忍者ブログ
小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
[1]  [2
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 見てしまった。<BR>
 そう。<BR>
 遂に。<BR>
「汚らわしいっ!」<BR>
 吐き捨てるエドナの声が遠く聞こえる。<BR>
 わざわざ見る必要などありはしなかったのに。<BR>
 知りたくなかった。<BR>
 疑惑は疑惑のままで、そっとしておきたかった。<BR>
 そう。<BR>
 なのに。<BR>
 なのに、エドナは目の前に突きつけたのだ。<BR>
 ウィロウさまとアークレーヌさまの情事を。<BR>
 領主館にはさまざまな仕掛けがあるとは聞いたことがあった。<BR>
 ロマンス小説やゴシック小説などに出てくる古めかしくもおどろおどろしい館には、隠し部屋や拷問部屋、地下牢、脱出路などさまざまなものが存在した。けれど、まさか現にこうして自分がそんな場所に立つことがあるなど、考えたことはなかった。<BR>
 確かに、この館もまた、小説に登場するかのような古めかしい古城ではあるけれど。<BR>
 アークレーヌさまの寝室を覗き見する仕掛けがあるなど、そうして自分が今まさにはしたない覗きをしているなど、信じることができなかった。<BR>
 信じたくなかった。<BR>
 目の前で繰り広げられている忌々しくも隠微な光景を。<BR>
<BR>
<BR>
 ハロルドさんさえもが自室に引き取り寝入っただろう深夜、エドナと一つ寝台に入ったものの眠れずにいたわたしに、彼女がそっと囁きかけてきたのだ。<BR>
 これこそが、彼女の本当の目的だと言わんばかに。<BR>
「ケイティさまが抱えていらっしゃる疑惑を確かめませんか」<BR>
 まるで堕落を促す悪魔の誘惑のようなことばに抗うことさえしなかったのは、彼女がわたしの抱くその疑いを知っていたという驚きの為だったろうか。<BR>
 その真偽を確かめることができるのならと、彼女の誘いに乗ったのは、そう答えなければ彼女が部屋を出そうなそぶりを見せたからかもしれない。<BR>
 そうして、わたしはエドナに導かれるままに進んだのだ。<BR>
<BR>
 夜のしじまに私たちの足音が響く。極力忍ばせたそれは、カーペットの上ということもありまるで花びらを一枚ずつちぎっているようなささやかなものだったろうが、わたしには心臓に悪いほど大きく聞こえてならなかった。<BR>
 中央の大階段を過ぎて、北の領域に足を踏み入れたのは初めてだった。<BR>
 カーペットの色、家具のひとつとってしても、雰囲気がガラリと変わっていた。<BR>
 ああ、ここは、わたしの領域ではないのだと。<BR>
 黒地に異国風の模様が織り出されたカーペットの上を歩きながらそう思った。<BR>
 部屋の区切りごと、廊下の曲がり角ごとにガス灯がオレンジ色の光を丸く灯している。そのずっと奥に、アークレーヌさまのお部屋はあるのだとエドナは云う。<BR>
 左右に広がる廊下の上部に吊るされた古めかしい緞子がカーテン状に左右に纏められたその向こうに、廊下を横切った正面に、両開きの黒檀の扉があった。<BR>
 その前まで来て心臓がいっそうのこと小刻みな鼓動を刻む。<BR>
 苦しい。<BR>
「こちらです」<BR>
 ランプの灯さえ届かない闇からわたしを招く白い手や首につながる小さな顔が、まるで幽鬼じみて見える。<BR>
 いけない。<BR>
 こんなことしてはいけない。<BR>
 疑惑は疑惑のままにしておかなければ。<BR>
 わたしの疑惑はただでさえ、世をはばかるものなのだ。<BR>
 白日の下に晒されてしまっては、今まで通りの毎日を過ごすことはできないに違いない。<BR>
 警鐘が頭の中に響き、視界が揺らぐ。<BR>
 ぐらぐらと揺れる視界いっぱいに、エドナの手がわたしを招く。<BR>
 喉の奥に何かがこみあげてくる。<BR>
「こちらです」<BR>
と、しびれを切らしたらしエドナがわたしの手首をつ噛んで引っ張る。<BR>
 乱暴なと思う余裕さえなかった。<BR>
 そのままどうやったのか、ぽっかりと開いた小さな空間に引き込まれた。引きずられるようにして闇の中を進む。<BR>
 そうして進めばやがて行き止まりにたどり着く。<BR>
「この壁です」<BR>
 言いながらエドナが先に覗き、しばらくの沈黙の後示した場所を覗き込むようにと位置を変えられた。<BR>
 さぁ−−−と、声を出さずに促すエドナに、いくばくかの躊躇も伺えなかった。だから、ためらうことなく覗いたのだ。<BR>
<BR>
 見えたものを脳が理解しても、心が拒否した。そんな経験をしたのは初めてで、わたしは自分の足場が硬い床でないような不安に襲われていた。<BR>
 不安?<BR>
 そんな生易しいものではなかった。<BR>
 不安を越えて、その先にある何か。<BR>
