先に覗き、しばらくの沈黙の後示した場所を覗き込むようにと位置を変えられた。<BR>
 さぁ−−−と、声を出さずに促すエドナに、いくばくかの躊躇も伺えなかった。だから、ためらうことなく覗いたのだ。<BR>
<BR>
 見えたものを脳が理解しても、心が拒否した。そんな経験をしたのは初めてで、わたしは自分の足場が硬い床でないような不安に襲われていた。<BR>
 不安?<BR>
 そんな生易しいものではなかった。<BR>
 不安を越えて、その先にある何か。<BR>
 絶望? などというものでさえないような気がした。<BR>
 少しずつそれが何なのかを心が受け入れた後、強かなまでの痛みが襲いかかってきた。<BR>
 その痛みが錯覚だとわかっていたけれど、それでも、痛みはやはり痛みのままだった。<BR>
 閨ごとの最中に灯がついていることが信じられなかったけれど、ベッドサイドの灯だけで見ることができるものには限界があるのだと、わたしは知った。<BR>
 オレンジ色の淡い光の中繰り広げられているのは、あまりにもあられもない様相だったのだ。<BR>
 音が聞こえないことが幸いだったのかもしれない。<BR>
 燭台の灯に映し出されたのが上半身だけだったことがまだしもだったろう。<BR>
 全身が見えていたなら、わたしはこの場で泣き叫んでいたに違いないのだから。<BR>
 そう。<BR>
 そこには見たことがないほどに艶やかに乱れたさまのアークレーヌさまと、ウィロウさまの姿があったのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 口を両手で隠した。<BR>
 凝りついたようになっていた声帯に、それはなんの意味もなかったけれど。<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまを抱き起こす。<BR>
 婉然と微笑むアークレーヌさまが両手をウィロウさまの首にかけた。そんなアークレーヌさまの片手には何かの紐のようなものが見えた気がした。<BR>
 それ以上見ていることはできなかった。<BR>
 父と子の間で繰り広げられるおぞましい行為なのに、そのはずなのに、わたしは、唾棄したい思いと相半ばする思いに襲われていたのだから。<BR>
「ケイティさま」<BR>
 そっと耳元で呼びかけられて、震えた。<BR>
 我に返ったわたしを、ぐいぐいと引っ張ってエドナが隠し部屋を出て行く。<BR>
 引っ張られるままに、気がつけば自分の部屋に戻っていた。<BR>
<BR>
<BR>
 
いい加減タイトルを変えたいんだけど、思いつかない。一応候補はあるが、あまりにもあまりなので。

 今回は長目。
 書く気はあるんだけど、それがいろいろ停滞してるのにかかってるのが問題点。
 そう、いろいろ書き加えたいのだ。
 が、ちょっと腰椎狭窄が風邪のせいで再発中なのが辛い。咳がすごかったのでそのせいだと思うんだけどね。
 ついにコルセットのお世話になってしまったxx

 長時間座ったりするのがしんどいのがね………。

 あとがきになってないな、これ。
13
<BR>
<BR>
 狂人を見るような視線だと思った。<BR>
 それはすぐに消えたけれど。<BR>
 ああ。<BR>
 やっぱり。<BR>
 失望だろうか、諦念だろうか。<BR>
 エドナの目は、いつも通りの色を宿していたけれど、瞬間的な感情の発露を見逃すことはなかった。<BR>
 それでも。<BR>
 胸の内に溜まっていた恐怖を口にしたことで、わたしの心は少しだけ晴れた。<BR>
 くすぶることは他にもるけれど、今一番の恐怖は、”あれ”のことだったから。<BR>
「誰かが一緒にいれば、現れないのですよね」<BR>
 ゆっくりとエドナが口を開いた。<BR>
「そうよ」<BR>
「夜も、出てくるのですか?」<BR>
 一番恐ろしいのは、夜だ。<BR>
「そう」<BR>
 だから本当は………。<BR>
「公爵さまはご一緒では」<BR>
 言いかけて、はしたないことと口に手を当てるエドナに、<BR>
「お忙しい方ですから」<BR>
 そうとだけ、告げた。<BR>
 それだけで、腑に落ちることがあったのか。ひとりうなづくエドナに、顔が熱くなるような心地を覚えた。<BR>
 閨事情の一端を自ら漏らしてしまったことに、遅ればせながら気付いたのだ。<BR>
 しばらくの居心地の悪い空気に、鍵盤を見つめた。<BR>
「でしたら、わたしがケイティさまとご一緒すればいいのでは?」<BR>
 思わぬ提案に、エドナを見上げた。<BR>
「そうですわ。わたしがケイティさまと一緒のベッドで眠れば問題ありません」<BR>
 そうすれば、ケイティさまは安眠できましてよ!<BR>
 名案だと手を打ち合わせるエドナに、<BR>
「同じベッドで眠るの?」<BR>
 微妙な表情になった自覚があった。<BR>
「女同士ですもの。おかしなことではありませんでしょう?」<BR>
 それは、わたしのベッドは広いから、エドナの三人くらいなら余裕で一緒に眠ることができるだろうけれど。<BR>
 故郷にいたころには、仲の良かったお友達と同じベッドで眠ったことくらい何度もあるけれど。あれは、気心の知れたお友達だったから、できたことなのだ。と、そこまで考えて、自分がエドナをそこまで親しい存在だと思っていないことに気づいた。<BR>
 それに。<BR>
 それでは根本的な解決にはならないだろう。<BR>
 わたしの望みは、”あれ”が現れなくなることなのだから。<BR>
 ”あれ”が超自然的な存在だとわかっていたから、本当であれば牧師さまにでも相談すればよかったのだろう。考えなかったと言えば嘘になるけれど、どうしても踏ん切りをつけることができなかったのだ。それには、この教区の牧師さまがご高齢であるということが原因だったけれど。<BR>
 穏やかでお優しそうな牧師さまに、あの恐ろしいものと対峙していただくなど、考えられなかった。<BR>
 だから、<BR>
「そうね」<BR>
と、了承したのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「母上どこに行くのです」<BR>
 手を引かれて歩く。<BR>
 足取りも軽く、踊るように歩く母の歩調に合わせるのは、僕には難しかった。<BR>
 遅れそうになるたびに駆け足になる。<BR>
 今がいつなのか、わからなかった。<BR>
 ここがどこなのか、どの領域なのか、階なのかさえもわからないままに。<BR>
 左右ずらりと並んだドアの間、壁のロウソクが灯っていてさえも薄暗い廊下を、ただ幼子のように母に手を引かれて。<BR>
 夢だと思った。<BR>
 いつもの、縊れ死にした刹那の恐ろしい表情をした母ではなく、楽しそうな微笑みをたたえた母。<BR>
 そんな表情が僕に向けられた記憶など、ないけれど。<BR>
 しゃらりしゃりりと、どこかでドルイドベルが独特の音色を奏でている。<BR>
 手首に巻かれた赤いレースが、恐怖を与えてくる。<BR>
 どこに行くのかわからないというのに、これがあるということは彼女は自分に憑依するつもりなのだ。<BR>
 恐怖と、それを受け入れる己に対する諦観と。<BR>
 不意に投げ出されるように、手を離された。<BR>
 まろび、膝を打ち付ける。<BR>
 カーペット越しの廊下の感触にしたたかな硬さを感じて、生理的な涙がにじむ。<BR>
 霞む視界に、何かを指し示す母の姿が見えた。<BR>
 琥珀色の光が降り注ぐそこ。<BR>
 暖かな光の海の中に、母以外の誰かが立っていた。<BR>
 ガウン姿の女性は<BR>
 あの栗色の髪は。<BR>
 ドクリ。<BR>
 嫌な鼓動だった。<BR>
 いつの間にか母がすぐそばで僕に囁きかけてくる。<BR>
 死ねばいい−−−。<BR>
 ウィロウさまの子供を産む女なぞ、死ねばいい−−−と。<BR>
 わたくし以外がウィロウさまに抱かれるなど、許さない−−−と。<BR>
 巻きつくリボンが、手首に食い込んでくる。<BR>
 たとえ、おまえでも、許さない−−−と。<BR>
 きつく。<BR>
 きつく。<BR>
 憎い。<BR>
 憎い。<BR>
 憎くてたまらない。<BR>
 死んでしまえ−−−と。<BR>
 頭の中にこだましつづける。<BR>
 笑いすら孕んだその声が、いつしか僕自身のものへと変貌を遂げて−−−。<BR>
 そうして。<BR>
<BR>
<BR>
 僕の手が、僕の意思に反して、伸ばされてゆく。<BR>
 手にするのは、赤。<BR>
 僕の視界には、白く細い喉頸。<BR>
 鮮やかに禍々しく色を見せるのは、一本の赤。背徳的な戯曲の悲劇のヒロインに与えられた刑罰への示唆のような赤。<BR>
 そこまで認めて、ようやく僕は己の行動の意味を知る。<BR>
 手から力が抜けて行く。<BR>
 力をなくした手から逃げる蛇のようにするりと落ちた赤いリボンが、床の上で赤黒い溜まりを形作る。<BR>
 振り返りざま僕を見たのは、驚愕に見開かれた双眼。前髪に隠れて、まるで曇天の空のよう。<BR>
 ゆっくりと閉じられて、倒れ落ちた。<BR>
 ああ!<BR>
 なにを。<BR>
 僕は、なにを。<BR>
 憎いと。<BR>
 死んでしまえと。<BR>
 手に残るのは、リボン越しに伝わってきた鼓動。<BR>
 たおやかな白い喉頸には似つかわしくない、したたかな筋肉の感触。<BR>
 僕は、僕の足元に倒れる彼女を見下ろす。<BR>
 殺したのだと。<BR>
 この手で、彼女を殺してしまったのだと。<BR>
 だから。<BR>
 僕は。<BR>
「ち………ちち、うえ………………」<BR>
 こぼれ落ちた叫びはつぶやきにもならず。<BR>
 頬を、耳を、頭を、両の手でかきむしる。<BR>
 彼女の感触を拭い去るように。<BR>
 父を呼びながら。<BR>
 父ならば僕を助けてくれると、足が、一歩を踏み出した。<BR>
 その時。<BR>
 絹をつんざくような悲鳴が聞こえた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 部屋だけじゃなく、視線を感じて振り向くと、薄暗い影からわたしを恨めしげなねつい視線で睨みつけているそれを見つけてしまう。<BR>
 落ち着ける場所が、なかった。<BR>
 どこにいればいいのだろう。<BR>
 ただ、わたし以外にだれかがいればそれは姿を見せることがなかったから、わたしはいつも以上にエドナに頼ってしまっていた。だって、悲しいけれど、ウィロウさまは滅多に私のところにいらしては下さらなかったから。<BR>
 それが、あのことの原因のひとつになったのだろうか?<BR>
 まさか、エドナがあんなことを考えていたなんて、わたしは思いだにしなかった。<BR>
<BR>
<BR>
「奥さま、どうかなさったのですか?」<BR>
 最初に水を向けてきたのは、エドナだった。<BR>
 外装に傷がついたピアノの代わりにと、ウィロウさまが取り寄せてくださったアップライトのピアノの蓋を開けた時だった。<BR>
 届いたばかりのそれからは、塗装の匂いや木の匂いが漂っていて、ほんの少しだけわたしの心を慰めてくれた。<BR>
 黒い外装ではなくて白と金の優美な外装のそれは、ウィロウさまご自身が選んでくださったのだと、ハロルドから聞いていた。<BR>
 最新型のピアノだということで、鍵盤の数は八十八ある。その滑らかな白と黒の感触を楽しんでいた時に、不意にエドナが話しかけてきたのだった。<BR>
 思いつめたように、心配そうに。<BR>
 だからと言って、わたし以外に見えない、かつてはひとであったろうそれのことをどう伝えればいいのだろう。<BR>
 どうしてあんなにも恨まれ憎まれなければならないのか、わたしには皆目見当がつかなかったのだ。<BR>
 誰なのかすらわからないのだから、当然と言えば言えた。<BR>
 ただ、記憶の片隅に、ほんの少しだけ引っかかるものがあったのだけれど、それをうまく捕まえることができなかったのだ。<BR>
 だから、わたしは、このことをウィロウさまにも言ってはいなかった。<BR>
 ただでさえ、以前のことがまだ解決していないのだ。この上こんなことでお忙しいウィロウさまのお手を煩わせることはいけないことだと、自分を抑えていたのだけれど。<BR>
 努めて、平静を装ってはいたつもりなのだけれど、<BR>
「どうしてそう思うの?」<BR>
 ピアノの椅子をクルリと回して、からだごとエドナの方を向いた。<BR>
 ティーテーブルの上で数冊の楽譜を広げていたエドナが、<BR>
「お顔の色がお悪いのですもの」<BR>
と、わたしの方を見て言った。<BR>
「侍女たちも、皆心配しておりましてよ」<BR>
 そのことばに、己の自制心が思っていたよりも脆いものだったのだと思い知らされる。<BR>
「そ、う………」<BR>
 適当な鍵盤をひとつ指で弾く。<BR>
 E音が澄んだ音色を響かせる。<BR>
 エドナから顔を背けるようにして全身でピアノに向かい、心の鬱屈を打ち消すようにメロディを掻き鳴らした。<BR>
「”Twinkle, twinkle, little star”ですね」<BR>
 そう言われて、思わず、<BR>
「気分は”Ah! vous dirai-je, maman”(ああ、お母さん、あなたに申しましょう)なのだけれど」<BR>
と、言っていた。<BR>
「蓮っ葉ですよ」<BR>
 前世紀に流行ったシャンソンの歌詞を思い浮かべたのか、エドナがたしなめてくる。<BR>
「Peut-on vivre sans amant ? 」<BR>
 恋人なしではいられないの?<BR>
 最後のフレーズを口ずさむ。<BR>
 −−−ウィロウさまなしでは、いられないの。<BR>
 そう。<BR>
 我慢しているけれど、わたしは本当に、ウィロウさまが大好きなのだ。<BR>
 本当は、いつだって、お側にいたい。<BR>
 いつだって、お声を聞いていたい。<BR>
 いつだって、抱きしめていてほしい。<BR>
 そう。<BR>
 わたしが求めているほどにウィロウさまがわたしのことを想ってくださってはいないことは、知っているけれど。<BR>
 ウィロウさまが心の底から求めているのがどなたなのか、忌避すべき疑惑と共にほぼ確信してはいるけれど。<BR>
 それでも。<BR>
 こんなにも不安でたまらない時には、側にいてほしい。<BR>
 そう思って、何が悪いだろう。<BR>
 ずっと、ずっと我慢してきたのに。<BR>
 そう。<BR>
 本当は、なりふりかまわずに、すがりつきたい。<BR>
 ずっと、一緒にいてください−−−と、泣き叫びたい。<BR>
 ウィロウさまなしでは、いられないのだ。<BR>
 ひとり寝のベッドの中で、忌まわしくもあらぬこと、あってはならぬことを想像してしまうほどに。<BR>
 くちづけてくださいと。<BR>
 触れて、ください−−−と。<BR>
 その方ではなく、わたしを、見てください。<BR>
 わたしを抱いてください−−−と。<BR>
 はしたないことと全身が火照ってしまうけれど。<BR>
 このお腹の中にいる子ともども、愛してくださいと。<BR>
 泣き叫んでしまいそうになる。<BR>
 わたしだけのものになってください! と。<BR>
 ほとばしり出そうになるのは、これまでわたしが感じたことのない情動だった。<BR>
「本当に、どうなさったのですか?」<BR>
 心配そうな声に励まされるような気がした。<BR>
「怖いの」<BR>
 あの幽鬼のことを口にすればおかしくなったと思われそうで、<BR>
「怖くてたまらなくて………だから、ウィロウさまにお会いしたいの」<BR>
 理由をぼやかす。<BR>
 けれど、<BR>
「なにが、そんなに恐ろしいのです?」<BR>
 誤魔化されてはくれないエドナを、まるであの幽鬼のようにぞろりと恨めしげに睨み上げて、<BR>
「信じないわ」<BR>
 睨めつける。<BR>
「そんなこと!」<BR>
 ありません、あるわよ、と、何度も押し問答を繰り返す。<BR>
 どれくらい繰り返しただろう。<BR>
 互いに肩で息をするほどに続けて、最終的に顔を見合わせて苦笑する羽目になった。<BR>
「本当に信じてくれる? 見えないわよあなたには、きっと」<BR>
「見えなくても、信じることはできますわ」<BR>
 見下ろしてくる榛色の目を見上げて、<BR>
「わかったわ。決して、わたしの気が触れたなんて思わないで」<BR>
 そうして、わたしはエドナに話して聞かせたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 足元を凝視したまま悲鳴が喉の奥に凍りつく。<BR>
 まだ午後になったばかりだというのに。<BR>
 ここは、自分の部屋だというのに。<BR>
 一体、自分に何が起きているというのか。<BR>
 手紙が足元に落ちてゆく。<BR>
 頭の中にはただ”どうして”という疑問ばかりが次から次へと途切れることなく湧きあがるばかりだった。<BR>
 薄い封筒が、床に広がる赤い液体に染まってゆく。<BR>
 懐かしい故郷の友人からの手紙が見るも無残に赤く染まり果てる。<BR>
 侍女が控える、控えの間と呼ばれる部屋を抜けて自分の部屋のドアを開けた瞬間、水音がかすかにした。<BR>
 異臭がわずかな時差の後に鼻腔に充満した。<BR>
 目の前に広がるのは、赤だった。<BR>
 血のような、赤。<BR>
 ほんとうの血なのかもしれない。<BR>
 この鉄錆たような鉄臭いような生臭い匂いには記憶があった。<BR>
 どれぐらいそうしていたのか。<BR>
 嘔吐きあげそうになるような粘つく水音に顔を上げた。<BR>
 そうして。<BR>
 わたしは、そこに、見たのだ。<BR>
 赤いドレスを身にまとい、恨めしそうにわたしを見ている”それ”を。<BR>
 ”それ”が、生きていないことは、一目でわかった。<BR>
 恨みがましそうな苦しそうな上目遣いの三白眼。<BR>
 だらりと長く伸びた青紫の舌のせいか下がった口角。<BR>
 倍ほどに伸びて細長い首には、苦しさのあまり引っかいたのだろう傷跡がおびただしくも生々しい。<BR>
 そうして、その傷跡を作ったのだろう、いびつにひび割れた、指の爪には、赤い血が。<BR>
 悲鳴は出なかった。<BR>
 ただ、生理的な嫌悪からか、どうしようもない恐怖からか、涙があふれた。<BR>
 逃げなければ。<BR>
 ”どうして”という疑問を押しのけてわずかばかり建設的な思考が蘇ったのは、その超自然的なものの目がぐるりと音立てるかのように動いてわたしを見たからだ。<BR>
 それと同時に、その手がわたしに向かって伸ばされたからだ。<BR>
 下がった口角が、不自然に持ち上がっていったからだった。<BR>
 憎々しげに、心底にくい相手をおどかせたと言わんばかりの醜怪な笑い顔に、わたしの足がようやく動いた。<BR>
 それを皮切りに、手が、からだが、全身が。<BR>
 背後に数歩どうにか動けた。ドアの後ろにいる自分に気づいて、思いっきりドアを閉めた。<BR>
 それだけで、全身が汗まみれになっていた。<BR>
 ドアに背中を預けたまま、わたしはその場に腰を落とす。<BR>
 そんなわたしに、いつからいたのか、侍女が声をかけてきた。<BR>
「どうなさいました」<BR>
 あまりに平凡な、それまでの恐ろしい情景と懸け離れたことばに、差し出されてきた侍女の手にすがるようにして立ち上がりながらヒステリックな笑い声をあげていた。<BR>
 ほとばしる笑い声を止めることができなかったのだ。<BR>
 