 絶望? などというものでさえないような気がした。<BR>
 少しずつそれが何なのかを心が受け入れた後、強かなまでの痛みが襲いかかってきた。<BR>
 その痛みが錯覚だとわかっていたけれど、それでも、痛みはやはり痛みのままだった。<BR>
 閨ごとの最中に灯がついていることが信じられなかったけれど、ベッドサイドの灯だけで見ることができるものには限界があるのだと、わたしは知った。<BR>
 オレンジ色の淡い光の中繰り広げられているのは、あまりにもあられもない様相だったのだ。<BR>
 音が聞こえないことが幸いだったのかもしれない。<BR>
 燭台の灯に映し出されたのが上半身だけだったことがまだしもだったろう。<BR>
 全身が見えていたなら、わたしはこの場で泣き叫んでいたに違いないのだから。<BR>
 そう。<BR>
 そこには見たことがないほどに艶やかに乱れたさまのアークレーヌさまと、ウィロウさまの姿があったのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 口を両手で隠した。<BR>
 凝りついたようになっていた声帯に、それはなんの意味もなかったけれど。<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまを抱き起こす。<BR>
 婉然と微笑むアークレーヌさまが両手をウィロウさまの首にかけた。そんなアークレーヌさまの片手には何かの紐のようなものが見えた気がした。<BR>
 それ以上見ていることはできなかった。<BR>
 父と子の間で繰り広げられるおぞましい行為なのに、そのはずなのに、わたしは、唾棄したい思いと相半ばする思いに襲われていたのだから。<BR>
「ケイティさま」<BR>
 そっと耳元で呼びかけられて、震えた。<BR>
 我に返ったわたしを、ぐいぐいと引っ張ってエドナが隠し部屋を出て行く。<BR>
 引っ張られるままに、気がつけば自分の部屋に戻っていた。<BR>
<BR>
<BR>
 
PR
13
<BR>
<BR>
 狂人を見るような視線だと思った。<BR>
 それはすぐに消えたけれど。<BR>
 ああ。<BR>
 やっぱり。<BR>
 失望だろうか、諦念だろうか。<BR>
 エドナの目は、いつも通りの色を宿していたけれど、瞬間的な感情の発露を見逃すことはなかった。<BR>
 それでも。<BR>
 胸の内に溜まっていた恐怖を口にしたことで、わたしの心は少しだけ晴れた。<BR>
 くすぶることは他にもるけれど、今一番の恐怖は、”あれ”のことだったから。<BR>
「誰かが一緒にいれば、現れないのですよね」<BR>
 ゆっくりとエドナが口を開いた。<BR>
「そうよ」<BR>
「夜も、出てくるのですか?」<BR>
 一番恐ろしいのは、夜だ。<BR>
「そう」<BR>
 だから本当は………。<BR>
「公爵さまはご一緒では」<BR>
 言いかけて、はしたないことと口に手を当てるエドナに、<BR>
「お忙しい方ですから」<BR>
 そうとだけ、告げた。<BR>
 それだけで、腑に落ちることがあったのか。ひとりうなづくエドナに、顔が熱くなるような心地を覚えた。<BR>
 閨事情の一端を自ら漏らしてしまったことに、遅ればせながら気付いたのだ。<BR>
 しばらくの居心地の悪い空気に、鍵盤を見つめた。<BR>
「でしたら、わたしがケイティさまとご一緒すればいいのでは?」<BR>
 思わぬ提案に、エドナを見上げた。<BR>
「そうですわ。わたしがケイティさまと一緒のベッドで眠れば問題ありません」<BR>
 そうすれば、ケイティさまは安眠できましてよ!<BR>
 名案だと手を打ち合わせるエドナに、<BR>
「同じベッドで眠るの?」<BR>
 微妙な表情になった自覚があった。<BR>
「女同士ですもの。おかしなことではありませんでしょう?」<BR>
 それは、わたしのベッドは広いから、エドナの三人くらいなら余裕で一緒に眠ることができるだろうけれど。<BR>
 故郷にいたころには、仲の良かったお友達と同じベッドで眠ったことくらい何度もあるけれど。あれは、気心の知れたお友達だったから、できたことなのだ。と、そこまで考えて、自分がエドナをそこまで親しい存在だと思っていないことに気づいた。<BR>
 それに。<BR>
 それでは根本的な解決にはならないだろう。<BR>
 わたしの望みは、”あれ”が現れなくなることなのだから。<BR>
 ”あれ”が超自然的な存在だとわかっていたから、本当であれば牧師さまにでも相談すればよかったのだろう。考えなかったと言えば嘘になるけれど、どうしても踏ん切りをつけることができなかったのだ。それには、この教区の牧師さまがご高齢であるということが原因だったけれど。<BR>
 穏やかでお優しそうな牧師さまに、あの恐ろしいものと対峙していただくなど、考えられなかった。<BR>
 だから、<BR>
「そうね」<BR>
と、了承したのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「母上どこに行くのです」<BR>
 手を引かれて歩く。<BR>
 足取りも軽く、踊るように歩く母の歩調に合わせるのは、僕には難しかった。<BR>
 遅れそうになるたびに駆け足になる。<BR>
 今がいつなのか、わからなかった。<BR>
 ここがどこなのか、どの領域なのか、階なのかさえもわからないままに。<BR>
 左右ずらりと並んだドアの間、壁のロウソクが灯っていてさえも薄暗い廊下を、ただ幼子のように母に手を引かれて。<BR>
 夢だと思った。<BR>
 いつもの、縊れ死にした刹那の恐ろしい表情をした母ではなく、楽しそうな微笑みをたたえた母。<BR>
 そんな表情が僕に向けられた記憶など、ないけれど。<BR>
 しゃらりしゃりりと、どこかでドルイドベルが独特の音色を奏でている。<BR>
 手首に巻かれた赤いレースが、恐怖を与えてくる。<BR>
 どこに行くのかわからないというのに、これがあるということは彼女は自分に憑依するつもりなのだ。<BR>
 恐怖と、それを受け入れる己に対する諦観と。<BR>
 不意に投げ出されるように、手を離された。<BR>
 まろび、膝を打ち付ける。<BR>
 カーペット越しの廊下の感触にしたたかな硬さを感じて、生理的な涙がにじむ。<BR>
 霞む視界に、何かを指し示す母の姿が見えた。<BR>
 琥珀色の光が降り注ぐそこ。<BR>
 暖かな光の海の中に、母以外の誰かが立っていた。<BR>
 ガウン姿の女性は<BR>
 あの栗色の髪は。<BR>
 ドクリ。<BR>
 嫌な鼓動だった。<BR>
 いつの間にか母がすぐそばで僕に囁きかけてくる。<BR>
 死ねばいい−−−。<BR>
 ウィロウさまの子供を産む女なぞ、死ねばいい−−−と。<BR>
 わたくし以外がウィロウさまに抱かれるなど、許さない−−−と。<BR>
 巻きつくリボンが、手首に食い込んでくる。<BR>
 たとえ、おまえでも、許さない−−−と。<BR>
 きつく。<BR>
 きつく。<BR>
 憎い。<BR>
 憎い。<BR>
 憎くてたまらない。<BR>
 死んでしまえ−−−と。<BR>
 頭の中にこだましつづける。<BR>
 笑いすら孕んだその声が、いつしか僕自身のものへと変貌を遂げて−−−。<BR>
 そうして。<BR>
<BR>
<BR>
 僕の手が、僕の意思に反して、伸ばされてゆく。<BR>
 手にするのは、赤。<BR>
 僕の視界には、白く細い喉頸。<BR>
 鮮やかに禍々しく色を見せるのは、一本の赤。背徳的な戯曲の悲劇のヒロインに与えられた刑罰への示唆のような赤。<BR>
 そこまで認めて、ようやく僕は己の行動の意味を知る。<BR>
 手から力が抜けて行く。<BR>
 力をなくした手から逃げる蛇のようにするりと落ちた赤いリボンが、床の上で赤黒い溜まりを形作る。<BR>
 振り返りざま僕を見たのは、驚愕に見開かれた双眼。前髪に隠れて、まるで曇天の空のよう。<BR>
 ゆっくりと閉じられて、倒れ落ちた。<BR>
 ああ!<BR>
 なにを。<BR>
 僕は、なにを。<BR>
 憎いと。<BR>
 死んでしまえと。<BR>
 手に残るのは、リボン越しに伝わってきた鼓動。<BR>
 たおやかな白い喉頸には似つかわしくない、したたかな筋肉の感触。<BR>
 僕は、僕の足元に倒れる彼女を見下ろす。<BR>
 殺したのだと。<BR>
 この手で、彼女を殺してしまったのだと。<BR>
 だから。<BR>
 僕は。<BR>
「ち………ちち、うえ………………」<BR>
 こぼれ落ちた叫びはつぶやきにもならず。<BR>
 頬を、耳を、頭を、両の手でかきむしる。<BR>
 彼女の感触を拭い去るように。<BR>
 父を呼びながら。<BR>
 父ならば僕を助けてくれると、足が、一歩を踏み出した。<BR>
 その時。<BR>
 絹をつんざくような悲鳴が聞こえた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 部屋だけじゃなく、視線を感じて振り向くと、薄暗い影からわたしを恨めしげなねつい視線で睨みつけているそれを見つけてしまう。<BR>
 落ち着ける場所が、なかった。<BR>
 どこにいればいいのだろう。<BR>
 ただ、わたし以外にだれかがいればそれは姿を見せることがなかったから、わたしはいつも以上にエドナに頼ってしまっていた。だって、悲しいけれど、ウィロウさまは滅多に私のところにいらしては下さらなかったから。<BR>
 それが、あのことの原因のひとつになったのだろうか?<BR>
 まさか、エドナがあんなことを考えていたなんて、わたしは思いだにしなかった。<BR>
<BR>
<BR>
「奥さま、どうかなさったのですか?」<BR>
 最初に水を向けてきたのは、エドナだった。<BR>