<BR>
<BR>
 夜。<BR>
 ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。<BR>
 何もない夜に、不意に僕は目覚めた。<BR>
 誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。<BR>
 おそらく、その感覚は正解だったのだろう。<BR>
 心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。<BR>
 間違いなく暗い闇の中に。<BR>
 ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。<BR>
 それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光のようなものをまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。<BR>
 いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に襲われる。<BR>
 起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が身近に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。<BR>
「ははうえ………」<BR>
と。<BR>
 乾いた口でそう呟いたはずだった。<BR>
 けれど、声は出ない。<BR>
 くちびるは動かない。<BR>
 惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。<BR>
 全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。<BR>
 くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。<BR>
 青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、<BR>
 ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。<BR>
 実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。<BR>
 乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。<BR>
 その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。<BR>
 眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。<BR>
 首筋に触れてくる尖った爪先の感触に、あの遠く幼い日に絡みついてきた母の手を思い出す。<BR>
 僕を殺そうとした、母。<BR>
 それまでも、間違いなく、僕を甚振りつづけた、母のたおやかな手。<BR>
 震えは止まらない。<BR>
 涙は止むことなく、視界を遮る。<BR>
 それだえもが怖かった。<BR>
 次に何が起きるのか、目で見ることができないことが。<BR>
 怖くて、怖くてたまらなくて。<BR>
 悲鳴をあげることさえできない自分が情けなくてならなくて。<BR>
 ぞろりと湿った何かが僕の頬に触れた。<BR>
 それが何なのか考えるまでもなく。<BR>
 それと同時に、僕の首をきつくきつく締め上げてくる。<BR>
 綺麗に整えられたピンク色の爪が、僕の喉頸を突き破る。<BR>
 そんな怖気さえ覚える情景が、脳裏をよぎって、そうして僕は意識を失ったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
「横になられませんか」<BR>
 トーマスの言葉に、僕は僕がいつの間にかカウチに座ったままで眠っていたことに気づかされた。<BR>
「いや、いい」<BR>
 少し身じろいだはずみで膝に開いた画集が音を立てて床に落ちる。<BR>
 それを拾い上げるトーマスのつむじを通り越して、窓の外を僕は眺めた。ピンクや白の花をつけ始めた沈丁花や椿などが見える。灰色の空の下、花々の彩りだけがとても優しく感じられた。カウチから立ち上がった僕は窓辺のカードテーブルの上のスケッチブックを取り上げて、新しいページを開いていた。<BR>
 クリーム色の紙の上に、鉛筆で線を描いてゆく。<BR>
 そう。<BR>
 花を描いていたはずなのだ。<BR>
 部屋の窓から見える沈丁花や椿を。<BR>
 それなのに、ここは。<BR>
 足元にコツンと触れてくる感触に視線を向けると、そこには黒猫がいた。<BR>
「おまえ、僕はここで何をしているんだろう」<BR>
 猫を抱き上げ、金の目を見やりながら呟く。<BR>
 記憶は、ない。<BR>
「ここは、北の領域だろうか?」<BR>
 問わず語りに、独り言散る。<BR>
 薄暗く埃っぽい廊下は屋根裏だろうと見当をつける。人の気配がないところから鑑みるに、北の領域に間違いないだろう。北の屋根裏は基本的に物置に使われているはずだった。<BR>
 くたびれて薄っぺらい絨毯を踏みながら、まっすぐに伸びる廊下を歩いた。<BR>
 暗い。<BR>
 以前はここに来れば落ち着いたというのに。<BR>
 今では、背筋を撫で上げてくるのは、ひりひりとする緊張感だった。<BR>
 僕の足音に混じって、心臓の音が大きく聞こえる。<BR>
 少しでも何かにすがりたくて、腕の中の猫を意識した。<BR>
 喉鳴りが聞こえる。<BR>
 三つの音にだけ意識を集中させて、光を求めて僕は主階段を目指した。<BR>
<BR>
<BR>
「父上、リボンを下さい」<BR>
 震える声で、そう懇願する。<BR>
 両手首さえ自分で父の目の前に差し出した。<BR>
 背筋が冷たい。<BR>
 全身が震える。<BR>
 父の、僕を見下ろしてくる眼差しが、訝しげなものになる。<BR>
 僕の部屋で、僕の寝台の上で何がこれから行われるのか、知らないわけもない。<BR>
 ただ、どうしてか、父はリボンを使おうとしなくなった。<BR>
「なぜだ」<BR>
 父の黒い髪が、その動きにかすかに乱れる。<BR>
「そういうのが好きになったのか」<BR>
 カッと全身に朱が走った。<BR>
 父の黒紺色の目を見ることができなくなる。<BR>
 なぜ、父は………。<BR>
「お願いですから」<BR>
 母が見ているのだ。<BR>
 見ていて、どうしてリボンを使わないと、後で僕を責める。<BR>
 リボンがなければ、僕になり代わることができないのだからと。<BR>
 その身を明け渡せと。<BR>
 父は、母のものなのだから、と。<BR>
 そのあまりに当然の理を僕が破ったと。<BR>
 死んだ母が、死んだ時の姿で、僕を責める。<BR>
 何度首を絞められただろう。<BR>
 母の尖った爪が肉を破る感触さえリアルなのに、朝が来れば、後形など露ほども残ってはいない。<BR>
 だから、誰も、気づかない。<BR>
 僕以外、母の執着に、未練に、気づくものはいない。<BR>
「わかった。ハロルド」<BR>
 え? と、思った。どうしようもなく昂った熱が一気に冷めてゆく。<BR>
「何をいまさら」<BR>
 平然と差し伸べた父の掌の上に、あの赤いレースのリボンが載せられる。<BR>
 この関係は罪以外のなにものでもないのに。本来なら、あってはならないことなのに。<BR>
 なぜ、そんなに平然と他人を−−−と。<BR>
「ハロルドたちが把握していないはずがないだろう」<BR>
 ”たち”と敢えて言うからには、執事たちはみんな知っているということになるのだろう。<BR>
「把握した上ですべてを取り仕切るのが仕事だ」<BR>
 さあ、手を出しなさい−−−と。<BR>
 ドルイドベルを鳴らしながら、父が僕に命じる。<BR>
「これは、お前の望んだことだ」<BR>
と。<BR>
 僕の手首に絡みつく赤いリボンの先で鳴り響くかすかな音色が、母の歓喜の笑い声に思えて僕は目をつむった。<BR>
「たとえば、それが」1回目をアップ。

 9月からちっくりちっくり書き付けてきていたもの。
 なんか、異世界転移もののチョロインが一周りか半周りして妙にかわいそうになって思いついた作品。
 なので、本来主人公をチョロインにすべきなんですが。
 チョロイン、というか、悪役令嬢もののヒロイン改めチョロインって、あまりにこうあからさますぎて好きになれないのは変わらないので。
 なんでもう少し利口に立ち回らないんだろうという歯痒さがあることはある。
 そんなに逆ハーレムっていい?
 その逆ハーレムが、実は周囲の憐れみ故だとしたら………それなのにいい気になってる! と、脇役希望の主人公がつっつくつっつく。脇役希望だったら、あんたさんも黙っとりなされ。
 色々考えると、自業自得ではあるけど、チョロインだって寄る辺ない立場にあるんだから、強気にやってないとやってけないんじゃないかなぁ? なんて思ったんですよね。だって、一度立場を自覚しちゃって周りに憐れみこうたりしたら、足場崩れそうじゃない? だから頑張って、私はヒロインなんだから! って強気に出たのががちょっと妙な方向に向いちゃってから回ってるのがかわいそうすぎて。
 なんだろう、昔の根性ものの空回りする主人公に対する歯痒さに似てるかもしれない。恥ずかしいというか、なんというか。

 だものだから、チョロインは書こうとすると痒くなるので、主人公がチョロインにはならない。
 あくまで、脇役なんだけど………。ううむ。どうしようかなぁ。
 チョロイン救済のつもりが別のチョロイン作っちゃってる気がする。ううむ。
<BR>
<BR>
 けれど。<BR>
 この状態は、どうしようもなく僕の心を痛めつける。<BR>
 黒猫の金の目がろうそくの明かりを反射する。<BR>
 苦しい。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 憎くてたまらなくて。<BR>
 消えて欲しくてならなくて。<BR>
 いっそ、死んでしまえばいいのにとすら思った相手が、足元に倒れている。<BR>
<BR>
<BR>
 あれがいけなかったのだ。<BR>
 母の介入のない、父とのセックス。<BR>
 そこに己のいないことこそが、母の心を傷つけたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 夜。<BR>
 ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。<BR>
 何もない夜に、不意に僕は目覚めた。<BR>
 誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。<BR>
 おそらく、その感覚は正解だったのだろう。<BR>
 心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。<BR>
 間違いなく暗い闇の中に。<BR>
 ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。<BR>
 それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光をまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。<BR>
 いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に、怖に襲われる。<BR>
 起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が短に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。<BR>
「ははうえ………」<BR>
と。<BR>
 乾いた口でそう呟いたはずだった。<BR>
 けれど、声は出ない。<BR>
 くちびるは動かない。<BR>
 惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。<BR>
 全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。<BR>
 くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。<BR>
 青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、<BR>
 ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。<BR>
 実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。<BR>
 乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。<BR>
 その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。<BR>
 眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。<BR>
 
なんか納得いかないのですが。

<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ふと気がつくと、思いもよらない場所にいる。<BR>
 そんなことが日に何度も繰り返された。<BR>
 そういうときにはどこからともなく黒猫がすり寄ってきていた。<BR>
 それを抱き上げ、喉を撫でてやる。<BR>
 猫の喉鳴りの音色が、僕の不安を癒してくれる。<BR>
 そんな気がした。<BR>
 あの夜、義母上に譲ったピアノが傷つけられたあの日の夜、僕はまた父に抱かれた。<BR>
 レースのリボンもなく、ドルイドベルの独特の音色もなく、ハロルドの先達さえもなく。そんな突然の来訪に、僕はあっけにとられていた。<BR>
 僕を呪縛するものもなく、僕は最初から”僕のまま”で父に抱かれた。<BR>
 それは、初めてのことだった。<BR>
 その時僕の心に芽生えたものが、何であったのか。<BR>
 その事実にこそ、僕は打ちひしがれたのだ。<BR>
<BR>
 心に芽生え渦をなしたそれは、紛れもなく、父に抱かれることによる安堵と歓喜だった………。<BR>
<BR>
 寝台に横たわった父の脇にすっぽりと収まる安堵にうろたえながら全身を強張らせるというわけのわからない状態に陥っていた僕の耳に、<BR>
「お前のピアノが傷つけられたことを知っているか」<BR>
 ふと思い出したといった風情で父が囁いてきた。<BR>
「………もう、僕のピアノではありません」<BR>
 あれは、僕が手を下したわけではない。<BR>
「あれは、義母上に譲ったのですから」<BR>
 もう、僕のものではないのだ。あの滑らかな白と黒の鍵盤も、落ち着いた色合いを見せはじめていた足元のペダルも、美しいカーブを描くあのフォルムさえ、もう、僕のものではない。<BR>
 父の鼓動を子守唄のように白川夜船(being fast asleep)へと誘われようとしていた僕は、<BR>
「それでも、お前がピアノを傷つけるはずがない」<BR>
 その一言に、己の耳を疑った。<BR>
 鼓動がせわしなくなってゆく。<BR>
 睡魔などどこかへと消え失せた。<BR>
「ちちうえ?」<BR>
 無様にもかすれた声だった。<BR>
「ああ。もちろん、お前を疑っているわけではない」<BR>
 起き上がろうとする僕を片手で押さえつけ、父は僕を凝視した。<BR>
「おまえは、やさしいからな」<BR>
 それが、別の意味に聞こえたのは気のせいだろうか。<BR>
「あんな乱暴なことをするはずがない」<BR>
 父の手が、僕の乱れたままの髪を撫で付ける。<BR>
 そうだろうか?<BR>
 父よりも身近にいるといっても過言ではないトーマスも、心のどこかで僕を疑っていた。<BR>
 疑惑は拭い去れてはいないのだ。<BR>
 疑惑は疑惑に過ぎないが、そのあやふやさに僕はすがりついている状態だ。<BR>
 あの油照りの海のような瞳の奥に、トーマスでさえもかすかな不信を押し隠していたように感じた。<BR>
 何と言っても、僕が僕自身の行動に自信を持てないでいるのだ。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 泣くつもりはなかった。<BR>
 泣いているつもりなど、もとより。<BR>
 それでも、<BR>
「泣くな」<BR>
と。<BR>
 父のことばに、それを知った。<BR>
「お前とふたりのときに、野暮(booloishness)な話をした。忘れろ」<BR>
 目元を拭われ、そのまま目を覆われるように手を置かれた。<BR>
 父の、大人の男の大きな掌が、僕の視界をゆったりと遮る。<BR>
 父のもたらす闇は、暖かく、愚かだと自嘲しながらも、安堵せずにいられなかった。<BR>
「何があろうとも、悪いのは私だ。お前は気に病む必要などない」<BR>
 つぶやきが僕の子守唄になった。<BR>
<BR>
<BR>
 けれど。<BR>
 この状態は、どうしようもなく僕の心を痛めつける。<BR>
 黒猫の金の目がろうそくの明かりを反射する。<BR>
 苦しい。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 憎くてたまらなくて。<BR>
 消えて欲しくてならなくて。<BR>
 いっそ、死んでしまえばいいのにとすら思う相手が、足元に倒れている。<BR>
 
ということで、アークレーヌもちょこちょこ変えたのですが大幅な変更がなかったので、ケイティの方をこちらにアップ。
 ちょこちょこだけかな。それプラス少々進んだかな?
 なんか、ウィロウがますますわからん男になってる気がする。

<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 一通の手紙がわたしの手から落ちた。<BR>
「ピアノが………」<BR>
 どうして。<BR>
 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。<BR>
 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。<BR>
 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤を軽く叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。それよりもなによりも、以前の持ち主がどれほどこれを大切にしていたのか、それを偲ぶことができる滑らかな鍵盤の手触りだった。<BR>
 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。<BR>
 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。<BR>
 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。<BR>
 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。<BR>
 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。<BR>
 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。<BR>
 仕事上のミスに震える心が静まったことがあったと、仲良くしていた相手とのすれ違いに心が張り裂けそうな時、怒りに煽られていた時、偶然耳にしたピアノの音色にどれだけ心が安らいだだろうと、しゃべってくれたのは侍女たちだった。<BR>
 御曹司であるからピアニストになることはないだろうけれど、それでも、アークレーヌさまのピアノを偶然にではあれ聞くことは彼女たちの間では”ゴールデン”と囁かれ、ひそかな楽しみとなっていたという。<BR>
 段違いに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。<BR>
「痛い………」<BR>
 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。<BR>
 エドナがいなくてよかった。<BR>
 そんなことを思う自分にハッとする。<BR>
<BR>
 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。<BR>
<BR>
 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。<BR>
「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」<BR>
 そう笑って見せたわたしに、<BR>
「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」<BR>
と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。<BR>
 そう。<BR>
 仕事なのよね。<BR>
 お友達でいる仕事。<BR>
 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。<BR>
 エドナは無意識だろうけれど、だからこそ仕事と面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。<BR>
 彼女の部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。<BR>
 どうしよう。<BR>
 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。<BR>
 今朝の散歩のお叱りというか、注意は侍女長から受けた。<BR>
 曰く、適度な散歩はいいが、長時間ひとりでなどと、貴族の奥方として、それ以前に身ごもっている女性としてありえませんと。<BR>
 ヒースの荒野と羊の放牧地との境目の細い道。<BR>
 あそこでなら、なにか解決策が浮かぶのではないかと思えるのに。<BR>
 途方にくれる。<BR>
 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。<BR>
 その思いがだんだんと強くなってゆく。<BR>
 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。<BR>
 同じ敷地で暮らしているというのに。<BR>
 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。<BR>
 お会いしたくて。<BR>
 せめて、お顔を見たくて。<BR>
 お声をお聞きするだけでもいいのに。<BR>
 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。<BR>
 行こうかどうしようかと。<BR>
 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。<BR>
 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。<BR>
 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。<BR>
 ゆっくりと、一段一段登って行く。<BR>
 ウィロウさまにお目にかかろう。<BR>
 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。<BR>
 そうして、それは、たやすく叶えられた。<BR>
 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。<BR>
<BR>
 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。<BR>
 そこには、見覚えのある男性がいた。<BR>
 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。<BR>
 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。<BR>
 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。その時整えられた前髪がほんの少しだけ額に乱れかかる。<BR>
「奥方さま、どうかなさいましたか」<BR>
 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。<BR>
「奥方さま?」<BR>
 訝しげな声に、<BR>
「ウィロウさまにお会いしたいのです」<BR>
 我に返った。<BR>
「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」<BR>
 どうぞ。<BR>
 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
「ウィロウさま」<BR>
 とてもお懐かしい心地で思わずつぶやいていた。<BR>
 ウィロウさまは書斎の窓を背に黒檀の重厚な机に向かっていた。<BR>
「レディ」<BR>
 手にした書類を机の天板に置くのと、私に向かって呼びかけてくるのとがほぼ同時だった。<BR>
 どうして名前を呼んでくださらないのだろうとほんの少しさみしかったけれど、わたしにこの館の女主人としての自覚を持つようにと敢えてそう呼ぶようにしてくださっているのかもしれないと、気を取り直す。<BR>
「どうなさいました」<BR>
 他人行儀な優しい口調で問いかけながら机を回り込みわたしに近づいて、両手を握りしめてくださる。<BR>
「また、なにか起こりましたか?」<BR>
 男性のものにしては節の目立たない白く滑らかな手が、不意に、いずれかの夜のことを思い出させた。刹那背筋を舐め上げるように駆け上ってゆくその感覚に、小さな戦慄が走り抜けた。<BR>
「いいえ。いいえ。………………ただ、ただウィロウさまにお会いしたくて………」<BR>
 声が小さくなったのは、羞恥のせいだろう。<BR>
 我慢の効かない頑是ないありさまと、それとは別に不意に駆け上った戦慄を知られはしないかと。<BR>
「ああ。しばらく忙しくて、レディとの時間を作れませんでしたからね」<BR>
 口元までわたしの手を持ち上げて、指先にくちづけてくる。<BR>
 まるで天鵞絨のようなそのやわらかな感触に、耳の付け根が熱くなった。<BR>
 きっと、顔が赤くなっているのに違いない。<BR>
「こちらへ」<BR>
 そのまま導かれた先には、革張りのソファがあった。<BR>
「ハロルド、ハーマン、しばらく誰も通すな」<BR>
 ウィロウさまの言葉に、わたしは部屋にふたりがいたことを知った。<BR>
 ふんわりとしたソファに背中を包まれながら、これ以上ないくらいにわたしは真っ赤になっていただろう。<BR>
 なぜなら、そのまま、わたしはウィロウさまに抱きしめられたからだ。<BR>
<BR>
 そうして−−−。<BR>
<BR>
 気だるさを誰にも見咎められないように自分の部屋へと戻ったわたしは、床の上に落ちている手紙を手に、居間に入った。<BR>
 そこでわたしを待ち受けていた光景は、それまでの幸せな心地を粉々に打ち砕くものだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドから聞いていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、腱を傷つけられて力の入り辛い左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に指を開いて、鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのさいのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。右手からも徐々に力が抜けて行く。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 けれど、ピアノをしまいこむのは切なくて。<BR>
 だから、居間から動かす事ができないでいた。<BR>
 その思いに区切りをつけてくれたことに感謝していた。僕の代わりに弾いてくれるひとがいるのだと思えば、ピアノが埃をかぶることもないのだと思えば、嬉しかった。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
 黒光りのする艶やかな塗料がささくれて、下の木肌までもが傷んでいる。<BR>
 ざらりと肌をこする感触を指先で辿っていた。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 声量を抑えていながらも鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 いつの間にか右手に持っていたペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。それをトーマスが取り上げたのを、目の隅で捉えていた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 僕のものであったピアノに刻まれた無残な傷跡。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたのだと彼が思っているのだと、けれどそれが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「僕じゃない………」<BR>
 信じてもらえるかどうかはわからない。<BR>
 けれど、あんなこと、どうしてするだろう。<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせられる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるように先導されるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、寸胴のマグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったカップを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 どうして、ピアノが傷つけられていたのか。<BR>
 もしかして。<BR>
 本当に、僕が傷つけたのだろうか?<BR>
 ようようのことで僕の耳に入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれは僕じゃない。ピアノを傷つけるなんて、僕がするわけがない! けれど義母上の部屋に無断で侵入していたことは事実だ………………。もしかして、ならば、あれもこれも………記憶にないだけで僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に両膝をついた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれらは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
 彼の手が、お仕着せのジャケットの隠しポケットから何物かを取り出す。<BR>
「それ………は」<BR>
 プラチナの持ち手にサファイヤが象嵌されたそれは、確かパブリック・スクール入学の祝いにと父が僕に送ってくれたペーパーナイフだった。<BR>
 無意識に伸ばした掌に、トーマスが静かに乗せてくる。<BR>
「………覚えておられませんか? このペーパーナイフが見当たらないと御曹司が私に伝えてきたのが昨日の午前中のことでございました。あれから私どもが探しておりましたが、力が足りず見つけられずにおりました」
 そういえば。<BR>
 取り寄せた書籍を読もうとしてペーパーナイフがいつもの場所にないことに気づいたのだった。居間のカードテーブルの上にいつも置いていたのだ。そこなら、暖炉にもソファにも近い。書斎を使うことのない自堕落な生活をしている僕にはちょうどいい場所だった。それが見当たらず、結局トーマスに探しておくよう言いつけて代わりのペーパーナイフを使ったのだった。<BR>
「失礼いたします」<BR>
 掌の上から取り上げて、定位置に戻す。<BR>
「それにもう一つ。おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 ひそめた声に、頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれらは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことに対する罪悪感は消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 一通の手紙がわたしの手から落ちた。<BR>
「ピアノが………」<BR>
 どうして。<BR>
 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。<BR>
 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。<BR>
 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤をポンと叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。<BR>
 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。<BR>
 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。<BR>
 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。<BR>
 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。<BR>
 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。<BR>
 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。<BR>
 そんなに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。<BR>
「痛い………」<BR>
 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。<BR>
 エドナがいなくてよかった。<BR>
 そんなことを思う自分にハッとする。<BR>
<BR>
 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。<BR>
<BR>
 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。<BR>
「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」<BR>
 そう笑って見せたわたしに、<BR>
「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」<BR>
と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。<BR>
 そう。<BR>
 仕事なのよね。<BR>
 お友達でいる仕事。<BR>
 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。<BR>
 けれど、面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。<BR>
 エドナの部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。<BR>
 どうしよう。<BR>
 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。<BR>
 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。<BR>
 その思いがだんだんと強くなってゆく。<BR>
 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。<BR>
 同じ敷地で暮らしているというのに。<BR>
 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。<BR>
 お会いしたくて。<BR>
 せめて、お顔を見たくて。<BR>
 お声をお聞きするだけでもいいのに。<BR>
 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。<BR>
 行こうかどうしようかと。<BR>
 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。<BR>
 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。<BR>
 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。<BR>
 ゆっくりと、一段一段登って行く。<BR>
 ウィロウさまにお目にかかろう。<BR>
 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。<BR>
 そうして、それは、たやすく叶えられた。<BR>
 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。<BR>
<BR>
 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。<BR>
 そこには、見覚えのある男性がいた。<BR>
 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。<BR>
 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。<BR>
 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。<BR>
「奥方さま、どうかなさいましたか」<BR>
 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。<BR>
「奥方さま?」<BR>
 訝しげな声に、<BR>
「ウィロウさまにお会いしたいのです」<BR>
 我に返った。<BR>
「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」<BR>
 どうぞ。<BR>
 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。<BR>