 外装に傷がついたピアノの代わりにと、ウィロウさまが取り寄せてくださったアップライトのピアノの蓋を開けた時だった。<BR>
 届いたばかりのそれからは、塗装の匂いや木の匂いが漂っていて、ほんの少しだけわたしの心を慰めてくれた。<BR>
 黒い外装ではなくて白と金の優美な外装のそれは、ウィロウさまご自身が選んでくださったのだと、ハロルドから聞いていた。<BR>
 最新型のピアノだということで、鍵盤の数は八十八ある。その滑らかな白と黒の感触を楽しんでいた時に、不意にエドナが話しかけてきたのだった。<BR>
 思いつめたように、心配そうに。<BR>
 だからと言って、わたし以外に見えない、かつてはひとであったろうそれのことをどう伝えればいいのだろう。<BR>
 どうしてあんなにも恨まれ憎まれなければならないのか、わたしには皆目見当がつかなかったのだ。<BR>
 誰なのかすらわからないのだから、当然と言えば言えた。<BR>
 ただ、記憶の片隅に、ほんの少しだけ引っかかるものがあったのだけれど、それをうまく捕まえることができなかったのだ。<BR>
 だから、わたしは、このことをウィロウさまにも言ってはいなかった。<BR>
 ただでさえ、以前のことがまだ解決していないのだ。この上こんなことでお忙しいウィロウさまのお手を煩わせることはいけないことだと、自分を抑えていたのだけれど。<BR>
 努めて、平静を装ってはいたつもりなのだけれど、<BR>
「どうしてそう思うの?」<BR>
 ピアノの椅子をクルリと回して、からだごとエドナの方を向いた。<BR>
 ティーテーブルの上で数冊の楽譜を広げていたエドナが、<BR>
「お顔の色がお悪いのですもの」<BR>
と、わたしの方を見て言った。<BR>
「侍女たちも、皆心配しておりましてよ」<BR>
 そのことばに、己の自制心が思っていたよりも脆いものだったのだと思い知らされる。<BR>
「そ、う………」<BR>
 適当な鍵盤をひとつ指で弾く。<BR>
 E音が澄んだ音色を響かせる。<BR>
 エドナから顔を背けるようにして全身でピアノに向かい、心の鬱屈を打ち消すようにメロディを掻き鳴らした。<BR>
「”Twinkle, twinkle, little star”ですね」<BR>
 そう言われて、思わず、<BR>
「気分は”Ah! vous dirai-je, maman”(ああ、お母さん、あなたに申しましょう)なのだけれど」<BR>
と、言っていた。<BR>
「蓮っ葉ですよ」<BR>
 前世紀に流行ったシャンソンの歌詞を思い浮かべたのか、エドナがたしなめてくる。<BR>
「Peut-on vivre sans amant ? 」<BR>
 恋人なしではいられないの?<BR>
 最後のフレーズを口ずさむ。<BR>
 −−−ウィロウさまなしでは、いられないの。<BR>
 そう。<BR>
 我慢しているけれど、わたしは本当に、ウィロウさまが大好きなのだ。<BR>
 本当は、いつだって、お側にいたい。<BR>
 いつだって、お声を聞いていたい。<BR>
 いつだって、抱きしめていてほしい。<BR>
 そう。<BR>
 わたしが求めているほどにウィロウさまがわたしのことを想ってくださってはいないことは、知っているけれど。<BR>
 ウィロウさまが心の底から求めているのがどなたなのか、忌避すべき疑惑と共にほぼ確信してはいるけれど。<BR>
 それでも。<BR>
 こんなにも不安でたまらない時には、側にいてほしい。<BR>
 そう思って、何が悪いだろう。<BR>
 ずっと、ずっと我慢してきたのに。<BR>
 そう。<BR>
 本当は、なりふりかまわずに、すがりつきたい。<BR>
 ずっと、一緒にいてください−−−と、泣き叫びたい。<BR>
 ウィロウさまなしでは、いられないのだ。<BR>
 ひとり寝のベッドの中で、忌まわしくもあらぬこと、あってはならぬことを想像してしまうほどに。<BR>
 くちづけてくださいと。<BR>
 触れて、ください−−−と。<BR>
 その方ではなく、わたしを、見てください。<BR>
 わたしを抱いてください−−−と。<BR>
 はしたないことと全身が火照ってしまうけれど。<BR>
 このお腹の中にいる子ともども、愛してくださいと。<BR>
 泣き叫んでしまいそうになる。<BR>
 わたしだけのものになってください! と。<BR>
 ほとばしり出そうになるのは、これまでわたしが感じたことのない情動だった。<BR>
「本当に、どうなさったのですか?」<BR>
 心配そうな声に励まされるような気がした。<BR>
「怖いの」<BR>
 あの幽鬼のことを口にすればおかしくなったと思われそうで、<BR>
「怖くてたまらなくて………だから、ウィロウさまにお会いしたいの」<BR>
 理由をぼやかす。<BR>
 けれど、<BR>
「なにが、そんなに恐ろしいのです?」<BR>
 誤魔化されてはくれないエドナを、まるであの幽鬼のようにぞろりと恨めしげに睨み上げて、<BR>
「信じないわ」<BR>
 睨めつける。<BR>
「そんなこと!」<BR>
 ありません、あるわよ、と、何度も押し問答を繰り返す。<BR>
 どれくらい繰り返しただろう。<BR>
 互いに肩で息をするほどに続けて、最終的に顔を見合わせて苦笑する羽目になった。<BR>
「本当に信じてくれる? 見えないわよあなたには、きっと」<BR>
「見えなくても、信じることはできますわ」<BR>
 見下ろしてくる榛色の目を見上げて、<BR>
「わかったわ。決して、わたしの気が触れたなんて思わないで」<BR>
 そうして、わたしはエドナに話して聞かせたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 足元を凝視したまま悲鳴が喉の奥に凍りつく。<BR>
 まだ午後になったばかりだというのに。<BR>
 ここは、自分の部屋だというのに。<BR>
 一体、自分に何が起きているというのか。<BR>
 手紙が足元に落ちてゆく。<BR>
 頭の中にはただ”どうして”という疑問ばかりが次から次へと途切れることなく湧きあがるばかりだった。<BR>
 薄い封筒が、床に広がる赤い液体に染まってゆく。<BR>
 懐かしい故郷の友人からの手紙が見るも無残に赤く染まり果てる。<BR>
 侍女が控える、控えの間と呼ばれる部屋を抜けて自分の部屋のドアを開けた瞬間、水音がかすかにした。<BR>
 異臭がわずかな時差の後に鼻腔に充満した。<BR>
 目の前に広がるのは、赤だった。<BR>
 血のような、赤。<BR>
 ほんとうの血なのかもしれない。<BR>
 この鉄錆たような鉄臭いような生臭い匂いには記憶があった。<BR>
 どれぐらいそうしていたのか。<BR>
 嘔吐きあげそうになるような粘つく水音に顔を上げた。<BR>
 そうして。<BR>
 わたしは、そこに、見たのだ。<BR>
 赤いドレスを身にまとい、恨めしそうにわたしを見ている”それ”を。<BR>
 ”それ”が、生きていないことは、一目でわかった。<BR>
 恨みがましそうな苦しそうな上目遣いの三白眼。<BR>
 だらりと長く伸びた青紫の舌のせいか下がった口角。<BR>
 倍ほどに伸びて細長い首には、苦しさのあまり引っかいたのだろう傷跡がおびただしくも生々しい。<BR>
 そうして、その傷跡を作ったのだろう、いびつにひび割れた、指の爪には、赤い血が。<BR>
 悲鳴は出なかった。<BR>
 ただ、生理的な嫌悪からか、どうしようもない恐怖からか、涙があふれた。<BR>
 逃げなければ。<BR>
 ”どうして”という疑問を押しのけてわずかばかり建設的な思考が蘇ったのは、その超自然的なものの目がぐるりと音立てるかのように動いてわたしを見たからだ。<BR>
 それと同時に、その手がわたしに向かって伸ばされたからだ。<BR>
 下がった口角が、不自然に持ち上がっていったからだった。<BR>
 憎々しげに、心底にくい相手をおどかせたと言わんばかりの醜怪な笑い顔に、わたしの足がようやく動いた。<BR>
 それを皮切りに、手が、からだが、全身が。<BR>
 背後に数歩どうにか動けた。ドアの後ろにいる自分に気づいて、思いっきりドアを閉めた。<BR>
 それだけで、全身が汗まみれになっていた。<BR>
 ドアに背中を預けたまま、わたしはその場に腰を落とす。<BR>
 そんなわたしに、いつからいたのか、侍女が声をかけてきた。<BR>
「どうなさいました」<BR>
 あまりに平凡な、それまでの恐ろしい情景と懸け離れたことばに、差し出されてきた侍女の手にすがるようにして立ち上がりながらヒステリックな笑い声をあげていた。<BR>
 ほとばしる笑い声を止めることができなかったのだ。<BR>
 
<BR>
<BR>
 夜。<BR>
 ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。<BR>
 何もない夜に、不意に僕は目覚めた。<BR>
 誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。<BR>
 おそらく、その感覚は正解だったのだろう。<BR>
 心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。<BR>
 間違いなく暗い闇の中に。<BR>
 ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。<BR>
 それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光のようなものをまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。<BR>
 いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に襲われる。<BR>