 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しくてたまらない。<BR>
 頭の中に浮かんで消える、母の記憶が、僕を責める。<BR>
 苛む。<BR>
 愛していたひとと結ばれることなく、僕を生まなければならなかったレイラ。その苦しみ。愛するひとと睦みあうことのできない苦しみは愛することのできない相手の子、自身が生んだ僕への憎悪へと変化して、そうして苛むことになった。それは彼女を慰めたのか。それともより苦しめることになったのだろうか。<BR>
 いつしか父を想うようになっていた自分に気付いた時、母は、自身の心変わりに絶望して僕を、僕と自分自身とを無に帰そうとした。<BR>
 ごめんなさい−−−と。<BR>
 僕の首に絡む白い手が、ざらりとした何かを僕の首に巻きつけて、とても優しく、力を加えてくる。<BR>
 喉に食い込む細い紐のようなものがもたらす痛み。<BR>
 息ができなくなる苦しさ。<BR>
 すぐそこに迫った死へたどり着くまでの、気が遠くなるほどの苦しさ。<BR>
 あの恐怖。<BR>
 あなたのお父様を愛してしまった−−−<BR>
 それなのに、あなたを愛することができない−−−と。<BR>
 荒れる鼓動の合間に聞こえてきた彼女の血を吐くような贖罪の音色。<BR>
 愛せない。<BR>
 でも。<BR>
 愛してしまった。<BR>
 わたしのあのひとを、裏切ってしまったの。<BR>
 この心は、永遠にあのひとのものであるはずだったのに。<BR>
 だからこそあなたを、あなたという存在を許せなかったのに。なのに。ウィロウさまを想う心は、あなたを愛することを許してくれない。あなたをこれまで散々に傷つけてきたこんな女があなたの母であることを、許してくれない。今まで苦しめつづけてきた記憶が、それを良しとはしてくれない。だから、だから、消えてちょうだい。<BR>
 一体なにがきっかけであったのか。<BR>
 僕は知らない。<BR>
 ただ、悲痛なまでの謝罪に、僕は霞む視界に母を映しているばかりだった。<BR>
<BR>
 朦朧となった意識の中で、母の独白が、悲鳴へと変わる。<BR>
 周囲が騒々しくなった。<BR>
 誰かが僕を抱え上げ、僕の全身が揺れる。<BR>
 誰かが母を鋭く呼ぶ声が耳を貫いたと思った。<BR>
 けれど、それはもう僕にはどうでもいいことで。<BR>
 もう僕は死ぬのだと。<BR>
 それほど、母は僕を嫌っているのだと。<BR>
 絶望が静かに僕の意識を絶ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あの後、父の後妻に振り払われ情けなくも気を失った後、僕が気づいたのは寝室のベッドの上だった。<BR>
 まだ空は明るく、昼前であることを僕に問わず語りに教えてくれる。<BR>
 夢の中で散々思考を空転させた後の嫌な気分のまま、僕は上半身を静かに起こした。<BR>
 ぐるぐると止まることなく僕を苛む嫌な出来事の数々と、嫌な思考の数々。<BR>
 吐き気がする。<BR>
 こんなにも情けなく、醜い生き物であることに。<BR>
「御曹司」<BR>
 水を差し出してくる忠実なヴァレットに反応を見せることさえも億劫でならなくて、そのまま僕は髪をかきあげた。<BR>
「………義母上には、お子が出来ていたのだな」<BR>
 お前は知っていたのか?<BR>
 掠れた声が喉を痛めつける。<BR>
「はい」<BR>
と、ヴァレットが静かに答えた。<BR>
「御曹司におかれましては、興味がおありになられないだろうという判断をいたしておりました」<BR>
 −−−それは、半分は正しく、半分は誤っている。<BR>
 しかし、どうしてそれを彼が知るだろう。<BR>
 彼は、僕が母に囚われていることを知らない。<BR>
 いや。<BR>
 それとも。<BR>
 知っているのだろうか?<BR>
 じっとりと、彼の顔を見返した。<BR>
 知っているからこそ、興味がないと判断をしたのだろうか。<BR>
 僕と父の、おぞましい関係を。<BR>
 いったいどっちだろう?<BR>
 おそらくは、次のハウス・スチュワードとハロルドから目されているだろう、このよく気の回るヴァレットの灰色の目の奥を覗き込む。<BR>
 油照りの日の海のような瞳が、僕を見返してくる。<BR>
 それに気づいて、心臓が大きく跳ねた。<BR>
 とっさに、顔を背けていた。<BR>
 ぞわりと背中を駆け上り後頭部を逆毛立たせたのは、恐怖だった。<BR>
 最近では忘れがちになっていた、見られていることに対する恐怖が、蘇る。<BR>
 しかし、それを、従者に見せるわけにはいかない。<BR>
 知られていても、己からそうと見せるわけにはいかない。<BR>
 たとえ、これまでにおびただしいほどの醜態を晒してきていても−−−だ。<BR>
 顔を枕に伏せた。<BR>
「ひとりにしてくれ」<BR>
 くぐもった声が出る。<BR>
「承知いたしました」<BR>
 静かに諾い出て行く気配があった。<BR>
 独りになったと理解して、ぐるりと寝返りを打つ。<BR>
 額に手を乗せる。<BR>
 天蓋の裏側が霞んで見えた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「こちらに新たな子供部屋を設えるおつもりですか?」<BR>
「まだ犯人もわかっていないというのに、南の領域に戻れとおっしゃるのですか?」<BR>
 ハロルドにエドナが食ってかかるのを横目に、わたしは居間のソファに腰を下ろしていた。<BR>
 なんてことを−−−反省ばかりが頭の中を乱していた。<BR>
 なにをしてしまったのだろう−−−。<BR>
 手を差し伸べてくれた相手を。<BR>
 お礼すら口にせず、罵ってしまうなど。<BR>
 けれど。<BR>
 あの時、襲い掛かってきたのは、間違いなく、嫌悪感だったのだ。<BR>
 どうしようもないくらいの、生理的な嫌悪だった。<BR>
 証拠などはない。<BR>
 それなのに、あの疑惑は、どうしようもなくわたしの心に根付いてしまっていたのだ。<BR>
 同性なのに。<BR>
 親子なのに。<BR>
 そんなことがあるはずがないと思えば思うだけ、あの朝の廊下でのやりとりが頭の中で鮮やかなものへと変化を遂げてゆく。<BR>
 義理の息子、アークレーヌさまの前髪の下に隠されていたとても綺麗な顔。<BR>
 女性とは言いきれず、かといって、男性とも言いきれない。そんな、中性的な印象の顔が、媚びるような艶やかな色を帯びる。<BR>
 うっすらと白桃色に染まった頬が、首が、鎖骨が。<BR>
 露わになった胸元が。<BR>
 そこにくちびるを寄せるのは、ほかならぬウィロウさまだ。<BR>
 ああ!<BR>
 両手に顔を埋めた。<BR>
「奥さまっ?」<BR>
 エドナの声が耳を射抜くほどの激しさだった。<BR>
 おかしい。<BR>
 わたしは、きっとおかしくなっている。<BR>
 こんな、あるはずもない、いやらしい想像をしてしまうなんて。<BR>
 それも、わたしの夫と、夫の実の息子とで。<BR>
「奥様」<BR>
 ハロルドの落ち着いた声が、まるで外国産の張りのあるコットンにも似てわたしの動揺した心を落ち着けてくれるような心地がした。<BR>
「お部屋を乱した不心得者が見つかるまで、新しく設えられるのはおやめになられた方がよろしいのではと」<BR>
「………それは、旦那さまのご提案なの?」<BR>
「はい」<BR>
「それならば、早く犯人を見つけてちょうだい」<BR>
 ハロルドが腰を深く折る。<BR>
 そのまま踵を返して部屋を出て行った。<BR>
「奥さま」<BR>
 今日はエドナの声がどうしてだか鑢のように癇に触る。<BR>
「少しひとりにしてくれる?」<BR>
 エドナの榛色の瞳がどこか不満そうに揺れた。<BR>
「今の奥さまをひとりになど!」<BR>
「そう。ありがとう」<BR>
 どう伝えよう。<BR>
 対面のソファに座ったままのエドナに、<BR>
「さっき、外でのことだけれど。あれは、言い過ぎだったわ」<BR>
 口調に、エドナの表情が紙のようになった。<BR>
「けれどっ!」<BR>
「ええ。ありがとう。わたしを慮ってくれたのよね。わかっているわ。それに、わたしの行動も悪かったのだと理解しているわ」<BR>
 けれどね。<BR>
「エドナ。あなたが知っていたのかどうかはわからないけれど、あなたが咎めたのは、アークレーヌさまなのよ」<BR>
「アークレーヌさま?」<BR>
 ぽっかりと、エドナにしては間抜けな表情で繰り返す。<BR>
「そう。アークレーヌ・アルカーディ、次期アルカーデン公爵よ」<BR>
「そんなっ」<BR>
 悲鳴をあげる。<BR>
 エドナはアークレーヌさまのお顔を知らなかったのか。<BR>
 そんなエドナを見ながら、わたしはアークレーヌさまに謝らなければと、考えていた。<BR> 
 嫌悪は嫌悪として。<BR>
 疑惑は疑惑として。<BR>
 謝罪はしなければ。<BR>
 手を振り払ってしまった。<BR>
 罵ってしまった。<BR>
 それに。エドナも、わたしを思えばこそではあったのだろうけど、あの態度はいただけない。アークレーヌさまは次代の公爵さまなのだ。<BR>
「着替えます」<BR>
 控える侍女に命じる。<BR>
「はい」<BR>
 ドレスルームのドアを開ける侍女を見ながら、<BR>
「エドナ。少し待っていて」<BR>
 着替えてなにをするとは告げず、ドレスルームに入った。<BR>
 薄い緑色のドレスを選ぶ。白いレースのブラウスに襟元からウェストラインにかけて深いV字に切れ込んだそれを合わせる。<BR>
 髪は編み込み、シンプルな髪飾りをつける。<BR>
 靴は部屋履きの楽なものに履き替えて、扇とハンカチのどちらを手に持つかしばし悩む。<BR>
 まだ呆然としているエドナを、<BR>
「さあ。北の領域に行きましょう」<BR>
 促す。<BR>
「なにをするために?」<BR>
 返された反応に、え? と思った。<BR>
「なにって、アークレーヌさまに無礼を謝らなければいけないでしょう」<BR>
「え? あ………ぶれい………無礼」<BR>
 ぶつぶつと呟きながらわたしを見上げてくるその瞳に、なぜだかゾッとした。<BR>
「エドナ。あなた、今日はおかしいわよ」<BR>
 そうとしか言えなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 アークレーヌさまの従者がわたしたちを客間に通し奥へと消えてゆく。<BR>
 控えていた執事がすぐさま紅茶とケーキを説明とともに供してくれた。<BR>
 良質の紅茶の香りが空気に広がり消えてゆくのを楽しみながら、周囲を見やる。<BR>
 シンプルな部屋だった。<BR>
 あっさりしすぎていると言ってもいいだろう。<BR>
 あるのはソファとテーブル、後はライト。装飾品と呼べるものは、マントルピースの上や脇の壁に掛けられた大小数点の絵画だった。<BR>
 カーペットさえ敷かれてはいない。<BR>
「殺風景ですね」<BR>
 思わずといった態でエドナがつぶやいた。<BR>
 小さなそれを拾ったかもしれない執事は、壁際に佇み微動だにしない。<BR>
「エドナ………」<BR>
 今日のエドナは本当におかしい。<BR>
 いつもと違う雰囲気に、わたしもおかしくなりそうだった。<BR>
 まだアークレーヌさまは現れない。<BR>
 手持ち無沙汰も手伝って、ソファから立ち上がり絵に近づいた。<BR>
 五十号はあるだろう穏やかな春の風景が描かれたそれを鑑賞する。この国の田舎には珍しくないだろう、緩急のある丘陵地帯の放牧地に点々と散る羊の群れ。うっすらと靄がかったような空の色はぼんやりと琥珀色を宿したような光を宿す。<BR>
 のどかな風景画にアークレーヌさまはこういう絵画を好まれるのかと、心が穏やかになるような気がした。<BR>
 しかし、それも、逸らした視線が近くに飾られていた五点の一号ほどの素描画を捉えて、霧散した。<BR>
 風景画との不均衡さに、顔が引きつるのがわかった。<BR>
「これは………」<BR>
 暗い。<BR>
 偏執的なまでの執拗さで紙を引っかいたような細い描線が描き出すのは、この館を取り囲むガーゴイルたちの姿だった。<BR>
「なぜ、こんなものをモデルに」<BR>
 悪趣味としか思えなかった。<BR>
 まるで今にも紙から飛び出してきそうな、生々しい異形の鬼たち。<BR>
 嘆き、怒り、戸惑い、悲しみ、絶望にとらわれたものたちの心の底からの嘆きが聞こえてくるかのようで、わずかの”喜”を見出すことすらできなかった。<BR>
 鉛筆の黒と紙の白とのコントラストが、これほどまでに画家の内面を表すことができるのだと、わたしの背中が逆毛立つ。<BR>
 画家の名は? と、走らせた視線が、紙の片隅にあるサインを捉えた。<BR>
 そこには、<BR>
「アークレーヌさま?」の名が記されていた。<BR>
 ああ、そういえば。<BR>
 今朝のあの時も、従者はスケッチブックを手にしていたような気がする。<BR>
「気持ち悪いですね」<BR>
 失言が多い気がするエドナがそうささやいた時、ようやく、<BR>
「待たせてしまいました。申し訳ありません」<BR>
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。<BR>
 振り返った先では、長い白髪で顔の半ばまでを隠したアークレーヌさまがソファまでやってくるところだった。後頭部で髪をくくり、ありふれた白いシャツと髪をくくるリボンと同色のジャケットとズボンといういでたちは、朝とは違っていた。<BR>
「いいえ」<BR>
 慌てて応え、ふたりしてソファへと引き返す。<BR>
 わたしたちが腰かけたのを確認して、アークレーヌさまがゆっくりと腰を下ろした。<BR>
 すかさず執事が紅茶を差し出す。<BR>
 ひとくち含み、<BR>
「それで、ご用件は?」<BR>
 ささやかな大きさの声が問いかけてきた。<BR>
「今朝のことです」<BR>
「………今朝?」<BR>
 長い前髪の奥、表情は判らない。<BR>
「はい。助け起こそうとしてくださったのに、あらぬことを口走った上に手を払いのけてしまって申し訳ありませんでした」<BR>
 頭をさげる。<BR>
 隣では、エドナもまた、<BR>
「わたくしも、まさかアークレーヌさまだとは存じあげなくてあんな暴言を叫んでしまいました。申し訳ありません」<BR>
 頭を下げた。<BR>
「謝罪など必要ありませんでしたよ。あのタイミングでは、仕方のなかったことです。僕の方こそ醜態をさらしてしまい、お恥ずかしい」<BR>
「では」<BR>
「赦してくださるのですか」<BR>
「許すもなにも、単にタイミングが悪かっただけのことでしょう。義母上も今は大切な時期でしょうから、おからだをお厭(いと)いください」<BR>
 立ち上がり、<BR>
「それでは、僕はこれで。トーマス、義母上とレディをお送りして」<BR>
 そう言って、客間を出て行った。<BR>
 アークレーヌさまがこちらを振り返ることはなかった。<BR>
 実際にアークレーヌさまと相対してみて、不思議なことに嫌悪感を抱くことはなかった。私たちに対する態度も普通のものだったと感じられた。あんな素描画を描くとは到底思いもよらない。その現実に、わたしはわたしのなかに根付いてしまった妄想があまりにも悍ましすぎたのだと痛いくらいに感じた。あんなこと、あるわけがないのだ−−−と。<BR>
 そんな風にいろいろなことに拍子ぬけして、しばらくソファから立ち上がることさえできなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドが言っていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、力をなくした左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に手を開いて、指で鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 右手に持ったペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 たった今、ほかならぬ己がしでかしたことなのだ。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたものが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「なんてことを」<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人達に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、マグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったマグを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 それでも、己のしでかしたことがなかったことになるはずがない。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 その上、ピアノを傷つけてしまうなど。<BR>
 もしかして。<BR>
 いつしか僕の耳にも入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれも、僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に膝間付いた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
「………おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことやピアノを傷つけたことに対する罪悪感が消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれはなに?<BR>
 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。<BR>
 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。<BR>
 けれど、できなかったのだ。<BR>
 だって。<BR>
 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのを微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさにだらしないと思えばいいのか、混乱してしまったのだ。<BR>
 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。<BR>
 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。<BR>
 疑問だった。<BR>
 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。<BR>
 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。<BR>
 けれど、アークレーヌさまのうっすらと血の気を宿した胸元に、それよりもひときわ赤い斑が数個あるのを見つけたような気がした。<BR>
 キスマーク(hickey)?<BR>
 心臓が大きく鼓動を刻んだ。<BR>
 なにを馬鹿なことを。<BR>
 自分のはしたない連想を打ち消す。<BR>
 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。<BR>
 そう思った。<BR>
 だって、おふたりは父と息子なのだから。<BR>
 穏当な行動はそうだろう。<BR>
 他になにがある?<BR>
 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。<BR>
 おはようございます−−−と。<BR>
 ことはそれで普通に戻る。<BR>
 はずなのに。<BR>
 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。<BR>
「アークレーヌっ」<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。<BR>
 わたしといるときには見せることさえもなかったほどの激しさで抱きしめて、<BR>
「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」<BR>
 聞いたことがないほどに真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。<BR>
「いや」<BR>
 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。<BR>
 この声は。<BR>
「もう、いやだ」<BR>
 この口調は。<BR>
「いやなんだ」<BR>
 まるで………。<BR>
「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」<BR>
 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。ちらりと彼がわたしの方を見たような錯覚があった。<BR>
 落ち着き払った彼の声に、ささくれ立った神経が癒される心地がした。<BR>
 ああ。やっぱり。<BR>
 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。<BR>
 不思議な安堵感があった。<BR>
「ひとり、ひとりでもどれる」<BR>
 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、<BR>
「青いな」<BR>
 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。アークレーヌさまの前髪が乱れて、いつもはその下に隠されている容貌を刹那あらわにした。<BR>
「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」<BR>
 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ウィロウさまは………。<BR>
 その時、わたしの心の中には、ひとつの疑惑が芽生えていた。<BR>
<BR>
 唾棄するべき、恐ろしい疑惑だった。<BR>
<BR>
 彼らの姿が消えてしばらくして、わたしはふらふらと部屋を出た。<BR>
 心の中を占める妄想にも等しいものが恐ろしくてならなくて。<BR>
 それがもしも真実であったとしたら−−−。<BR>
 あまりにも恐ろしいそれに、ここから出てしまいたくてしかたがなかった。<BR>
 なんの証拠もありはしない。<BR>
 そう。妄想にも等しいものに過ぎないのだ。<BR>
 けれど。<BR>
 同様に。<BR>
 恐ろしいそれを打ち消す証拠もありはしないのだ。<BR>
 誰かに訊ねてみることだとて、できはしない。<BR>
 そう。<BR>
 例えば誰かに、<BR>
「ウィロウさまはアークレーヌさまを」<BR>
 小さく口の中で音にしてみただけで、考えるだけで、動悸が激しくなる。<BR>
 その先の言葉を紡ぐことができない。<BR>
 はしたないから?<BR>
 確かにその疑惑ははしたない。<BR>
 不道徳すぎる。<BR>
 あってはならないことだ。<BR>
 ひととして。<BR>
 親子として。<BR>
 口にするのも恐ろしいそれを、現実にもし仮に口にすることができたとして、おそらく、わたしの質問を受けた誰かは、狂った者を見るような視線をわたしに向けてくるだろう。<BR>
 誰にも。<BR>
 誰にも、問う術はない。<BR>
 ウィロウさまにも。<BR>
 ましてや。<BR>
 アークレーヌさまになど。<BR>
 おそらくは、彼こそが、わたしの、恋敵に違いないのだから。<BR>
 脳裏を、ぬめのような青白い肌が、桃色の陰影が、過る。<BR>
 十六の少年とは思えない細い首が、深く切れ込んだ鎖骨の儚さが。<BR>
 かすれた小さな声が。<BR>
 胸元の赤い斑模様が脳裏から消えてくれない。<BR>
 首を激しく左右に振った。<BR>
 違う。<BR>
 違う。<BR>
 違う。<BR>
 そんなことを考えてはいけない。<BR>
 けれど、そんなことに取って代わったのは、ウィロウさまに顎を取られて持ち上げられた時に乱れた前髪の隙間から見えた、彼の容貌だった。<BR>
 なぜ隠しているのか。<BR>
 ウィロウさまにも、先妻さまにも似ていなかったけれど、とても美しい顔だった。<BR>
「わたしは、いったい、なんのためにここまで来たのかしら」<BR>
 ぽつりと知らずつぶやいていた。<BR>
 誰も答えてくれるものはいない。<BR>
 朝が早かったこともあって、ルイザはまだ起きていないだろう。<BR>
 ひとりだ。<BR>
 ふらふらと、わたしはただ足の向くままに歩いていた。<BR>
 手近な石垣に腰を掛ける。<BR>
 いつの間にこんなところまで歩いてきたのだろう。<BR>
 遠く見えた、ヒースの花群れがすぐそこにある。<BR>
 ”孤独”<BR>
 あれだけ群れをなしていながら、ヒースの花言葉は孤独なのだ。<BR>
「こんなところになど来なければよかった」<BR>
 本国の素敵な公爵さまの求婚に、公爵夫人になれるという未来に舞い上がってしまった己の愚かさに自嘲がこみ上げてくる。<BR>
 丘陵を駆け抜ける春の風が、冷たくわたしに触れては通り過ぎてゆく。<BR>
 からだを震わせる。<BR>
 そうして、気がついた。<BR>
「いいえ! いいえ違う。わたしは孤独なんかじゃない」<BR>
 そう。<BR>
 まだ目立たないお腹をそっと掌で撫でる。<BR>
「ここには………」<BR>
 ウィロウさまとわたしの赤ちゃんがいる。<BR>
 わたしの疑惑がもしも真実だったとしても、わたしのお腹にいる赤ちゃんこそが、わたしにとって絶対の真実だった。<BR>
「あなたがいるわ」<BR>
 踵を返した。<BR>
 遠く、灰色の城館が見える。<BR>
 ミスルトゥ館と呼ばれるとても壮大な、異相を誇る、公爵家の居城が。<BR>
「ここがわたしの、あなたの家なのだから」<BR>
 決意を新たに、わたしは引き返した。<BR>
 まさか引き返した場所で、わたしをこんなにも苦しめた当の本人と出くわしてしまうだなどとは思わなかった。そうして、思わず彼を振り払ってしまい、罵ってしまうことになるだなど、想像だにしていなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれから、僕の頭を占めるのは、彼女に対する憎悪と嘆きだった。<BR>
<BR>
 あれから−−−。<BR>
<BR>
 そう。<BR>
 彼女−−−義母上、レディ・アルカーディが父の子を身ごもっていると知ってからである。<BR>
<BR>
 なぜ。<BR>
<BR>
 僕には−−−できないのに。<BR>
<BR>
 耳の奥で、ドルイドベルの音色が聞こえる。<BR>
 誰かが、赤いレースのリボンを持って、僕に近づいてくる。<BR>
 それを待ち望んでいる自分に気づいて、僕は顔を両手で覆い隠した。<BR>
 来るな!<BR>
 こんな思考は、おかしい。<BR>
 幻の赤いリボンが、僕を呪縛しようとする。<BR>
 今、僕を縛めるリボンはない。<BR>
 だから、僕を支配しようとするな!<BR>
 今、ここに、ドルイドベルはない。<BR>
 僕は、僕のからだは、僕だけのもの。<BR>
 心も、僕自身のもの………だとすれば、この害意も、この絶望も、僕自身のものなのだろうか?<BR>
 違う!<BR>
 そんなはずはない。<BR>
 寝室のベッドにうずくまる。<BR>
 そんなことがあっていいわけがない。<BR>
 ふたりの母の呪縛も、父の呪縛も、僕を覆い尽くして、壊してしまいそうだった。<BR>
 赤いレースに込められたレイヌの呪いも、それをわずかに緩やかなものにしようとしたレイラの思いが込められたドルイドベルも、結局は僕のからだと心を縛るものでしかないのだ。<BR>
 誰のために?<BR>
 父のために。<BR>
 他の誰でもない、父のために、ふたりの女は僕を人形にしてしまった。<BR>
 彼女らが死んだ後、彼女らの意のままに操ることができる人形に。<BR>
 父を受け入れる器として。<BR>
 父を苦しめる道具として。<BR>
 そこにあったのは、父に対する愛情と憎悪。<BR>
 アルカーディの血に対する、恨み。<BR>
 ほんの少しの−−−僕に対する憐憫。<BR>
 呪縛を受けて父に抱かれているうちに、僕は、彼女らの思いを知った。<BR>
 絶望を。<BR>
 羨望を。<BR>
 それでも。<BR>
 このからだは、この心は、僕のものなのだ。<BR>
 それなのに、なぜ。<BR>
 どうして。<BR>
 当然とばかりに僕を支配しようとするふたりの女の呪いを拒む術を、僕は知らない。<BR>
 どうすればいいのかわからない。<BR>
 リボンもドルイドベルもないのに。<BR>
 まるで水を吸う紙のように、たやすく彼女らの呪いに浸されてゆく。<BR>
 憎い。<BR>
 どうして。<BR>
 産むことは許されなかったのに。<BR>
 それなのに、なぜ。<BR>
 なぜ。<BR>
 死ねばいいのに。<BR>
 渦巻く憎悪に吐き気がこみ上げてくる。<BR>
 
 あれはなに?<BR>
 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。<BR>
 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。<BR>
 けれど、できなかったのだ。<BR>
 だって。<BR>
 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのが微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさになにを思えばいいのか、混乱してしまったのだ。<BR>
 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。<BR>
 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。<BR>
 疑問だった。<BR>
 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。<BR>
 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。<BR>
 なにを馬鹿なことを。<BR>
 自分のはしたない連想を打ち消す。<BR>
 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。<BR>
 そう思った。<BR>
 だって、おふたりは父と息子なのだから。<BR>
 穏当な行動はそうだろう。<BR>
 他になにがある?<BR>
 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。<BR>
 おはようございます−−−と。<BR>
 ことはそれで普通に戻る。<BR>
 はずなのに。<BR>
 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。<BR>
「アークレーヌっ」<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。<BR>
 抱きしめて、<BR>
「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」<BR>
 わたしの聞いたことがない真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、わたしの心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。<BR>
「いや」<BR>
 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。<BR>
 この声は。<BR>
「もう、いやだ」<BR>
 この口調は。<BR>
「いやなんだ」<BR>
 まるで………。<BR>
「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」<BR>
 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。<BR>
 それにささくれ立った神経が、癒される心地がした。<BR>
 ああ。やっぱり。<BR>
 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。<BR>
「ひとり、ひとりでもどれる」<BR>
 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、<BR>
「青いな」<BR>
 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。<BR>
「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」<BR>
 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ウィロウさまは………。<BR>
 その時、わたしの心の中には、ひとつの確信が芽生えていた。<BR>
<BR>
 唾棄するべき、恐ろしい確信だった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「自分が口にしたことを理解できていますか?」<BR>
 殊更に丁寧な口調ながらも嘲笑を隠しもしない声が聞こえてきたような気がした。<BR>
 その夜の僕は巣穴に引きずり込まれる獲物でしかなかった。<BR>
 ドルイドベルの音で僕の意識の半分は母の呪いに呪縛され朦朧としていた。<BR>
 ひたすらに混乱したままの僕は、たやすく父に抱き伏せられ、食い散らかされる獲物同然だった。<BR>
 混沌とした眠りの底から這い出した時、そこがまだ東の領域にある父の寝室であることを知り、僕は途方にくれた。<BR>
 これまでの僕は自室でしか抱かれたことがなく、ことが終わった後に部屋に戻るなどということをしたことがなかったからだ。<BR>
 どうやって部屋に戻ればいいのか。<BR>
 愚かなことに、僕はただそれだけに悩んだ。<BR>
 起き上がり数歩を進むのさえ困難な自分のありさまに泣きそうになりながら、ベッドを降りた僕はそれでもガウンをしっかりと羽織った。紐を結ぶのに手間取り、結局は固結びになってしまった後になって、ガウンだけで部屋に戻る自分を想像して青くならざるを得なかった。<BR>
 服を−−−。<BR>
 せめて昨夜の服なりと着ていればと、視線を彷徨わせたものの、見つからない。<BR>
 それは、誰か使用人が服を持って行ったということで、その誰かは僕が父と何をしているのかを知っているということになる。<BR>
 ふらふらと、数歩進んだ僕は、寝室と隣との間のドアにもたれるようにしてうずくまったのだった。<BR>
 おそらく貧血だったのだろうけれど、くらくらと視界が揺れるその奇妙な感覚に襲われていたぼくは、父の嘲笑を隠していない声を耳にしたのだった。<BR>
 父以外の誰かが隣にいる。<BR>
 そうして、その誰かは、ハロルドや父の執事のうちの誰かではない。<BR>
 カーテンのかかったままの窓から外を見ることはできなかったが、ベッドサイドの時計を目を眇めて見れば、まだ夜が明けて間もない時間であるらしかった。ならばどれほども眠ってはいない。父に引きずり込まれたのは、昨夜遅くだった。突然部屋に訪れた父の手にある深紅のリボンを見て、僕がどれほどの絶望に落とし込まれたことか。あれから、信じられないくらい執拗な行為を受け入れさせられ、挙句、気絶したままだったのだろうか。他に記憶はない。<BR>
 ぼんやりと床に腰を落とした僕の耳に、誰かと父のやりとりが聞こえてくる。<BR>
 父が相手をしている声の主は、かなり常識はずれの時間にここを訪ねてきたことになる。<BR>
<BR>
「だから、うちの息子を」<BR>
「何度説明すれば理解できるのでしょうね。あなたと我が家はもはや無関係なのですよ。先代の温情でアルカーデンの土地の一部と子爵位とを与えられていますが、それを条件に縁切りおよびアルカーディの名を利用しないことを約束させられたと書類が残っていると、先ほど説明したばかりなのですが」<BR>
 呆れを隠しもしない。<BR>
「けれど!」<BR>
「けれどもなにもない! なぜ、我が家にはアークレーヌという後継ぎがいるというのに、あなたのところの息子を跡取りになどという愚かしいことを主張できる!」<BR>
 打って変わった父の荒い口調に、全身が震えた。<BR>
「学校すらまともに通えなかったようなアークレーヌでは公爵家の当主など勤まりませんよ! それよりうち家の息子を跡取りにして、うちの娘とアークレーヌを娶せて子爵家を」<BR>
「あの賭け事好きの浪費家を後継ぎにどころか、あの尻軽をアークレーヌに押し付けようと?」<BR>
 あなたの頭は大丈夫なのですか?<BR>
 呆れ果てた声に、<BR>
「娘は尻軽などではないわ!」<BR>
 甲高い叫び声は、どこか力がない。<BR>
「尻軽でなければ、男好きとでも? 何回婚約破棄を繰り返しているか、その理由さえ、私の耳に届いているのですよ。尻軽や男好きどころかもっと悪い噂で。しかも他の令嬢の婚約者を横取りすることを飽きもせずに繰り返すと。ハロルド!」<BR>
「こちらに」<BR>
「読み上げて聞かせようか」<BR>
 悪意さえ隠さないその声音に、<BR>
「なら、後生だから、せめて助けてちょうだい!」<BR>
「なにが、”なら”なのかわかりませんね。なぜ、助けなければ?」<BR>
「叔母の頼みが聞けないというのですか」<BR>
 ため息が聞こえたような気がする。<BR>
「何度言えば理解できるというのか。そちらとこちらの縁は切られているとなぜ理解しようとしないのでしょうね。縁が切られているということは、私とあなたも、叔母と甥の関係ではないということだと」<BR>
「そんな。いいえ。たとえ縁は切られても、我が家だとて公爵領の一部を預かる身。公爵家の次代を心配してどこが悪いのです。だいたいあの脆弱極まりないアークレーヌが公爵家当主など、すぐに傾くに決まってますよ」<BR>
「当主が脆弱ならば、きちんとした補助役をつけさせればすむことでしょう。そのための後進の育成も我が家の家令にはすでにはじめています。そうすれば当主がたとえ凡愚であろうと大丈夫ですからね」<BR>
 僕の背中が、震える。<BR>
 ああ、やはり−−−と。<BR>
 父にとって、僕は、頼りない存在でしかないのだと。<BR>
 凡愚でしかないのだと。<BR>
 抱え込んだ膝頭に片方の頬を当てて、僕は目を瞑った。<BR>
 なぜ、こんなところで、行儀の悪い盗み聞きなどをする羽目に陥っているのだろう−−−と。<BR>
「なにが大丈夫です! あんな気色の悪い子っ」<BR>
と、悪意の滴る女性の声が聞こえたと思えば、何かやわらかなものが打たれる音と、女性の悲鳴とが聞こえた。<BR>
「あなた、女性に手を挙げるなど!」<BR>
「ああ。失礼。けれど息子を侮辱されて怒らないわけがないでしょう」<BR>
「あなただとて、私の子供たちを」<BR>
 震える声に、<BR>
「あなたの子供たちの場合はきちんと裏付け調査をした上での事実ですよ。あなたの息子は賭け事好きの派手好きであちらこちらに借金を作っていますし、決闘騒ぎさえも一度や二度ではないようです。娘の場合は、先ほども説明しましたよねぇ。侮辱には当たりません。しかし、あなたの言葉は、ただ単に、アークレーヌを見た目だけで判断した侮辱にすぎません。ええ。私の最愛の息子、ひいては未来の公爵に対する侮辱以外の何物でもない! 公爵家の子息を見た目で罵っておいて借金の肩代わりなど! しませんよ。するわけがないでしょう。子爵家の残りの土地を売り払って払えば済むことです。それくらいの土地ならまだ残っているはずですよ」<BR>
「待って。待って頂戴。さっきの言葉は謝るから。だからっ」<BR>
「ハロルド、子爵夫人はおかえりだ案内を」<BR>
「子爵夫人。ハーマンがご案内いたします。お帰りはこちらでございます」<BR>
 丁寧なハロルドの口調に、<BR>
「覚えておきなさい、ウィロウ! いずれ、絶対に後悔するに違いありませんよっ」<BR>
 捨て台詞とともに、女性のものとは思えない荒い足音が遠ざかって行く。<BR>
 足音が聞こえなくなると、深いため息が聞こえてきた。<BR>
 父のものと思えないほどのものだった。<BR>
「こちらをどうぞ」<BR>
「バートか。ありがとう」<BR>
 父の従者の声がした。<BR>
「子爵夫人にも困ったものだ」<BR>
「子爵家の土地は既に半分ほど担保に取られておりますが」<BR>
 ハロルドの声が静かに事実を告げる。<BR>
「残りの土地の半分で子息の借金は払えましょうが、そうなりますと子爵家を今まで通りに維持して行くことはできなくなると思われます」<BR>
「あの土地自体はさして重要な土地ではないが、アルカーデンの中ほどに位置する土地が他家の飛び地になるやもしれず、唐突にアルカーデンとは関係のない土地があることになるやもしれず、どちらにせよしのびないか」<BR>
「押さえておくように手配しておきましょう」<BR>
「名を伏せてな」<BR>
 あとは、子爵家がどう出るかだろう。<BR>
 正確な面積は知らないが、子爵家を名乗る一族の領地の四分の一なら親子四人に数名の使用人ていどなら、充分な生活はできるはず。それを、彼らが受け入れられるかどうかという問題だが、それは、父には関係のないことだった。<BR>
 そんなことをとりとめもなく考えていた僕の耳に、複数の足音が聞こえてきた。<BR>
 聞いていたことを知られる。<BR>
 それどころか、父以外の誰かに、見られてしまう。<BR>
 必死に立ち上がろうともがいた僕が一歩を踏み出したその時、タイミング悪くドアが開いた。<BR>
「っ」<BR>
 ドアが背中に当たり、せっかく立ち上がったというのに、その場に、あえなく頽れる。そんな情けない自分に、頭の中が真っ白になった。<BR>
「何をやっている」<BR>
「御曹司」<BR>
 父とハロルドの声が背中にこぼれ落ちる。<BR>
 回り込んできたバートに抱え起こされるようにして、立ち上がる。<BR>
「聞いていたのか」<BR>
 父の言葉に、思い出す。<BR>
 脆弱で凡愚な息子である自分を。<BR>
 差し出された父の手を避けたのは、そのせいだったろう。<BR>
 意識しての行動ではなかった。<BR>
 その時の僕の頭の中にあったのは、自分の情けなさだけで。<BR>
 こんな僕など−−−という、自棄であったろう。<BR>
「なにを拗ねている」<BR>
 けれど、父にはそんな僕の行為が、ただ拗ねているものと映るのか。<BR>
 首を横に振る。<BR>
「しばらく休んでから部屋に戻るといい。そのままでは歩くのもままなるまい」<BR>
 ハロルドも、バートさえもがいるこの場所で。<BR>
 血の気が引いた。<BR>
 知っているのだと。<BR>
 このふたりは当然のごとく知っているのだと。<BR>
 この、本来であれば唾棄するべき、関係を。<BR>
 それは、火事場の馬鹿力(アドレナリンラッシュ)というものだったのだろう。<BR>
 貧血に襲われた上にもとより足取りすらままならない状況だというのに、僕はその場を駆け出したのだ。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
「御曹司」<BR>
 三人の声を背中に僕は父の寝室を駆け抜け、東の領域の廊下に飛び出した。<BR>
 もはや、己の格好など頭にはなかったのだ。<BR>
 父の執務室につながる寝室は、東の領域の二階奥にある。<BR>
 全領域が交差する大廊下に出るまでには、父の後妻の部屋があるということなど、この時の僕は知らなかった。<BR>
 そう。彼女の部屋が荒らされ、とりあえずの処置ということで部屋をこちらに移動しているという情報など、僕は知らなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
たどり着けない本題。
 こんなに二人を絡ますのが難しいとは………。
 67kbを費やして、まだここorz