 起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が身近に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。<BR>
「ははうえ………」<BR>
と。<BR>
 乾いた口でそう呟いたはずだった。<BR>
 けれど、声は出ない。<BR>
 くちびるは動かない。<BR>
 惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。<BR>
 全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。<BR>
 くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。<BR>
 青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、<BR>
 ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。<BR>
 実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。<BR>
 乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。<BR>
 その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。<BR>
 眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。<BR>
 首筋に触れてくる尖った爪先の感触に、あの遠く幼い日に絡みついてきた母の手を思い出す。<BR>
 僕を殺そうとした、母。<BR>
 それまでも、間違いなく、僕を甚振りつづけた、母のたおやかな手。<BR>
 震えは止まらない。<BR>
 涙は止むことなく、視界を遮る。<BR>
 それだえもが怖かった。<BR>
 次に何が起きるのか、目で見ることができないことが。<BR>
 怖くて、怖くてたまらなくて。<BR>
 悲鳴をあげることさえできない自分が情けなくてならなくて。<BR>
 ぞろりと湿った何かが僕の頬に触れた。<BR>
 それが何なのか考えるまでもなく。<BR>
 それと同時に、僕の首をきつくきつく締め上げてくる。<BR>
 綺麗に整えられたピンク色の爪が、僕の喉頸を突き破る。<BR>
 そんな怖気さえ覚える情景が、脳裏をよぎって、そうして僕は意識を失ったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
「横になられませんか」<BR>
 トーマスの言葉に、僕は僕がいつの間にかカウチに座ったままで眠っていたことに気づかされた。<BR>
「いや、いい」<BR>
 少し身じろいだはずみで膝に開いた画集が音を立てて床に落ちる。<BR>
 それを拾い上げるトーマスのつむじを通り越して、窓の外を僕は眺めた。ピンクや白の花をつけ始めた沈丁花や椿などが見える。灰色の空の下、花々の彩りだけがとても優しく感じられた。カウチから立ち上がった僕は窓辺のカードテーブルの上のスケッチブックを取り上げて、新しいページを開いていた。<BR>
 クリーム色の紙の上に、鉛筆で線を描いてゆく。<BR>
 そう。<BR>
 花を描いていたはずなのだ。<BR>
 部屋の窓から見える沈丁花や椿を。<BR>
 それなのに、ここは。<BR>
 足元にコツンと触れてくる感触に視線を向けると、そこには黒猫がいた。<BR>
「おまえ、僕はここで何をしているんだろう」<BR>
 猫を抱き上げ、金の目を見やりながら呟く。<BR>
 記憶は、ない。<BR>
「ここは、北の領域だろうか?」<BR>
 問わず語りに、独り言散る。<BR>
 薄暗く埃っぽい廊下は屋根裏だろうと見当をつける。人の気配がないところから鑑みるに、北の領域に間違いないだろう。北の屋根裏は基本的に物置に使われているはずだった。<BR>
 くたびれて薄っぺらい絨毯を踏みながら、まっすぐに伸びる廊下を歩いた。<BR>
 暗い。<BR>
 以前はここに来れば落ち着いたというのに。<BR>
 今では、背筋を撫で上げてくるのは、ひりひりとする緊張感だった。<BR>
 僕の足音に混じって、心臓の音が大きく聞こえる。<BR>
 少しでも何かにすがりたくて、腕の中の猫を意識した。<BR>
 喉鳴りが聞こえる。<BR>
 三つの音にだけ意識を集中させて、光を求めて僕は主階段を目指した。<BR>
<BR>
<BR>
「父上、リボンを下さい」<BR>
 震える声で、そう懇願する。<BR>
 両手首さえ自分で父の目の前に差し出した。<BR>
 背筋が冷たい。<BR>
 全身が震える。<BR>