 怠い。<BR>
 何もする気が起きなかった。<BR>
 自室の居間から窓の外を眺め見る。<BR>
 小糠雨に濡れる庭には、咲き初めようとする花々でうっすらと色づいていた。<BR>
<BR>
 昨日のことだ。<BR>
 ふと思い出す。<BR>
 この城を守るようなガーゴイルの雨樋をスケッチしていた。<BR>
 ファサードのガーゴイルたちは特に大きめに造られているため、細部までスケッチするには最適だった。だから、思い立ったその足で、建物正面まで来ていた。いつもは北の領域の庭から外に出ることが多い僕にしてみれば、それは珍しいことだった。<BR>
 この城が建造された中世の頃のデザインのどこか滑稽な表情の魔物たちが天を見上げて大きな口を開けている。羽のあるものもいれば、尻尾のあるものも。ツノがあるものも。どれもないものもどれもあるものもいる。<BR>
 初めて見るものは驚くかもしれないが、見慣れて仕舞えばどうということもない。もちろんのこと、言うまでもなく、ただの、雨樋にすぎないのだ。<BR>
 天を見上げて口を大きく開いたさまは、まるで己の状況を嘆くかのようで。<BR>
 天から落ちて魔物へと変わった自分を呪うかのようで。<BR>
 まるで自分のようだと、思ったのだ。<BR>
 気づいて、苦く嘲笑う。<BR>
 どこの悲劇のヒロインだ−−−と。<BR>
 滑稽な。<BR>
 ほんとうに滑稽だった。<BR>
 逃げようとすれば、逃げられるのに。<BR>
 逃げないのは、己に自信がないからだ。<BR>
 この、安楽な生活を手放したくないためだ。<BR>
 ぐるぐると自嘲が頭の中を埋めてゆく。<BR>
 己の情けなさに捉われて、鉛筆を動かす手が止まった。<BR>
 ガーゴイルたちのように、空を見上げる。<BR>
 晴れ渡った空が、どこまでもつづく。<BR>
 下界で足掻くのをやめた愚鈍な人間のことなど我知らぬとばかりに、天上の輝かしさを映してどこまでも美しい青が広がる。<BR>
 あまりのまばゆさに地上へと視線を戻し振り返れば、遠くどこまでもつづく丘陵地帯の紫が見えた。<BR>
 荒野にはびこるヒースの花群れ。<BR>
 どこかうっすらと黒みを帯びたように見える、紫の荒野。<BR>
 惹かれるようにして、歩き出す。<BR>
 スケッチブックと鉛筆が地面に転がる。<BR>
「御曹司。どちらへ行かれます」<BR>
 いつものように控えていたヴァレットのうろたえたような声が聞こえたような気がした。けれど、それに返事を返すこともせず、僕は歩を進めた。<BR>
 だけど、どれほども進めなかった。<BR>
「御曹司!」<BR>
 ヴァレットの慌てた声とほぼ同時に、甲高く小さな悲鳴が襲いかかる。<BR>
 背後からのいきなりの衝撃に、バランスを崩した僕はたたらを踏んだ。<BR>
「ご、ごめんなさいっ」<BR>
「いや………」<BR>
 差し出した右手を、<BR>
「いやっ!」<BR>
 勢いよく叩かれた。<BR>
「御曹司っ!」<BR>
「ご、めんなさい」<BR>
 天上の空のような青が僕を見上げていた。<BR>
「かまうな」<BR>
 その瞳の中に見えるおびえの色に、戸惑った。<BR>
 なぜ?<BR>
「義母上?」<BR>
「アークレーヌさまっ」<BR>
 悲鳴のような声だった。<BR>
「近づかないでっ」<BR>
 どうしてこんなに怯えられなければならない?<BR>
 僕が、いったい、何をしたというのだ。<BR>
 これで、彼女と顔を合わせたのは、何回目だろう? ほとんど言葉すら交わしたことがないというのに。<BR>
「ケイティさまっ」<BR>
 遅れて駆け寄ってきた見知らぬ女性が、彼女の肩を庇うように抱きしめた。<BR>
「大丈夫ですか? おからだは? お腹はっ」<BR>
「なんてことをするんですかっ! ケイティさまのお腹には赤ん坊がいらっしゃるんですよっ」<BR>
 睨みつけてくる灰色の瞳が僕を糾弾してくる。<BR>
 誰だろう−−−と思うよりも先に見知らぬ彼女のそのことばに、心臓を思い切り握りつぶされるような衝撃が襲い掛かった。<BR>
 ぐらり−−−と、視界が揺らいだ。<BR>
 鼓動の動きが、血管の収縮が、速度を増してゆく。<BR>
 まだ何かを叫んでいる見知らぬ彼女のことばを把握することは、僕にはできなかった。<BR>
 僕にできることは、背後から僕を支えてくれたヴァレットに体重を預けることだけだったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ウィロウさまはあの日、来てくださらなかった。<BR>
 知らせはハロルドさんから受けたはずなのに。<BR>
 どうしてなのだろう。<BR>
 この頃のウィロウさまは、とてもそっけない。<BR>
 朝食時も、晩餐の時も、アフタヌーンティーの時さえも、お顔を見ることができるのは稀になっていた。<BR>
 お忙しいのだろうか?<BR>
 領地経営は、きっとわたしなどが想像できないくらいに大変なお仕事なのだろう。わたしは詳しくは知らないけれど、ウィロウさまはそれ以外にも他にお仕事をなさっているらしい。<BR>
 南の領域から東の領域の二階に移された部屋で赤ん坊の靴下を編みながら、わたしは溜息を吐いていた。<BR>
「どうなさいました?」<BR>
「いいえ。なんでもないのよ」<BR>
 普通に微笑むことができているだろうか。口角がひきつるような気がしてならない。<BR>
「前の奥さまがお亡くなりになられたのが三年前の今頃なのだそうですよ」<BR>
 何気ないように言うルイゼの事情通さに、目を見開く。<BR>
「前の奥さま………」<BR>
 すっかり忘れていた。<BR>
 わたしは後妻なのだ。<BR>
 そう。<BR>
 アークレーヌさまのお母さま、ウィロウさまの先の奥方さま。<BR>
 離婚などという外分の悪いことを貴族がするはずもない。せいぜいが、別居といったところだろう。だから、後妻を迎える貴族の大多数は、相手を亡くしている場合が多い。<BR>
 当然、ウィロウさまの前妻も、亡くなられている。<BR>
 これまで考えたこともなかった自分が、どれだけウィロウさまとの結婚に浮かれていたのかを物語っていた。<BR>
 どうして亡くなられたのか。<BR>
 さすがにルイゼもそこまでは知らなかった。<BR>
 どんな方だったのだろう。<BR>
 とても今更の疑問だった。<BR>
 もしかして、ウィロウさまは今も、前の奥さまを愛してらっしゃるのだろうか。<BR>
 そうかもしれない。<BR>
 だから、あんな事件が起きたというのに、ハロルドさんに任せっきりにされるのだ。<BR>
 たった一言でいい。<BR>
 やさしいことばをもらうことができれば、この不安は、消すことができる。<BR>
 そう。<BR>
 きっと。<BR>
 わたしは編みかけの靴下をテーブルの上にそっと置いた。<BR>
「ハロルドさん」<BR>
 家令の仕事部屋の扉をノックした。<BR>
「奥さま、何事でしょうか」<BR>
と、ウィロウさまと歳も変わらないだろうハロルドさんが机から顔を上げてわたしを見ていた。<BR>
「ハロルドとお呼びください」<BR>
 とってつけたように言うハロルドに、<BR>
「前の奥さまの肖像画とかありますか? あるのなら見たいのですけど」<BR>
 なるたけ冷静に言ったわたしのことばに、ほんの少しハロルドのメガネの奥の目が大きくなったような錯覚があった。<BR>
「ございますよ。こちらへどうぞ」<BR>
 やりかけの書類をまとめ終わったハロルドが、ソファに座っていたわたしを先導してくれた。<BR>
<BR>
<BR>
 採光に気を使ったその部屋は西の領域のグランドフロアにある絵画専用の部屋で、壁にはおびただしい数の肖像画や家族の肖像画がかけられていた。<BR>
 奥の端にあるのが、初代アルカーデン公爵のものだという。<BR>
 ずらりと下がって、目の前にあるのが、ウィロウさまの幼い頃と若かりし頃の肖像画とご両親と共に描かれた肖像だった。<BR>
 とても凛々しくお美しい。<BR>
 この方が、わたしの旦那さまなのだ。<BR>
 そうして、その隣にある家族の肖像画が、ウィロウさまのご家族の肖像。<BR>
 椅子の背後に立つ十代後半の青年貴族と、椅子に座る初々しい美貌のレディ。<BR>
「この方が………」<BR>
 わたしは惚けたようにその女性を見ていた。<BR>
 それは、とても美しい女性の肖像だった。<BR>
 透けるような白い顔を彩っているのはマホガニー色の艶めく髪。額に嵌ったティアラには真珠の飾りが品よく配置されている。薄い貝殻のような耳。小さめの通った鼻の下に薄幸そうな小さなくちびる。綺麗に弧を描いた細い眉。アーモンドのような双眸。深紅のレースのリボンが巻きつく細い首。くっきりと浮き上がる鎖骨から下を美しく包み込むのは、繊細なレースをふんだんに使ったドレスである。女性的なラインを描く方から腕。手袋に包まれた腕の先では労働とは無縁の細い指が扇を持っている。<BR>
「レイヌ・アルカーディさまでございます」<BR>
「とてもお美しいお方でしたのね」<BR>
 ころがり出たのは、力のない言葉だった。<BR>
 なよやかな、たおやかな、わたしとは正反対の貴族的な容姿。<BR>
 見せつけられた。<BR>
 決して、かなわない。<BR>
 そんな気がした。<BR>
 どんなに気をつけても日に焼けるのを避けるのが困難な故郷の気候。<BR>
 ここに来て少しは白くなったろうけれど、それでもまだそばかすの散る顔はわたしにとってのコンプレックスだった。<BR>
 指を見る。<BR>
 女性にしては、関節の節が目立つ少し不恰好な指。移動には絶対に馬が必要な環境で、御者の真似事は必須だった。乗馬は趣味などではなく、生活と切り離すことができないもので。それに、金鉱掘りや砂金取り、鉱山仕事に従事する荒くれの多い土地柄の上に、ヘビなどの危険な生き物のいる土地柄である。女性だとて護身用のピストルは必須だった。<BR>
 上流階級と呼ばれる生活ではあったけれど、家事も一通りはできる。山火事の炊き出しに参加したこともある。<BR>
 上流階級と呼ばれる層の質があちらとでは違うのだ。<BR>
 優雅にお茶を飲み、することといえばお喋りと刺繍など。<BR>
 もちろん、社交シーズンの忙しさは昨年少しだけ体験してはみたけれど。<BR>
 子供がお腹にできたことで、しばらくは首都に出向くことはできなくなった。おそらく、今年の参加は無理だろう。少し残念だけれど、社交界の本格的な洗礼を受けなければならないことを鑑みれば、猶予ができたことは幸運なことのように思えた。<BR>
 そう。<BR>
 必ず、レイヌさまと比べられる。<BR>
 それは逆らいようのない事実だった。<BR>
「奥さま?」<BR>
 込み上げてくる悲しみがハロルドの前で形になる前に、わたしは急いで踵を返したのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれが、何を意味していたのか。<BR>
 悪夢の只中にあって、僕はようやく理解した。<BR>
 あれは。<BR>
 あれこそが、僕の本当の母親だったのだ。<BR>
 夢の中で、父は、彼女をこそ”レイヌ”と呼んだではないか。<BR>
 では。<BR>
 あの優しい白い手の主は、父が”レイラ”と読んだ彼女は、僕の本当の母親ではなかったのだ。<BR>
 ゆらゆらと揺れた、青黒い顔。<BR>
 あの顔が、幼い頃の僕を苦しめた。<BR>
 夢に出てきて、僕を睨み付けるのだ。<BR>
 そんな僕に、”レイラ”が、呪(まじな)いをかけた。<BR>
 彼女の首にかけられていた銀のクルスが、ゆらゆらと揺れて、幼い頃の悪夢(リアル)を心の底へと押しやったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ギィギィと耳障りな音に誘われるように、目を見開いた。<BR>
 暗い。<BR>
 ああ、何時だろう。<BR>
 時計のないこの部屋ではわからない。<BR>
 喉が渇いた。<BR>
 寝室に戻らないと。<BR>
 起きあがって、身震いする。<BR>
 寒かったのだ。<BR>
 ぐらりとめまいのするような感覚に襲われて、しばらくその体勢から動けなかった。<BR>
 悪夢のせいだろう。<BR>
 肩で息をするようにして、めまいをやりすごす。<BR>
 その間にも、ギィギィと癇に障る音がする。<BR>
 ギィギィと−−−まるで僕の脳からすべてを取り込もうとするかのように、耳の奥へと入り込んでくる。<BR>
 気持ちが悪い。<BR>
 立ち上がるのは億劫でたまらなかったが、このままここにいては駄目だとなにかが僕を急かしてくる。<BR>
 つるりとながれ落ちる生汗の感触にからだを震わせながら、ようようのことで立ちあがった僕は、息を呑んだ。<BR>
<BR>
 まだ、悪夢の中にるのだろうか?<BR>
<BR>
 ぼんやりした意識のどこかで、猫が鳴いた。<BR>
<BR>
 ギギィと、より大きな音がして。<BR>
 黒く太い紐からぶら下がった女が、僕を見てくちびるに弧を描いて見せた。<BR>
<BR>
「おかぁさま」<BR>
 声に出しただろうか。<BR>
 僕の記憶は、そこで途切れた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「どうして?」<BR>
 目を疑った。<BR>
<BR>
 南の領域に新たに設けた、やがて生まれてくるこどものための部屋だった。<BR>
 わたしの部屋の続き部屋を、ウィロウさまにお願いしてこどものために設え直したのだ。<BR>
『あなたとこどもの領域だから、好きにして構わない。なにか必要なものがあれば遠慮なくハロルドに言うといい』<BR>
 どこか物憂げなようすでウィロウさまはそうおっしゃってくださった。<BR>
 まだ男の子か女の子かもわからないこどものために、やわらかなクリーム色の壁紙を選んだ。温かな春の日差しめい淡い黄色のカーテンも選んだ。少し濃い黄色の糸で細かな花や鳥や蝶の刺繍をしてある可愛らしくて手の込んだものだ。絨毯は毛足の長い濃い目のシナモン色の地色に白い花模様にした。家具は、赤ん坊にはまだ必要ではないだろうから、その代わりにたくさんのクッションを準備した。これで怪我もしにくくなるだろう。この部屋で這い這いをするウィロウさまとわたしのこどもの姿を思い描いて、わたしは胸の奥が暖かくなるのを感じた。<BR>
 その昔流行った宝飾品ほども値段がしたというレースみたいな薄いレースの天蓋付きのベビーベッドも取り寄せた。とても細かなバラと天使をモチーフにしたリネンの白が、艶出しで光るクルミ材のベビーベッドにとてもよく映えた。これは、必要がなくなるまではわたしのベッドの脇に置くことになるだろう。寝心地がいいように、やわらかなコットンの寝具を厳選した。<BR>
 準備をしている間はとても楽しくて心がうきうきと弾んだけれど、ほんの少しだけ小さな魚の骨のような不満があった。<BR>
 どうして、ウィロウさまは一緒に選んでくださらないのだろう。<BR>
 ふたりのこどものものをふたりで選ぶのは、とても大切で楽しいことのはずなのに。<BR>
 首都までは遠すぎて、カタログを複数取り寄せた。<BR>
 それを一緒に見るのは、ウィロウさまではなく、ルイゼなのだ。<BR>
 もちろん彼女に不満があるわけではないけれど、ウィロウさまと一緒に見て、こどものことやその他他愛のないおしゃべりをしたいという思いがあるのが事実だった。<BR>
 たとえばこれと思うものがあって、ウィロウさまにご相談したい、お見せしたい、感想を聞きたいと思っても、ハロルド止まりで終わるのだ。<BR>
 こどもの産着に関しても、なにもかも。<BR>
「ルイゼ。ウィロウさまはこどもには関心がないのかしら」<BR>
 そう言ってみた。<BR>
 もちろん、ルイゼは未婚だから、こういう相談はお門違いなのだろうけど、訊ねずにはいられなかったのだ。<BR>
「ケイティさま。ご安心ください。以前母が姉を諭していたのを小耳に挟んだことがあるのですけれど、男親というものは、赤ん坊をその目にするまでは自分の子という認識を持てないものだそうですわ」<BR>
 思いもよらない返答に、わたしは目を大きく開いただろう。<BR>
「そういうものなの?」<BR>
「だそうですよ。なんでも、女性は自分の内にこどもを実感できますけど、男親は目で見て触るまではやっぱり、こう、自覚しにくいのですって」<BR>
 ですからね。<BR>
 こどものことは、女性同士の方が忌憚なくお話できていいですよ。<BR>
「そうなの?」<BR>
「はい」<BR>
 にっこりと笑うルイゼに、<BR>
「じゃあ、この布とこの布のどちらの産着がいいかしら」<BR>
 カタログについていた小さな布の切れ端を二枚差し出したのだ。<BR>
<BR>
 そういて、いくばくかの不満はあったものの、着々とこどもを迎える準備が整って行った。<BR>
 そうして、今日。<BR>
「どうして?」<BR>
 まだ目立つことのないお腹を撫でながら小部屋の扉を開けたわたしは、そんなうめきとも知れない声をあげていた。<BR>
 悲鳴なんででなかった。<BR>
 足から力が抜けて行くのがわかった。<BR>
 ドアの端っこを手で擦るように、わたしはその場に蹲った。<BR>
 顔を覆う。<BR>
 だって。<BR>
 なぜなら。<BR>
「誰が………」<BR>
 生まれてくる子のために誂えた部屋の中が、これ以上ないというほどに荒らされていたからだ。<BR>
 壁紙もカーテンもクッションさえもがズタズタだった。<BR>
 クッションの詰め物があちこちに撒き散らされ、絨毯にはインクが染み込んでいる。<BR>
 いたずらなんかじゃない。<BR>
 唯一裂かれていなかった一番心地良さそうな大きいクションに突き立てられた裁ちばさみが、それを示唆しているような気がした。<BR>
 あまりにも明確すぎる害意。<BR>
 それを感じた。<BR>
 誰かが、この子の誕生を喜んでいない。<BR>
「………アークレーヌさま?」<BR>
 不意に脳裏をよぎったのは、あの白い容姿だった。<BR>
 ウィロウさまに嫁いで二月近く、会話という会話もない、義理の息子。<BR>
 顔すら数えるほどしか見たことのない、三つ年下の、アークレーヌ・アルカーディ。<BR>
 彼なら?<BR>
 首を横に振る。<BR>
 わたしにこどもができたとしても、彼が次期公爵であるという事実は変わらない。<BR>
 ”御曹司”と呼ばれるのは、彼だけなのだ。<BR>
 それに、彼がここにどうやって忍び込むというのだ。<BR>
 ここは、わたしがメインに使っている部屋の奥の端なのだから。<BR>
 わたしや召使の目を盗んでここにくるのは、難しいのに違いない。<BR>
 けれど。<BR>
 なら。<BR>
 いったい誰が?<BR>
「きゃあっ」<BR>
 つん裂くような悲鳴にわたしの思考は断ち切られた。<BR>
 いつの間にかルイゼがわたしの近くで、悲鳴をあげていた。<BR>
「奥さま。これは?」<BR>
「ひどい」<BR>
「なんてこと」<BR>
 たちまち召使たちが駆けつけてくる。<BR>
 最後にウィロウさまとハロルドとが駆けつけてくると、その只中で、ルイゼはくたくたと気絶したのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「危のうございます」<BR>
 ヴァレットが差し出してくる手を思わず払いのけた。<BR>
「すまない」<BR>
 気まずいままに謝罪が口をつく。<BR>
 本来なら使用人に対して口にすることではないのだが、最近の僕は、いつにも増しておかしいのだ。<BR>
 自覚はあった。<BR>
「差し出がましいことをいたしました」<BR>
 先導でソファに腰を下ろした。<BR>
 僕のからだが、僕のものであって僕のものではない。そんな、変な感触に捉われてどれくらいになるだろう。<BR>
 足にまとわりついてくる猫を膝に抱き上げる。<BR>
 あの日。<BR>
 どうしようもないほど己の情けなさに震えたあの日。<BR>
 実の母親の記憶を取り戻したあの日。<BR>
 育ての母をそうと認識したあの日。<BR>
 目が覚めると父に抱きしめられていた、あの朝。<BR>
 あれからだろうか。<BR>
 いつも以上にぼんやりしている。<BR>
 今カップを持っている手は確かに僕のものだという感覚はある。しかし、手から伝わるそのすべらかな感触が、何か薄い膜を一枚隔てたもののように感じられるのだ。<BR>
 そう。<BR>
 全てが全てにおいて、そんな、一枚の膜ごしに見て、聞いて、しゃべっている、感じている、そういう不快感を伴っていた。<BR>
 怠い。<BR>
 何もする気が起きなかった。<BR>
 