 父の、僕を見下ろしてくる眼差しが、訝しげなものになる。<BR>
 僕の部屋で、僕の寝台の上で何がこれから行われるのか、知らないわけもない。<BR>
 ただ、どうしてか、父はリボンを使おうとしなくなった。<BR>
「なぜだ」<BR>
 父の黒い髪が、その動きにかすかに乱れる。<BR>
「そういうのが好きになったのか」<BR>
 カッと全身に朱が走った。<BR>
 父の黒紺色の目を見ることができなくなる。<BR>
 なぜ、父は………。<BR>
「お願いですから」<BR>
 母が見ているのだ。<BR>
 見ていて、どうしてリボンを使わないと、後で僕を責める。<BR>
 リボンがなければ、僕になり代わることができないのだからと。<BR>
 その身を明け渡せと。<BR>
 父は、母のものなのだから、と。<BR>
 そのあまりに当然の理を僕が破ったと。<BR>
 死んだ母が、死んだ時の姿で、僕を責める。<BR>
 何度首を絞められただろう。<BR>
 母の尖った爪が肉を破る感触さえリアルなのに、朝が来れば、後形など露ほども残ってはいない。<BR>
 だから、誰も、気づかない。<BR>
 僕以外、母の執着に、未練に、気づくものはいない。<BR>
「わかった。ハロルド」<BR>
 え? と、思った。どうしようもなく昂った熱が一気に冷めてゆく。<BR>
「何をいまさら」<BR>
 平然と差し伸べた父の掌の上に、あの赤いレースのリボンが載せられる。<BR>
 この関係は罪以外のなにものでもないのに。本来なら、あってはならないことなのに。<BR>
 なぜ、そんなに平然と他人を−−−と。<BR>
「ハロルドたちが把握していないはずがないだろう」<BR>
 ”たち”と敢えて言うからには、執事たちはみんな知っているということになるのだろう。<BR>
「把握した上ですべてを取り仕切るのが仕事だ」<BR>
 さあ、手を出しなさい−−−と。<BR>
 ドルイドベルを鳴らしながら、父が僕に命じる。<BR>
「これは、お前の望んだことだ」<BR>
と。<BR>
 僕の手首に絡みつく赤いリボンの先で鳴り響くかすかな音色が、母の歓喜の笑い声に思えて僕は目をつむった。<BR>
<BR>
<BR>
 けれど。<BR>
 この状態は、どうしようもなく僕の心を痛めつける。<BR>
 黒猫の金の目がろうそくの明かりを反射する。<BR>
 苦しい。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 憎くてたまらなくて。<BR>
 消えて欲しくてならなくて。<BR>
 いっそ、死んでしまえばいいのにとすら思った相手が、足元に倒れている。<BR>
<BR>
<BR>
 あれがいけなかったのだ。<BR>
 母の介入のない、父とのセックス。<BR>
 そこに己のいないことこそが、母の心を傷つけたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 夜。<BR>
 ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。<BR>
 何もない夜に、不意に僕は目覚めた。<BR>
 誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。<BR>
 おそらく、その感覚は正解だったのだろう。<BR>
 心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。<BR>
 間違いなく暗い闇の中に。<BR>
 ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。<BR>
 それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光をまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。<BR>
 いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に、怖に襲われる。<BR>
 起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が短に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。<BR>
「ははうえ………」<BR>
と。<BR>
 乾いた口でそう呟いたはずだった。<BR>
 けれど、声は出ない。<BR>
 くちびるは動かない。<BR>
 惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。<BR>
 全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。<BR>
 くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。<BR>