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 日差しの差し込む南の領域のテラスで、わたしたちは午後のお茶を楽しんでいた。<BR>
 コンパニオンであるルイゼがテーブルの反対側に座っている。わたしよりも少し年上の、可愛らしい女性だった。<BR>
 嫁いでから半月が過ぎようとしていた。わたしの毎日は、ウィロウさまを中心にして回っていた。朝起きてから寝るまで。寝てからも、かもしれない。毎日、スケジュール通りの行動をとられるウィロウさまなので、それは決して難しいことではなかった。それは、時折、イレギュラーなことも起こりはするけれど、基本、決まった時間に決まったことをして過ごされるウィロウさまだった。それは、以前も今もこれからも、変わることはないのだと思われた。ウィロウさまにとってはそこに、おそらくは、わたしとの生活が加わっただけなのだろう。朝食の時、アフタヌーンティーの時、晩餐の時、わたしがウィロウさまのお顔を見ることができるのは、早朝と夜遅くを除くとそれくらいだったけれど。それに、それにこれまで、最初の夜を除いて、わたしはほぼ毎夜、ウィロウさまと夜を共に過ごしていた。<BR>
「ウィロウさまは今日は遅いのね」<BR>
 いつもなら顔を覗きに来てくださる頃合いなのに。<BR>
 暗にそうほのめかせば、<BR>
「お寂しいのですか?」<BR>
 ルイゼが小首を傾げる。<BR>
 微笑ましいと言いたげな彩りがルイゼの小さめなくちびるをかすめた。<BR>
「そういうわけじゃないけど………」<BR>
 ケーキスタンドの上のフェアリーケーキをひとつ取り上げる。イチゴジャムの入った、バタフライケーキだった。<BR>
 お行儀が悪いけれど、紙をはがして、そのまま頬張る。そんなわたしを、ルイゼが目を丸くしてみていた。<BR>
「ウィロウさまには内緒、ね」<BR>
 ルイゼは皿に取り分けて、フォークで四分の一に切って口に運ぶ。ただでさえ小さなカップケーキが名前の通り、まるで妖精が食べるケーキのように見えた。<BR>
「旦那さまは、御子息さまのお部屋にいらっしゃるのでは?」<BR>
「どうして?」<BR>
 ふと思い出したというように、ルイゼが口にした。<BR>
「たしか、今朝から体調を崩されていらっしゃられるとか聞き及んでおりますよ」<BR>
 白−−−が脳裏をよぎった。<BR>
 義理の息子になったアークレーヌさまのあの独特な容姿を思い出す。まだ未完成の初々しさを持つ、線の細い少年。長い前髪が表情を判りづらく見せていて、かろうじてあの印象的な赤いくちびるが頑なな心情を湛えているように見えた。<BR>
 アルカーディに嫁いで半月、”御子息さま”、”御曹司”と呼ばれるアークレーヌさまとお話ししたのは最初の夜のほんのすこしだけだった。それ以来、顔をあわせることもなく過ごしてきた。館が広いこともあって不思議なことではないのだろうけど、ルイゼが言うには貴族というのはこういうものだそうだけれど、故意に避けられてるのじゃないかと勘ぐってしまう。<BR>
 あの少年が、体調を崩している。<BR>
「大丈夫なの?」<BR>
 最初の夜も、体調が悪いと晩餐の席を早々に立っていた。あの時の、本当にお辛そうだった青白い頬を思い出す。<BR>
「お小さい頃からおからだがお弱いと聞いておりますし。あと、お見舞いの必要はございませんと伺っております」<BR>
 そういえば、からだが弱いと聞いたような。<BR>
「誰から?」<BR>
「ハロルドさんからですわ」<BR>
 それにしても、<BR>
「十六の男の子をそこまで心配する?」<BR>
 少し、ほんの少し、これはやきもちなのかも知れなかった。けれど、義父は、兄たちが幼い時に体調を崩したくらいではさほど心配をしたようすを見せたことはなかったのだ。<BR>
「………跡取りですもの。ご心配でしょう」<BR>
 そっと、わたしを気遣うふうを見せながら、ルイゼが小さくささやいた。<BR>
「………」<BR>
 跡取り。<BR>
 考えたことはなかったけれど、そうなのだ。<BR>
 彼が、次のアルカーデン公爵さまなのだ。<BR>
 わたしにこどもができたとしても、この家を継ぐことはできない。<BR>
 それが少しだけ、本当にちょっとだけ、気になった。<BR>
 紅茶に手を伸ばした。<BR>
 冷めて渋みの際立つ味は、どこかわたしの感情に似ている、そんな他愛のないことを考えた。<BR>
<BR>
 その日の夜からしばらく、ウィロウさまと夜を過ごすことはなかった。<BR>
<BR>
 そうしてウィロウさまに嫁いで一月が経とうというころになって、わたしは、わたしの妊娠を知ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「大丈夫でございますか」<BR>
 従うヴァレットが口にする耳に馴染んでしまったことばを素通りさせながら、僕は館に戻った。<BR>
 −−−大丈夫だと言っては嘘になる。<BR>
 −−−大丈夫じゃないと言って、どうなるというのか。<BR>
 僕はどうせ一生ここから出ることはないだろう。<BR>
 戦う前から負けている負け犬なのだという自覚は痛いくらいにある。<BR>
 父に心底から逆らうことができずにいる自分を、僕は知っている。いつしか苦痛の中から肉の悦びを拾い上げてしまうようになったこの身の浅ましさを自覚せずにはいられなかった。<BR>
 狂ってしまった父。<BR>
 その狂気が、母の死ゆえだと。<BR>
 その悲しみを分かち合う親子が、肉欲をも分かち合うその狂ったありさまに、絶望を覚えながら逃れることさえもしないでいるのだ。<BR>
 泣きわめき拒絶を口にしながら、一歩を踏み出さない。<BR>
 逃げない−−−と。<BR>
 そんな僕を知っているからこそ、父は、僕を自由にさせているのだ。<BR>
 今更、僕が貴族以外の暮らしができるわけもない。<BR>
 それくらい、僕だとてわかっている。<BR>
 貴族としての諸々を全て剥ぎ取ってしまった僕は、ただの能無しにすぎないのだ。<BR>
 絵はあくまで趣味にすぎない。<BR>
 もはや満足に弾くことのできないピアノだとて、以前ですら趣味の範囲でなら褒められるていどの腕だったろう。<BR>
 頭もさして良くはない。<BR>
 身体能力など、推して知るべしでしかない。<BR>
 こんな僕が家を出て、何ができるというのか。<BR>
 以前ほど恐怖心を覚えなくなったとはいえ、未だ時折覚えるひとに対する恐怖を抱えたままで。<BR>
 これでは、貴族としてさえ生きて行くことはできないだろう。<BR>
 こんな僕のどこが”大丈夫”だというのか。<BR>
 もはや、”大丈夫”ということばを口にすることすら億劫になっていた。<BR>
「おかえりなさいませ」<BR>
 ハロルドのことばに、<BR>
「しばらく休む。誰も通すな」<BR>
 どうせ父には反故にされるとわかっている命令をしていつもの寝室に戻るつもりだった。<BR>
 しかし、僕の足はその部屋の前を通り過ぎた。<BR>
 通り過ぎて、ずっと奥、突き当りにある隠し階段を上る。そのまま五階のあの小部屋に僕は入っていた。<BR>
 緑色の別珍に複雑な模様を織りだしたベッドカバーを剥ぐ。猫はいない。まだ戸外をうろついているのだろう。<BR>
 むしり取るようにスカーフを抜き取り、ジャケットを脱ぎ捨てた。<BR>
 靴を脱ぐのに少し時間はかかったがそのままベッドに入り、布団を頭からかぶった。<BR>
 まだ風が冷たかったせいだ。<BR>
 全身の震えをそう言い訳する。<BR>
 己の無能さに叫びだしたくなったわけでは、決してない。<BR>
 己の無能さに、泣きたくなったわけではない。<BR>
 感情の澱が心の底にどろどろといやらしい渦を巻く。<BR>
 それに震えながら眠った僕は、悪夢を見た。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「近寄らないでっ!」<BR>
 頬で爆ぜた熱に僕はびっくりして、泣こうとした。<BR>
 けれど、そんなこと意味はなかった。<BR>
「お前などっ! お前などいらないっ!」<BR>
 僕の頬を打った畳まれた扇が、僕の頭と言わず首と言わず背中と言わず、ありとあらゆる箇所を打ち据えたからだ。<BR>
 痛くて、熱くて、悲しくて、寂しくて、ただ床にうずくまっていた。その脇腹さえ、先の尖った靴で蹴られて、僕はひっくり返ったカエルのように天井を向いて転がった。その腹の上に、細いヒールが押し当てられる。<BR>
 ヒッヒッと、声にならない引きつった泣き声を無様にこぼしながら、僕は涙に霞んだ視界に映るそのひとを見上げていた。<BR>
 そのひとが誰か、僕は知っていた。<BR>
「おかぁさま」<BR>
 声にして呼べば、止めてくれるのではないかと思った。<BR>
 けれど、<BR>
「ヒッ!」<BR>
 伸ばした手でつやつやしたドレスの裾を握りしめたけれど、<BR>
「さわらないでっ」<BR>
 足は外されたけれど、そのひとも僕に背を向けて何処かに行ってしまわれた。<BR>
 僕の手の中に、ドレスの裾に縫い付けられていた同色のレースの切れ端だけが残っていた。<BR>
 しばらく、僕はそのままの体勢で引きつった泣き声をあげていた。<BR>
 やがて、ドアが開き、軽い足音が響いた。<BR>
「ああ。アークレーヌ」<BR>
 先ほどどこかに行ってしまわれたおかあさまが別のドレスに着替えられて戻ってこられ、僕を抱きしめてくださった。<BR>
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたは悪くないの。少しも。決して。愛しているわ」<BR>
 抱きしめてくださって、頬ずりをしてくださった。やさしく涙を拭いてくださった。<BR>
「おかぁさま」<BR>
「ええ。ええ。お母様ですよ。アークレーヌ。わたくしの可愛い子」<BR>
 頭を撫でてくださって、<BR>
「さあ、お着替えをしましょうね。その前に、傷の手当てをしてしまわなければ。痛かったわね。ごめんなさい。辛かったわね」<BR>
 ぽろぽろとおかあさまがながされる涙が、僕の頬を濡らした。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ギィギィと軋る音が耳障りだった。<BR>
 目を開けてみれば、ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光の中に、なにか黒いものが揺れていた。<BR>
「おかぁさま?」<BR>
 喉が痛かった。<BR>
 ああ。<BR>
 思い出す。<BR>
 おかあさまが僕の首を絞めたのだ。<BR>
 泣きながら、笑いながら、僕の首を絞めた。<BR>
 だから、僕は苦しくて、そのまま死ぬのだと思った。<BR>
 怖かったけれど、おかあさまの様子のほうがその何倍も恐ろしくてどうすればいいのかわからなくて、そのまま意識を手放したのだ。<BR>
 おかあさまは、僕に死ねと仰るのだ。<BR>
 どうしてお前が生きているのと、仰る。<BR>
 憎いと、仰られる。<BR>
 お前などいらないと叫ばれる。<BR>
 そうして、いつもいつもどこかに行ってしまう。行ってしまって戻って来る。そうして、いつもいつも、泣きながら謝るのだ。<BR>
 ごめんなさいと。<BR>
 愛していると。<BR>
 あなたが悪いのじゃないと。<BR>
 だから、僕は、わからないのだ。<BR>
 ここにいていいのか悪いのか。<BR>
 生きていていいのか悪いのか。<BR>
 何もかもがわからない。<BR>
 だから、わからなくて、おかあさまのすることに抵抗することができなくなった。<BR>
 おかあさまが死ねと仰られるのなら、死ぬしかないのだと。<BR>
 悪いと言われるのなら、僕が悪いのだと。<BR>
 暗い暗い意識の底で、僕は、このまま死んだほうがいいのだろうと、思った。<BR>
 けれど、僕は死んではいなかった。<BR>
 生きている。<BR>
 死んでいない僕は、おかあさまに怒られる。<BR>
 おかあさまが泣いてしまわれる。<BR>
 けれど、あの苦しさをもう一度味わいたいとは思わなかった。<BR>
 喉が痛い。<BR>
 見上げた視線の先、黒い梁から下がったロープの先で、おかあさまが揺れている。<BR>
 揺れるたびに、いろいろな色が、おかあさまを飾る。<BR>
 埃の舞う、暗い部屋の中、ステンドグラス越しの日差しだけが、揺れるおかあさまを彩っていた。<BR>
「おかあさま?」<BR>
 いつも綺麗にお化粧をされているおかあさまとは思えない奇妙なお顔をなさって、おかあさまが僕を見下ろしていらっしゃる。<BR>
「にらめっこ?」<BR>
 おずおずと、僕も変な顔をしておかあさまを見上げたけれど、おかあさまは笑ってくださらない。<BR>
 そんなに変な顔ではなかったろうかと、口を大きく開いたり、目を左右に指で引っ張って細くしたり、鼻を押し上げてみたり、いろいろしてみたけれど。<BR>
 少しも反応を返してくださらないおかあさまに、僕がどうしようもない寂しさを覚えた頃、<BR>
「こんなところにいたのか、レイヌ。アークレーヌ」<BR>
 心配そうな声が聞こえてきた。<BR>
「おとうさま………」<BR>
 僕が言い終えるかどうかという時、<BR>
「レイヌっ!」<BR>
 大きな音を立てて、おとうさまが部屋に入ってきた。<BR>
「アークレーヌ、見てはならないっ! ハロルド手伝え。レイラ嬢、アークレーヌを部屋の外にっ」<BR>
 幾つもの小さな悲鳴は、名を呼ばれることのない召使たちのものだった。<BR>
 けれど、そんなことはどうでもいいことだった。<BR>
 僕は、ただ、びっくりしていたのだ。<BR>
 父の大きな声にもだけど、それよりも、<BR>
「おかあさまが………ふたり」<BR>
 僕の目を白いやわらかな掌で覆い隠した”レイラ嬢”と呼ばれた女性は、おかあさまだったからだ。<BR>
「アークレーヌ。さあ、部屋を出ましょうね」<BR>
 そのまま僕の肩を抱いて、おかあさまと一緒に部屋を出る。<BR>
 けれど、僕は、呆然としていた。<BR>
 にらめっこをして揺れていたおかあさまと、僕と一緒にいるおかあさま。<BR>
 僕には、ふたりのおかあさまは、まるっきり同じ顔だった。<BR>
 こちらのおかあさまの手を振り切って振り返ってみても、もう揺れていたおかあさまを見ることはできなかった。<BR>
「おかあさま?」<BR>
「後でね。みんなの邪魔になるから、お部屋に戻りましょう」<BR>
 いつもよりも強く手を握られた瞬間、<BR>
「やっ」<BR>
 思わず振り払っていた。<BR>
 全身が震えた。鳥肌が立つような恐怖と嫌悪とに襲われたのだ。<BR>
「アークレーヌ?」<BR>
 目の前にしゃがみこんで、おかあさまが僕を見る。<BR>
 悲しそうに、辛そうに、苦しそうに。<BR>
 僕の首に、おかあさまの細い手が伸びてくる。<BR>
 僕は、首を横に振る。<BR>
 ぽろり−−−と、涙がこぼれ落ちた。<BR>
「痛かったわね。怖かったわね。でも、大丈夫よ。大丈夫」<BR>
 僕を抱きしめて、耳元で、
「痛いことをするひとは、もういない」<BR>
 小さくささやいた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 そんなわけで2回目です。この後はまだできてません。
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 脛を何かが擦る感触で我に返った。<BR>
 見下ろせば、黒い和毛(にこげ)に包まれた見慣れた姿が尾をピンと伸ばして僕にからだをこすりつけていた。<BR>
「おまえ………」<BR>
 名前のない黒い猫を脇に手を差し入れて抱き上げる。別段嫌がるでもなくぶら下がるように力を抜いてされるがままの猫を膝に抱えた。<BR>
 毛氈に腰を下ろす。<BR>
 イーゼルに立てかけた画布の中では、目の前で威容を誇る緑に染まりつつある大地の只中の環状列石柱(ドルメン)が黒白のコントラストを見せている。それぞれの列柱の隙間に、今も古のドルイドたちの姿を垣間見ることがあるかのような、古い遺跡だった。古く、アルカーディの先祖はドルイドだという伝説もあったが、その真偽を確かめる術はない。しかし、代々のアルカーディの女性たちは、なにかと神秘的な物事に傾倒しがちな面があった。真実、母もまた神秘に惹かれるひとりであった。母の髪を縛っていた赤いリボンの先についた燻し銀のドルイドベルの高く澄んだ音色が、ふと耳の奥に蘇る。<BR>
 昨夜の今朝で、倦怠感は抜けないが、部屋にいるのも苦痛だった。<BR>
 食欲などもとよりありはしなかった。それでもと、執事の用意したバスケットが毛氈の上に置かれている。バスケットの横にはミルクと果汁まで準備されている。<BR>
「ああ。匂いに惹かれたか?」<BR>
 バスケットを開けようとすれば、背後で黙したままだったヴァレットが先に動く。<BR>
「ミルクを注いでやってくれ」<BR>
 ミルクを小さな皿に注いで、猫を近くに下ろしてやる。<BR>
「御曹司もなにかお召し上がりになられませんと」<BR>
 いらないと言いたかったが、あまりに心配そうな視線に、<BR>
「オレンジジュースを」<BR>
 肩をすくめた。<BR>
 差し出されるグラスを受け取り、口をつける。<BR>
 甘酸っぱい果汁が喉の渇きを癒してゆく。渇いていたのだなとそこで初めて自覚した。<BR>
<BR>
 絵を描くことは、学校で覚えた。<BR>
 その時間だけが、僕にとっては穏やかなひと時だった。<BR>
 まだ健在だった母が僕を手放したがらなくて、学校生活を過ごしたのは中等部の一年からで結局一年に足りないほどだったけれど、思い出したくもない。<BR>
<BR>
 公爵子息ということであからさまないじめなどは受けなかったが、それでも上級生からの何がしかの嫌がらせが毎日のようにあった。<BR>
 寮生活という世間から隔絶された毎日にあって、常識というものが少しばかりいびつになっていたのだろうか。<BR>
 ささやかな、それでいて執拗な嫌がらせの数々は上級生である第三王子が中心になって行われたものだった。名前は、ウインストンだったろうか? 不敬だろうが、少しあやふやではある。ともあれ、第三王子である上に上級生であったから、逆らうことは難しかった。なにしろ学生である間は身分の上下は関係ないとの建前があっても、上級生の命令は絶対というのが暗黙のルールであるためだ。もちろん、度を過ぎた理不尽な命令であれば拒絶も許されたが、まだ未熟な年齢の集まりであるため、稀に洒落にならない事件となることもあるらしかった。<BR>
 幼年から寮生活を送っていれば、慣れることもできたろう。しかし、十三の歳までからだの弱かった母と共に領地で暮らしていた僕にとって、初めての他人ばかりとの生活は苦痛でしかなかったのだ。溶け込むことが難しく、馴染むことが辛かった。<BR>
 だから、僕は、周囲から浮いてはいただろう。<BR>
 馴染もうと努力はしたのだ。しかし、あまり無理をすると始まる頭痛を堪えることが辛くてならなかった。だから、自覚はなかったものの、いつしか一歩周囲から引いてしまっていたらしい。<BR>
 そんな僕の楽しみといえば、初めて覚えた絵画のスケッチと、母に聞かせていたピアノくらいなものだった。<BR>
 原因ははっきりとしないが、部屋割りか、寮弟制度か、監督生とのやりとりか。来賓の前でピアノを披露する役目を僕が担うことになったことだったのか。それとも、あの非日常な空間にあって蔓延していた同性同士のやりとりが原因だったのか。<BR>
 それらすべてが複雑に絡まりあった末に起きたことなのかもしれない。<BR>
 その事件で、僕の左手の力は無くなってしまった。<BR>
 ピアノを楽しむことができなくなってしまったのだ。<BR>
<BR>
 寮に備えつけのグランドピアノは年代物だった。滅多に誰かが弾いていることはなかったが皆無というわけでもなく、翌日に迫った発表に少しでも指を慣らせておきたかった僕は監督生に許可を得て独占していた。<BR>
 曲目は、「ピアノのための瞑想曲」のつもりだった。百年以上昔の詩人の詩をイメージして作曲されたという、静かな印象の曲である。そのため、来賓たちの好みを考えてもう少し派手なのにすればいいのにと提案をされもしたが、僕はこれを翻すつもりはなかった。<BR>
<BR>
 集中していた僕は、いつしか上級生達に囲まれていたのに気付くのが遅くなった。<BR>
 気づかない僕に焦れて、暗譜済みではあったがもしもの予防に立てかけていた楽譜を落とされて、手が止まった。<BR>
「熱心だな」<BR>
 嘲笑うように言われて、右手の主旋律が小指の動きを違えた。<BR>
 ウィンストンとその取り巻きの上級生たちだった。<BR>
 その時は、はっきりと覚えているとは言い難かったが記憶にある少年がひとり加わっていた。<BR>
「あなたは、たしか………」<BR>
 『もう少し派手なのにすればいいのに』と言ってきたのが彼だったような。ネクタイの色を見れば、上級生らしい。憎らしげにこちらを睨めつけてくる茶色の瞳が、可愛らしい顔には不似合いだった。<BR>
 もともとこれが仕上げのつもりで弾き終われば部屋に引き上げるつもりだったこともあって、邪魔されたなと、それだけを残念に感じていた。<BR>
 だから、どこかまだ完全に音の宇宙からこちら側へと戻りきっていなかったのにちがいない。<BR>
 そんな僕が気に入らなかったのだろう。<BR>
「やってよ」<BR>
 可愛らしい上級生が短く叫んだ。<BR>
 ピアノの蓋に手をかけたのを見て、なんとなく嫌な予感に襲われ手を引いていた。<BR>
 それが良かったのだ。わずかなタイムラグののちに大きな音を立てて蓋が閉められる。<BR>
 顔をしかめた僕が立ち上がるのに先んじて無理やり立ち上がらせ、羽交い締めにしてくる。<BR>
「いつも鈍そうにしてるのに、こんな時だけなんで素早いんだよ! 弾けなくなればいいのにっ」<BR>
 可愛らしい顔の上級生が僕の近くに盛大にしかめた顔を寄せる。<BR>
 いつの間にか手にしていた楽譜をわざとらしく大きな音を立てて破く。<BR>
「え?」<BR>
 そうなって、初めて、僕は声を出していた。<BR>
「いつだって僕が弾いてたんだよっ」<BR>
 頬を力任せに叩かれた。<BR>
「なぁに、関係ありませんって顔してんだよ」<BR>
 ジンジンと熱い痛みを感じながら、それなのにまだ僕はどこか非現実の中にいるような錯覚から抜け出しきるには至っていなかった。<BR>
「いっつもお高く止まってんだよなぁ下級生の分際で」<BR>
「いっくら公爵令息ったってさぁ」<BR>
「そのキレーな顔、泣かせてやりたいんだよなぁ」<BR>
 いつの間にか取り出されていたナイフが頬に当たる冷たい感触に、目が見開かれてゆく。<BR>
「そうそう。いっつもそうやって感情を出していれば少しは可愛いものを」<BR>
 底意地の悪そうな笑いのにじんだ声で、遅まきに湧き上がってきた恐怖を煽ってくる。<BR>
「アイスドールってかぁ」<BR>
「はなせっ」<BR>
 ジャケットの下、下着でもある白いカッターシャツがよく研がれたナイフで切り裂かれる。その手際の良さに、背筋が震えた。<BR>
 当時の僕には、何が起きているのかなど、全くわからなかった。<BR>
 なぜ、突然服を破かれるのか。皮膚が外気に晒されて、鳥肌が立つ。<BR>
 奇妙な空白の時に、加害者達が息を飲み生唾を飲み込む音だけがやけに大きく耳に届いた。<BR>
 向けられる視線に込められた熱が怖くて、気持ち悪くてどうしようもなかった。<BR>
 居合わせた誰も助けてくれなかった。<BR>
 そうだろう。<BR>
 相手は第三王子であるウィンストンと、その取り巻きなのだ。<BR>
 しかも、彼らは寮の最上級生。<BR>
 あの時あの場所に居合わせたものたちで、彼らに立ち向かえるものはいなかったに違いない。<BR>
「へぇ………顔だけじゃないんだ」<BR>
 ウィンストンが、僕の胸にぺたりと湿った掌をくっつけてくる。<BR>
 全身が震える。<BR>
 僕の肌理を確かめるように撫でさすりながら少しずつ下がって行く掌が、やがて金属音を立てた。<BR>
「やめろっ」<BR>
 いつの間に溜まっていたのか、涙が下まぶたからこぼれ落ちる。<BR>
 吐き気がこみ上げる。<BR>
 ガンガンと脳が直に殴られるように、視界がぶれる。<BR>
 なぜこんなことをされるのか、こんなことになんの意味があるのか、当時の僕には本当にわからなかった。<BR>
 入浴の手伝いをする執事やヴァレットならともかく、建前上とはいえ同等の立場にある彼らになぜ裸を見られ、触られなければならないのか。<BR>
 ズボンを引き抜こうとしてくる手に抗う。足をよじるようにして、力を込める。しかし、相手は複数なのだ。ナイフすら手にするものもいる。どうして敵うだろう。ナイフをズボンの前合わせに沿わせて、<BR>
「抵抗するなら、このまま切るぞ」<BR>
 そう言われて、恐怖にすくみ上がらずにはいられない。<BR>
「力を抜け」<BR>
 少し離れて、ウィンストンと可愛らしい顔をした上級生とが僕を見る。<BR>
 舐めずるような、獲物をいたぶる悪魔のような、悪辣な表情をして、楽しげに。<BR>
 僕は力を抜くことさえできず、首を左右に振る。<BR>
 力を抜けばどうなるか。<BR>
 ズボンを奪われれば、シャツの上部はすでに切り裂かれてその態をなしてはいない。そんな情けない姿を人前に晒したいわけがない。ナイフの存在をまざまざと感じながら、僕はただ足に力を入れていた。<BR>
 誰かから緊急の知らせを受けた監督生が駆けつけて来た時、僕は、動くに動けなかった幾人もの寮生たちの中で、見世物のような哀れな格好を強いられていたのだ。<BR>
 その屈辱。<BR>
 その恐怖。<BR>
 その悔しさ。<BR>
 怒り。<BR>
 羞恥。<BR>
 様々な感情のごった煮の只中にぶち込まれて僕は必死でもがいていた。<BR>
 これ以上どんな屈辱があるのか当時の僕は知らなかったが、それでも、何か良からぬことに襲われるということだけはうっすらと予感していたからだ。<BR>
 監督生の声が逆に彼らを煽った感があった。<BR>
<BR>
 今も僕の左の手の甲から掌にかけて醜く残る傷跡は、あの折り僕に向けられた害意の最終的な形だった。<BR>
<BR>
「やめないか!」<BR>
 短く鋭い声に、学校で一目置かれる監督生を認め、青くなったのは、可愛らしい上級生だった。<BR>
「名誉ある×××寮の一員たちが何をしている」<BR>
 続けられた声は、一転淡々としていた。<BR>
「今すぐ愚行をやめないか」<BR>
 溜息をつきながらナイフを取り上げようと近づいてくる。<BR>
 それに弾かれて、<BR>
「くるなっ」<BR>
 叫んだのは、ナイフを手にした者だったのだろう。同時に、ナイフが前合わせから離れる。<BR>
「また、君か」<BR>
 何度目だ。<BR>
「うるさい!」<BR>
 振り払うようにナイフを握っている手が動く。<BR>
 痛みが、僕の頬に走る。<BR>
 かすかな呻きに、少しばかりにじんだ血に、一瞬時が止まったかに思えた。<BR>
 しかし。<BR>
 野次馬と化したものたちが悲鳴を上げた。<BR>
 それが、次の動きを決めた。<BR>
 第三王子は、いつの魔にか傍観者の位置に移動している。そうなれば、取り巻きだということを周知されているとはいえ、実行犯は他ならない彼らなのだ。おそらく、第三王子という立場からウィンストンは、見逃されるだろうことが想像に易かった。そうなれば、アルカーディの権力は実行犯よりもはるかに勝る。学校内での戯れごととみなされる程度の虐めならば問題視されなくても、そこに血が流されたという事実が加われば、実行犯たちの家は潰されるかもしれない。彼等の廃嫡という処置で済めば御の字もいいところなのだから。<BR>
 そこまでを理解するほどの余裕がなかったのか。<BR>
<BR>
 ふりかぶられたナイフは、僕の心臓を狙っていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 目が覚めた時、そこはすでに、学校ではなかった。<BR>
 病院でもなく、馴染み深いマナハウスの自室だった。<BR>
 薄暗い部屋の中、誰か、ひとのシルエットが際立つ闇となって見えた。<BR>
「誰」<BR>
 声はしわがれ小さなものだったが、シルエットはそれに弾かれたように動いた。<BR>
「父上」<BR>
 やさしく額に触れてきたその掌の感触に、泣きたくなった。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 かすれ気味の穏やかな声が、僕の名を呼ぶ。<BR>
「………なにが」<BR>
 記憶はおぼろで、ただ疑問ばかりが大きかった。<BR>
 抵抗しようとかろうじて拘束を解き突き出した左手を貫いたため、ナイフは心臓まで届かずに済んだのだそうだ。<BR>
 けれど、僕の左手は、もう自由にピアノを奏でることができなくなってしまった。<BR>
 実行犯たちのその後も、その家がどうなったかも、僕は知らない。第三王子もあの可愛らしい上級生もどうでもいい。<BR>
 理由も何もかも、知りたくもなかった。<BR>
 声も出せずにただ涙を流す僕に、<BR>
「全て忘れてしまうといい」<BR>
 父は僕の内心を知っているかのように何度もそう囁いた。<BR>
 何度も、何度も、僕が再び眠るまで、父は僕の頭を撫で、囁き続けたのだ。<BR>
<BR>
 父は静かに、ただ穏やかにそこにいた。<BR>
 母の死の折りのあの嘆きを、心の奥深くに沈めて。<BR>
 向けられる父の視線の意味を、深く考えることなどありはしなかった。<BR>
 父は、父であり、それ以外ではなかった。<BR>
 それ以外になるはずがない。<BR>
 なっていいわけがなないのだから。<BR>
<BR>
 怪我も治り、父の雇った家庭教師(チューター)が僕の勉強を見るようになって、ふと僕は気付いた。<BR>
 他人の視線というのが、恐ろしくてならないということに。<BR>
 最初は、勉強をしたくないという怠け癖が家庭教師と共にいることを嫌悪させているのだと思っていた。<BR>
 しかし。<BR>
 やがて、過呼吸の発作となって、それが現れだした。<BR>
 家庭教師は僕をいじめはしないのに。<BR>
 彼が時々手にする定規の動きに、黒板を指す短い鞭の動きに、心臓が跳ねるような恐怖を覚えるようになった。<BR>
 それは日々大きくなっていった。<BR>
 見られているだけなのに、からだが震えるようになった。<BR>
 相手の、目が怖かった。<BR>
 なにを思って見てくるのか、ごく普通のその感覚が、怖くてしかたがなかった。<BR>
 けれど。そんなことを知られたくなくて、僕は必死に我慢した。<BR>
 それが悪かったのか。<BR>
 いつしか、”誰”ということもなく、不特定のその辺にいる”誰か”の視線というだけで、震えるようになっていた。<BR>
 自然、部屋に閉じこもるようになった。<BR>
 父はそんな僕を諌めることはなかった。<BR>
 それをいいことに、ただ漫然と、僕は日々を過ごすようになったのだ。<BR>
 時々、部屋にあるピアノに触れて、左手が満足に動かないことを思い知らされた。けれど、生活するだけなら、なんら問題はない。右手で主旋律を弾くくらいならできるのだから。それに合わせて、あらかじめコードの幅と形とに左手を開いて軽く鍵盤に置いて上下させる。手をコードの幅に合わせて変えることには苦痛だが伴ったが、小さな音を奏でるくらいはできた。<BR>
 弱々しい音色に自嘲に口角が引きつったが、気を紛らわせるには充分だった。<BR>
 不意に、突然、胸に刺さったナイフの鋭さを、心臓には届くことなく済んだそれを幻のような痛みとして思い出して息が止まりそうになることがあったが。<BR>
 概ね平凡な日々だった。<BR>
<BR>
 グラスハウスの中は、冬とは思えないくらいの湿度と暖かさに満ちていた。<BR>
 弱い日差しが、グラス越しに緑に降り注ぐ。<BR>
 ひとのことばを真似ることができる鮮やかな鳥が止まり木でしきりに首を振り立てていた。<BR>
 それをスケッチしていた僕は、ふと背後から落ちてきた影に振り返った。<BR>
「先生………」<BR>
 家庭教師だった。<BR>
 かけたメガネを直しながら、僕を見下ろしてくる。<BR>
 その視線はなんということもないものだったのに、背筋が不快に震えた。<BR>
「アークレーヌさま。今日は調子が良さそうですね」<BR>
 空いた手に持っているのは数冊の教本のようだ。<BR>
 こうして行き合ったときに僕の調子が良さそうなら、授業が開始される。<BR>
 このところグラスハウスがお気に入りになっていた僕を見つけるのは容易かっただろう。<BR>
「こちらよろしいですか」<BR>
 尋ねてくるのにうなづいて返すと、備え付けられているソファに腰をおろす。<BR>
 テーブルの上に教本を広げるのを見て、僕は小さく肩をすくめた。<BR>
 集中できたのは三十分ほどだったろうか。<BR>
 教本に指を添えての家庭教師の声が、ふいに途切れた。<BR>
「先生?」<BR>
 眼鏡越しの視線が、教本から逸れて僕の背後に向けられていた。<BR>
 それの先に、<BR>
「父上?」<BR>
 グラスハウスと北の区画とを隔てる扉近くに、父が佇んでいた。<BR>
 僕の声に、促されたかのように歩き出す。<BR>
 家庭教師が、椅子から立ち上がる。<BR>
 僕は惚けたようになって父をただ見ていた。なぜなら、父の雰囲気が、いつもと違って見えたからだ。<BR>
 姦しい叫びをあげて、極彩色の鳥が止まり木から飛び立った。<BR>
「出て行け」<BR>
と。<BR>
 いつもの父の穏やかさが消えた口調で、家庭教師に命じる。<BR>
 その雰囲気に、ぎこちなく一礼して彼が足早に出て行く。<BR>
「父上?」<BR>
 不思議にかすれる声で、目の前で僕を見下ろす父に呼びかける。<BR>
 高く澄んだ音色が、父の手元から聞こえてきた。<BR>
 懐かしい。<BR>
 母のリボンの先にあった、ドルイドベルの音色だった。<BR>
 目の前に掲げられた赤いリボンの先にで、燻し銀の丸くささやかなベルがぶら下がり揺れている。僕の意識を奪うその高く澄んだ音色が、だんだん大きく膨らんでゆくような錯覚があった。大きく、まるで僕を包み込むかのように。<BR>
「手を出しなさい」<BR>
 父の声が、なんらかの膜を一枚隔てたような不明瞭なものになる。<BR>
 けれど、言葉の意味はわかった。<BR>
 まるで操られるかのように、僕は、手を差し出していた。<BR>
 かすかな衣擦れの音を立てて、赤いリボンが僕の両手首に絡まる。<BR>
 父の手が器用に動き、僕の手を縛める。<BR>
 しかし。<BR>
 その時の僕は、すでにおかしくなっていたのだろう。<BR>
 それを不思議と感じなかった。<BR>
 しゃらしゃらと鳴り続けるドルイドベルの音色が、まるで亡くなった母の声のように僕の耳の奥でささやきつづける。<BR>
<BR>
 アークレーヌ、可愛らしいわたくしたちの−−−と。<BR>
<BR>
「アークレーヌ。お前は私たちのものだ」<BR>
 直接に僕に囁いてくる父の言葉と重なり合って、ふたりぶんのことばが僕を呪縛してゆく。<BR>
<BR>
 この時、僕には何もまだ分かってはいなかった。<BR>
 ふたりによる呪縛の意味が。<BR>
 まだ十五に手の届いていなかった僕にとって、外の世界を学び取ることができなかった僕にとって、迫ってくる父の顔を、押し当てられるくちびるの生々しさを、それらの持つ意味は最初わからなかった。それを理解することができたのは、すべてのことが終わってからだった。<BR>
<BR>
「お前は、レイヌが私に残してくれた唯一だ」<BR>
と。<BR>
「私がレイヌ以外に抱いてもいいのは、レイヌの血を受け継ぐお前だけなのだ」<BR>
と。<BR>
 狂人のささやきを睦言に、僕の下肢が開かれる。<BR>
 父の充溢したものが、僕の下肢を押し開きあらぬ箇所へと分け入ってくる。<BR>
 灼熱をはらんだ凶悪なまでの質量に、その場が引き裂かれてゆく。<BR>
 からだの奥が割かれてゆく忌まわしい音が、脳までもを犯す。<BR>
 その頃になってようやく僕の手首を結びつけていたリボンは解け、同時に、痺れたように何も考えられなくなっていた脳が動きだす。<BR>
 そうして、理解する。<BR>
 これが、禁忌であるのだと。<BR>
 実の父親に、同性である父親に、こうして犯されている己の存在は、決して許されるものではないのだと。<BR>
 その事実が、僕に絶叫を上げさせる。<BR>
 心を捩らせるようにして振り絞りほとばしり出た叫びが、泣(・)き声が、どれほど大きなものだったか。<BR>
 救いを求める声が、どれほどまでに悲痛なものであったのか。<BR>
 そんな大声が誰にも聞かれずに済むはずはない。<BR>
 けれど、誰も、助けに来ることはなかった。<BR>
 やがて悲鳴も叫びも貪られる獲物の喘鳴へと変化を遂げて、父の律動に揺さぶられその刺激に声帯からまろび出るただの嬌声めいたものになりはてる。<BR>
 そうして。<BR>
 何度目になるのかわからない理性をなくした父の行為の果てに、僕の意識は焼ききれるようにして途切れたのだった。<BR>
<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 穏やかな父の声が、聞こえた。<BR>
 髪の毛を梳いてくる掌の感触が、心地よかった。<BR>
 しかし。<BR>
 頬に、額に、父のくちびるの熱が触れた瞬間、<BR>
「いやだっ!」<BR>
 掠れた声で拒絶を叫ぶ。<BR>
 思い出したのだ。<BR>
 何が起きたのか。<BR>
 涙でかすみ、泣き腫れた重い瞼の向こう、木々の隙間から見えるのはグラスハウスの天井以外のなにものでもなく。僕は父に抱き潰されたのと同じ場所で、抱きしめられているのだ。<BR>
 汗や精液にまみれたからだは重怠く、ひとの重さと熱量とが、嫌悪ばかりを訴えかけてくる。<BR>
 疼痛を覚えるその箇所が、禁忌を犯した証だった。<BR>
 男である僕が、血のつながる父に犯された、逃れようのない、罪の証だった。<BR>
 どうして−−−と。<BR>
 まともな声にならない声で、糾弾するも、<BR>
「お前はレイヌが私に遺した唯一のものだ」<BR>
と、獣のような色を宿した瞳が見下ろしてくる。<BR>
 おやこなのに−−−と。<BR>
「それがどうした」<BR>
と。<BR>
「お前はわたしたちのもの」<BR>
と。<BR>
 静かに狂ったまなざしが、僕を凝視する。<BR>
「私たちの愛の証に他ならない」<BR>
と。<BR>
 涙が、こみ上げる。
 鼻の奥がきな臭くなり、目頭が絶望の熱を孕んだ。<BR>
 溢れ流れ落ちた涙にくちびるを寄せてくる狂った男を、押しのけようとして、叶うことはなかった。<BR>
<BR>
<BR>
 その時から、僕の髪は色を失い、老人のような白へと変わってしまったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
 こんな感じですかね。
 びみょうにウィロウの行動が唐突な気がしてならないんですが。あまりおとーさまには触れないようにしようと思ってるんですよね。おとーさまおかーさまははっきりいって、鬼門、もしくは、地雷です。
 あ、レィヌって、フランス語で女王なんですが、偶然です。偶然。
<BR>
<BR>
<BR>
 その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。<BR>
 そんな鋭い音を聞いたような気がした。<BR>
 とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。外からではいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕からは、彼女のようすをつぶさに観察することができた。<BR>
 そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。<BR>
 こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。<BR>
 そんな自分が嫌でしかたなかったが。<BR>
 重厚な内装のせいもあり照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。<BR>
 ずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、女性が”彼”にエスコートされて入ってくる。<BR>
 それを、主階段の踊り場の手すりにもたれて見下ろしていた。<BR>
 やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、<BR>
「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」<BR>
 満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。<BR>
 嫌悪からではない。<BR>
 恐怖からだった。<BR>
 彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。<BR>
「アークレーヌ、挨拶を」<BR>
 ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、<BR>
「はじめまして、義母上」<BR>
 口を開いた。<BR>
 差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。<BR>
 そうして、僕は自分の領域に戻った。<BR>
 いいや。<BR>
 逃げ込んだのだ。<BR>
 古い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるもの達に印象付けるものだった。<BR>
 僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。<BR>
 たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下や階段は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。<BR>
 五階の奥が、僕が唯一力を抜くことができる部屋だった。<BR>
 荒い息をこらえることもせず扉を開け、勢いを殺すことなくベッドにそのまま突っ伏す。<BR>
 丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。<BR>
「悪い」<BR>
 顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めてゴロゴロと喉鳴りをこぼす。<BR>
 他の部屋と比していささか手狭な八角形の部屋は、いくつもある尖塔の中でも小さな尖塔のすぐ下の階にあたるためである。<BR>
 高い位置にある鋭角的なドーム状にくりぬかれた窓に嵌められたステンドグラス越しの青や赤の光が、ベッド以外なにもないこの部屋を彩る。<BR>
 建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見える。<BR>
 態勢を変え、胎児のように丸くなる。<BR>
 壁に付けて据えてあるベッドは、幼い頃から僕の唯一の逃げ場所だった。<BR>
 ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、その頃からここにいた。<BR>
 何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。<BR>
 ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。<BR>
 大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。<BR>
 来年が来れば十七になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。<BR>
「頭が痛い………」<BR>
 脈動と同じリズムを刻む痛みが、次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。<BR>
 吐き気がする。<BR>
 ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。<BR>
 僕よりも幾つか年上だろうか。<BR>
 頬を染めた、初々しい花嫁。<BR>
 新大陸から来た富豪の令嬢だったと記憶している。<BR>
 ”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。<BR>
 名は………。<BR>
「何といったか」<BR>
 つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。<BR>
 ありふれた名前だったような気がする。<BR>
 まぁいい。<BR>
 義理の母を名前で呼ぶこともない。<BR>
 僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、中央の塔の領域に僕はいた。<BR>
 長いテーブルの一角についていた。<BR>
 カトラリーがかすかな音を立てる。<BR>
 いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。<BR>
 牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。<BR>
 原因は、義理の母となる女性の軽やかなさえずりだった。<BR>
 彼女のことばに、父が短く答える。その繰り返しが、空虚さを際立たせているかのように感じた。<BR>
 頭痛は治まっていた。<BR>
 軽い吐き気はあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。<BR>
 このせいではないが、僕はまともに学校生活を送ることができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。<BR>
 情けない。<BR>
「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」<BR>
 女性の愛らしい声。<BR>
 気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。<BR>
 かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。<BR>
「だいじょうぶです」<BR>
 応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。<BR>
 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、メインディッシュを切り分ける途中だったカトラリーを動かす。<BR>
 湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間ぼんやりとしていたことを思い知る。<BR>
 小さく切ったそれを一口。<BR>
 散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。<BR>
 ともあれ、これでサリチル酸(柳から分離。アスピリンの前身。胃腸障害が出やすいらしい)を飲むことができる。<BR>
<BR>
 晩餐をどうにかやり過ごし、自分の領分に戻ろうと席を立とうとした耳に、<BR>
「後で話がある」<BR>
 父の声が聞こえてきた。<BR>
 全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。<BR>
 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、<BR>
「わかりました」<BR>
 答えるのが精一杯だった。<BR>
<BR>
「ご入浴の準備は整えてございます」<BR>
 家令が僕の部屋で待ち構えていた。<BR>
 三階にある僕の部屋だった。<BR>
 そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。<BR>
「そんなこと、僕の執事か近侍(ヴァレット)の誰かに任せておけばいいだろう」<BR>
 家令(ハウス・スチュワード)の仕事ではない。<BR>
「ご主人様のご命令です」<BR>
「そうか」<BR>
 ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。<BR>
 身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。<BR>
 溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。<BR>
<BR>
 なぜ。<BR>
<BR>
 入浴後にバスローブをまとっただけで暖炉の前のソファに座った僕の背後に立つ家令が髪を拭ってくる。<BR>
 青ざめた自分の顔が暖炉の上の鏡の奥から見返してくる。<BR>
 血の気のない紙のような顔。それを彩るのは老人めいて艶のない白糸のような色のリボンを解かれて流れ落ちる長い髪。<BR>
 切りたくないと伸ばしっぱなしの長い前髪の奥に隠れた覇気のない虚ろな目はアルカーディ一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。<BR>
 高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。<BR>
 その実、少しも意志が強くはないというのに。<BR>
 ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。<BR>
 叫び出したい。<BR>
 泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。<BR>
 できもしないくせに。<BR>
 それなのに。<BR>
「ご主人様からはこちらをと」<BR>
 梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された深紅のリボンを見た途端、心臓が痛いくらいに縮んだような錯覚に襲われる。<BR>
「御曹司?」<BR>
 少しばかりうろたえたような家令の語調に、口角が皮肉に持ち上がった気がした。<BR>
 僕の意識は朦朧となってゆく。<BR>
 くらりと目まいがする。<BR>
 いつものとは違う深紅のリボンは、僕の心を縛る。<BR>
 それは呪いだった。<BR>
 亡き母が望み、父が実行する、呪いだった。<BR>
 両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 アルカーデン公爵家のマナハウスに着いたのは、植民地を発って二月が過ぎようとするまだ寒さの残る春先のことだった。<BR>
 わたし、ケイティ・マクブライトがウィロウ・アルカーディさまの後妻になることが決まって半年になろうとしていた。<BR>
 宝石の鉱山を多数持つ大富豪マクブライト家の娘とはいえ末子であるわたしが、まさか旧大陸の公爵、金銭的に困窮しているわけでもない、そんな相手の妻になることができるなどと、考えたことはなかった。<BR>
 十九になろうという私が後妻とはいえ、正妻なのだ。<BR>
 マクブライトの娘ではあれ父親と血の繋がってはいない後妻の連れ子であるわたしには、信じられないほどの幸運だった。<BR>
 実際、年の近い姉にはかなり妬まれた。<BR>
 去年、本場の社交界を経験しておくようにと云われ旧大陸に旅行に出かけた際、招待された夜会で偶然出会った魅力的な男性。それが、アルカーデン公爵ウィロウ・アルカーディさまだった。<BR>
 古くは王家の血を引く、まぎれもない青い血を連綿と今に伝える公爵。<BR>
 お歳はわたしよりも二十近くも上だけれど、どこか物憂げな雰囲気をたたえた青白く高貴なお顔に、はしたないけれど一目で憧れた。<BR>
 綺麗に整えられた艶めく黒髪が一筋その秀麗な額に落ちかかる。そのさまさえもが匂い立つようで、親しくなった令嬢たちと同じくわたしの視線も、彼から離れることはなかった。その物思わしげな夜の空のような濃紺の眼差しに映されてみたいなどと、夢物語を思い描かずにはいられなかった。<BR>
 物知りな令嬢が、あれがアルカーデン公爵であると得意げに説明してくれるまで、夢物語は続いた。<BR>
 公爵さまと聞いて、砕け散ったけれど。<BR>
 ただの富裕層の娘と、高貴な血を受け継ぐ公爵さまとでは、逆立ちしても、ロマンスなど生まれるはずがない。<BR>
 夢物語は夢物語なのだ。<BR>
<BR>
 それが婚約などとなったのは、何度かの偶然の巡り合わせのおかげだった。<BR>
<BR>
 植民地に戻った後に、なんと、公爵さまから突然の打診が父のもとに届けられたのだそうで、聞かされたわたしはあまりのことに気を失ってしまったほどだった。<BR>
 思慮深げで穏やかそうな、そんなウィロウさまの元に嫁ぐ日を、わたしはゆびおり数えて待ちわびる日々を楽しんだ。<BR>
<BR>
 そうして、もうじき、それが現実となるのだ。<BR>
 一月半にもわたる船旅を無事に終え、港に迎えに来ていた馬車に乗り半月。<BR>
 屋敷に着いた時点で、わたしはウィロウさまの妻となる。<BR>
 披露宴も式もないことが残念で仕方なかったけれど、後妻なのだから仕方ないのかもしれない。シーズンと呼ばれる社交期がくれば王都の夜会で紹介されることになるだろう。<BR>
 馬車が荘園館(マナハウス)の門扉をくぐると、そこに広がるのは鬱蒼として薄暗い森だった。<BR>
 どこまでも続くと思えた馬車道の果てに、アルカーディ家のマナハウスが現れたのを見た瞬間、わたしは冷水を浴びせかけられたような心地を味わった。<BR>
「ミスルトゥ館と申しますよ」<BR>
 話し相手として共に旅をしてきたコンパニオンがそっと教えてくれた。<BR>
 けれど、その威容は、決して館などではない。<BR>
 それは、城だった。<BR>
 それも、異形の。<BR>
 空にそびえる灰色の城には、壁一面に口を大きく開いて天を呪うかのようなガーゴイルの群れが取り付いていたのだ。<BR>
 古めかしい飴色に黒い錬鉄の鋲や横木の渡った両開きの木の扉が内側から開かれる。軋む音がしないのが不思議だった。扉の奥に現れた闇を見て、わたしは帰りたいととっさに思った。<BR>
 あれほど嫁ぐ日を心待ちにしていたというのに。<BR>
 お会いできる日を指折り数えていたというのに。<BR>
 ウィロウさまは迎えに出てきてくださらない。<BR>
 公爵家の遠い血筋に当たるという港からここまでの旅程に付き添ってくれたシャペロンにどうぞと手で促されて、馬車を降りたわたしはひとりでマナハウスの扉に向かわなければならなかった。<BR>
 開かれた扉をくぐると、ずらりと並ぶお仕着せの使用人たち。百人以上いるのではないだろうか。<BR>
「おかえりなさいませ、奥様」<BR>
 思いもよらないことばで声さえも揃えて歓迎され、奥から現れたウィロウさまに、ようやくわたしの心細さは押しやられた。<BR>
「レディ・アルカーディ」<BR>
 穏やかな声で、いささか他人行儀に呼ばれて、少しがっかりしたけれど。<BR>
 けれど、ここはわたしがこれまで暮らしてきた植民地ではないのだと、気を取り直す。<BR> 
 ここは因習深い、旧大陸なのだから。<BR>
 手を取られて、甲にくちづけられる。<BR>
 それだけで、陶然となった。<BR>
「今日からここがあなたの家になる。ゆっくりとでいいので馴染んでいってほしい」<BR>
 そう言いながら、わたしの肩に手を回した。その瞬間にほのかに立ちのぼったウッディな香水の匂いに、ああ、ウィロウさまのところに嫁いだのだわと、感動に心臓が震えた。<BR>
「こちらへ」<BR>
 照明を灯してなおも薄暗いホールを主階段へと促された。<BR>
 そうして、わたしは、その少年に気づいたのだ。<BR>
 少年というには少し大人びて見えたが、今年二十歳になるわたしよりは、年下に見受けられた。<BR>
 階段の踊り場に立つそのひとの印象は、白だった。<BR>
 引き結ばれたくちびるの朱はけざやかに目を惹いたけれど、それでも、白だった。<BR>
 立ち止まったわたしの視線の先を確認したウィロウさまが、<BR>
「………アークレーヌ。息子だ」<BR>
と、教えてくださった。<BR>
 息子がいるということは知っていた。<BR>
 けれど、その相手がわたしと幾ばくも歳が変わらないということを、わたしは愚かにも深く考えてはいなかった。<BR>
 それでも。<BR>
 彼は、わたしの義理とはいえ息子になるのだ。<BR>
「ああ。あなたが」<BR>
「アークレーヌ。挨拶を」<BR>
 階段を降りてきた少年、アークレーヌに手を差し出す。<BR>
 しかし彼は、<BR>
「はじめまして。義母上」<BR>
 わたしの手をとることもなく、そういうと頭を下げて、引き返していったのだ。<BR>
 あまりといえば、あまりの態度に、わたしはあっけにとられていたのだろう。<BR>
「しかたのない。照れているのだろう」<BR>
 ウィロウさまの言葉に我に返ったわたしは、<BR>
「これからあなたが生活をする領域に案内しよう。あなたは南の塔のある区域で暮らすことになる。ハロルド」<BR>
「はい。ご主人様」<BR>
「彼はこの館の家令だ。名をハロルド。ハロルド、レディを部屋へ案内してくれ」<BR>
「では、晩餐までからだをやすめてくれ」<BR>
 わたしは物足りなさを感じながらも、ウィロウさまの指示に従った。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「レィヌ」<BR>
 熱をはらんだ声が、耳を犯してくる。<BR>
 レィヌと呼ばれることで、己が誰の代わりを果たしているのかを自覚させられた。<BR>
 耳腔をなぶられ、耳朶を食まれ、背筋に戦慄が走る。<BR>
 刹那冷えた汗に寒いと思った。しかし、すぐさま消え去る。<BR>
 目の端に深紅のリボンが見えた。<BR>
 解けたそれが呪縛は解けたと、問わず語りに伝えてくる。<BR>
 しかし、それがどうだというのだろう。<BR>
 この身はすでに相手の腕の中なのだ。<BR>
 この身はすでに熱に侵されている。<BR>
 深く密着したからだが、己の欲が目覚めていることを相手に伝える。<BR>
 喉の奥で小さく笑われて、全身が羞恥で焼けつくような熱を感じた。<BR>
 それだけで。<BR>
 たったそれだけのことで、疾うに慣らされきっているからだは容易いほどに。<BR>
 からだはこれから起きるだろうことに期待を隠さない。<BR>
 隠すことができない。<BR>
 その羞恥。<BR>
 その屈辱。<BR>
 その背徳感。<BR>
 ふるふると小刻みに震える全身に、嫌悪が湧き上がる。<BR>
 呪いの小道具が解けた今、全ては唾棄したいものでしかなかったからだ。<BR>
 目をきつくつむり、眉根を寄せる。<BR>
 くちびるをかみしめた途端、<BR>
「傷がつく」<BR>
 軽く、戒めるかのように頬を張られた。<BR>
 痛くはないが、衝撃に我に返った。<BR>
 そのせいで、己の有様をより生々しく思い知らされる。<BR>
 何をしているのだと。<BR>
 まざまざと、理解してしまう。<BR>
 己を見下ろしてくる端正な顔が、恐ろしくてならなかった。<BR>
「レィヌ」<BR>
 甘くとろけるような囁きに、その深い色のまなざしに、狂気を感じて、絶望を覚える。<BR>
「どうしてっ」<BR>
 熱を煽ろうと弱い箇所をまさぐってくる手に、悲鳴のような声が出た。<BR>
「なにがだ」<BR>
「………………………義母上がっ」<BR>
 そんなことを問いたいのではなかったが、己の真に問い詰めたい疑問に対する答えはわかりきっていた。返されてくる答えは、いつも決まっているのだから。<BR>
 追い詰められた脳が、問いをどうにか形にするのに、少し、かなり、時間が必要だったけれど。<BR>
「ああ。あれは、うるさいものどもを黙らせるために必要だったのだ」<BR>
 面倒臭い。<BR>
 呟く声に苛立ちが潜み、手の動きがやわらかなものから激しいものへと変わる。<BR>
「柵(しがらみ)は少なければ少ないほうがいい。だからこその選択だ」<BR>
 後添いをとうるさい声を黙らせるには、新たな妻を迎える必要があったのだろう。しかし、新たな妻には新たな親族がついてくる。貴族の出であれば旧弊な諸々が”彼”を煩わせるだけでしかなく。ならばと遠隔の植民地の富豪の娘、しかも、血の繋がらない後妻の連れ子を選んだのだと、淡々と告げてくる。<BR>
 しかし、その内心は苛立ちが募っているのだろう。<BR>
「お前以外を抱く気はないというのに。アークレーヌ」<BR>
 獰猛なうなり声のような言葉に、前身が恐怖にすくみあがった。<BR>
 まさぐってくる手は、激しさを増すいっぽうだった。<BR>
 自由になっていた両手に気づいて、怠いそれでできるだけ声を潜めるべく口を覆う。<BR>
 くちびるを噛んでしまえばまた頬を張られるだろう。痛みはなくても、性感を昂められた今そんなことをされては、たまらない。<BR>
 なのに。<BR>
「声を抑えるな」<BR>
 無情な声に、首を左右に振った。<BR>
 髪がシーツにあたり、いつの間にかながれていた涙が、シーツを濡らす。<BR>
 嫌だというのに。<BR>
 嬌声よりも拒絶の声をこそ噛んでいる事実を、おそらく”彼”は知っている。<BR>
 ほどけたリボンが、この夜にかけられた呪いが解けたことを現しているのだから。<BR>
「おまえの、真の声を聞きたい」<BR>
 無理やり外された手がシーツに縫いとめられる。<BR>
 おそらくは執拗な蹂躙を受けただろうそこは”彼”を拒絶することはできず、当てられた切っ先に僕の意思を無視した喜びをあらわにする。<BR>
 そうなると、出るのは、ただ、<BR>
「いやだっ」<BR>
 堪えきることができない拒絶だけだった。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 目を細めた”彼”、父の表情が、遠い東洋の不気味な面めいて僕を見下ろしていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「ウィロウさま」<BR>
 椅子から立ち上がる。<BR>
「おはようケイティ」<BR>
 物憂げな表情はそのままに、わたしの手をとり、くちづけてくる。<BR>
 声を弾ませてしまって、少し、はしたなかったかしらと反省する。<BR>
「おはようございます」<BR>
「よく眠れたかな」<BR>
 椅子に座り直し、くちをつけていた果実水の入ったグラスを手に取った。<BR>
「はい。とても」<BR>
 マナハウス内にあるグラスハウスで採れるという南国の果実の果汁はとても甘酸っぱくて美味しかった。<BR>
 朝専用のダイニングの昨夜のとは違う小ぶりのテーブルの対面に座ったウィロウさまの前に、朝食が運ばれてくる。<BR>
 メニューは黄色の鮮やかなオムレツとマッシュルームとベーコン、サラダ。あとはよく焼かれた薄切りトーストが数枚。ミルクと果実水というたっぷりとしたものだ。<BR>
 コーヒーか紅茶を嗜むのは食後らしい。<BR>
 朝は慌ただしくコーヒーしか口にしなかった義父や義兄しか知らなかったわたしには、朝食をゆっくりと召し上がられるウィロウさまの姿はとても新鮮なものと映った。<BR>
「今日は、この館を案内しよう」<BR>
 目が合ったと思えば、しばらく何か考えたあと、ウィロウさまが仰ってくださった。<BR>
「嬉しいです」<BR>
 ゆっくりと、ウィロウさまは歩いてくださる。<BR>
 そんなウィロウさまにわたしは遅れないようについて行く。<BR>
 どうして手をつないでくださらないのだろうと疑問に思いはしたものの、家の中だからかもしれない。<BR>
 昨日は何かと慌ただしくて、南の塔の領域と呼ばれているらしい公爵夫人のエリアも自室以外は見ることはなかったのだ。なんとはなく夫婦の寝室は隣り合ってるというイメージがあったので、館ひとつぶんはゆうにありそうな部分が全部自分だけのものだという説明に、びっくりせざるを得なかった。上から下まで、南の部分の端から端まで、全部自分の好きに使っていいというのだから。ちなみに、受けた説明では、ウィロウさまのプライベートは東側の領域全て。アークレーヌさまの領域は北側全てなのだそうだ。中央から西側は、パブリックスペースになるらしい。<BR>
「じゃ、では、もし子どもが生まれたりしたら、どこになるのでしょう」<BR>
 何気ない疑問だった。<BR>
 少し恥ずかしかったけれど、結婚したのだから、いずれ子どもができることもあるだろうと。<BR>
 そんなわたしの言葉に、ウィロウさまの足がぴたりと止まった。<BR>
 見下ろしてくる濃紺の瞳に、背筋が粟立つような心地を覚えた。<BR>
 すぐさまに消えた、恐怖にも似た何かを、わたしは錯覚だと打ち消す。<BR>
 クスリと、口角に笑いをたたえ、<BR>
「もし、あなたに子ができたなら、あなたの領域で育てましょう」<BR>
 あなたにとってはその方が望ましいでしょう?<BR>
 そうおっしゃってくださった。<BR>
「ええ! はい。もちろんです」<BR>
 その優しいトーンの声に、わたしは先ほどの恐ろしさを忘れてしまったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
 そうして、その日一日は、わたしにとってとても幸せな一日になった。<BR>
 そう。<BR>
 夜もウィロウさまと共に過ごすことができて、わたしは天にも昇る心地だったのだ。<BR>


***** 本文が長いと注意が出たので、一旦切り。
陽くんが書けと自己主張しまくるので、工藤が負けた感じでアップです。
 長くなりそうで不安だったのですが、どうにか短編の範囲内に収まってほっと一息。
 ただヘイセルとの絡みが少しも思う通りにならなかったxx 色っぽさがない。まぁ、これまるっきり陽くん視点なので、他の人の視点とかは出ないので仕方ないんですけどね。それでもヘイセルは光一筋なので、陽くんを一顧だにしませんが。陽くん自身、ヘイセルにはああありたかったという憧れをスライドさせて恋心に見立ててただけなので色恋に発展は無理があった感が強いですかね。
 相手役、男としか出てこないvv 名前忘れてます。正直。まぁ、最後の最後まで名前を知らないままというのも一興だろうなというのもありまして、そのまま行ってみました。

 相手役は陽の名前を獄中くらいで知ったらしいですね〜。最初から知ってたかもしれませんが。彼視点は難しすぎるので書かない気が大ですけどね。

 少しでも楽しんでいただけたのなら嬉しいです。
 とある拙作を換骨奪胎しようとぐるぐるしてましたら、くるくると三つくらい新しい話が湧き出ました。
 いや、今新作を増やしてる場合じゃないんだよ〜。いえ、換骨奪胎〜とか思ってる段階で怪しいんですが。短編が一本ほしかっただけなんよ。どれも短編になりそうにない。
 ぐるぐるしてたのは、時代劇を書こう! と一頃萌えてた頃に書いてた短編。「花菖蒲」とは別のやつですが。あれを洋風異世界バージョンに焼き直ししたらどうなるかなぁと。短編にできないか? とぐるぐる回してたんですね。前々からいじっては挫折してたんですが、懲りもせず。
 で、「転生」の換骨奪胎まで湧いてしまった。
 なんというか、このみっつに共通するのは”魔王”が登場すること。
 お題が「魔王」でも良さげだよ。
 魔王三部作って、連作にもならないですが。
 一個は、復讐譚。
 あと一個は、「転生」のノーマルバージョン。これ書くとしたら絡みがヘビーすぎて絶対書けない。書けない自信はあるな。
 そんな感じ。

 ともあれ、一頃スランプで、二進も三進もいかなくて別サイトを立ち上げてみたりしてあがいてたんですが、ようやく脱出かなぁ? まぁラストまでかけないと意味ないんですけどね。

 お話し書けない自分ってどうにも無意味としか思えなくって、あがいたあがいた。
 書いたからってどうということないんだけどね〜。でも、これないと私じゃないxx なんかなぁ。しがみついてるな。
 
短編を書きたいんだけど、最近長いのばかり書いてるので、コツを忘れてる気がしてならない。
 長いの沢山抱えてるせいで、ローテーションを組むようにしてて、そのせいで余裕がないxx まぁ、本気で書きたいとなると長いのそっちのけになるんだけど、最近それで描き始めるんだけど長くなるというのがお約束になっている。
 これは、やばい気がするんですよね。
 長いのばかりになるからxx
 如何ともしがたい今日この頃。というかここ数年orz
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