 青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、<BR>
 ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。<BR>
 実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。<BR>
 乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。<BR>
 その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。<BR>
 眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。<BR>
 
なんか納得いかないのですが。

<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ふと気がつくと、思いもよらない場所にいる。<BR>
 そんなことが日に何度も繰り返された。<BR>
 そういうときにはどこからともなく黒猫がすり寄ってきていた。<BR>
 それを抱き上げ、喉を撫でてやる。<BR>
 猫の喉鳴りの音色が、僕の不安を癒してくれる。<BR>
 そんな気がした。<BR>
 あの夜、義母上に譲ったピアノが傷つけられたあの日の夜、僕はまた父に抱かれた。<BR>
 レースのリボンもなく、ドルイドベルの独特の音色もなく、ハロルドの先達さえもなく。そんな突然の来訪に、僕はあっけにとられていた。<BR>
 僕を呪縛するものもなく、僕は最初から”僕のまま”で父に抱かれた。<BR>
 それは、初めてのことだった。<BR>
 その時僕の心に芽生えたものが、何であったのか。<BR>
 その事実にこそ、僕は打ちひしがれたのだ。<BR>
<BR>
 心に芽生え渦をなしたそれは、紛れもなく、父に抱かれることによる安堵と歓喜だった………。<BR>
<BR>
 寝台に横たわった父の脇にすっぽりと収まる安堵にうろたえながら全身を強張らせるというわけのわからない状態に陥っていた僕の耳に、<BR>
「お前のピアノが傷つけられたことを知っているか」<BR>
 ふと思い出したといった風情で父が囁いてきた。<BR>
「………もう、僕のピアノではありません」<BR>
 あれは、僕が手を下したわけではない。<BR>
「あれは、義母上に譲ったのですから」<BR>
 もう、僕のものではないのだ。あの滑らかな白と黒の鍵盤も、落ち着いた色合いを見せはじめていた足元のペダルも、美しいカーブを描くあのフォルムさえ、もう、僕のものではない。<BR>
 父の鼓動を子守唄のように白川夜船(being fast asleep)へと誘われようとしていた僕は、<BR>
「それでも、お前がピアノを傷つけるはずがない」<BR>
 その一言に、己の耳を疑った。<BR>
 鼓動がせわしなくなってゆく。<BR>
 睡魔などどこかへと消え失せた。<BR>
「ちちうえ?」<BR>
 無様にもかすれた声だった。<BR>
「ああ。もちろん、お前を疑っているわけではない」<BR>
 起き上がろうとする僕を片手で押さえつけ、父は僕を凝視した。<BR>
「おまえは、やさしいからな」<BR>
 それが、別の意味に聞こえたのは気のせいだろうか。<BR>
「あんな乱暴なことをするはずがない」<BR>
 父の手が、僕の乱れたままの髪を撫で付ける。<BR>
 そうだろうか?<BR>
 父よりも身近にいるといっても過言ではないトーマスも、心のどこかで僕を疑っていた。<BR>
 疑惑は拭い去れてはいないのだ。<BR>
 疑惑は疑惑に過ぎないが、そのあやふやさに僕はすがりついている状態だ。<BR>
 あの油照りの海のような瞳の奥に、トーマスでさえもかすかな不信を押し隠していたように感じた。<BR>
 何と言っても、僕が僕自身の行動に自信を持てないでいるのだ。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 泣くつもりはなかった。<BR>
 泣いているつもりなど、もとより。<BR>
 それでも、<BR>
「泣くな」<BR>
と。<BR>
 父のことばに、それを知った。<BR>
「お前とふたりのときに、野暮(booloishness)な話をした。忘れろ」<BR>
 目元を拭われ、そのまま目を覆われるように手を置かれた。<BR>
 父の、大人の男の大きな掌が、僕の視界をゆったりと遮る。<BR>
 父のもたらす闇は、暖かく、愚かだと自嘲しながらも、安堵せずにいられなかった。<BR>
「何があろうとも、悪いのは私だ。お前は気に病む必要などない」<BR>
 つぶやきが僕の子守唄になった。<BR>
<BR>
<BR>
 けれど。<BR>
 この状態は、どうしようもなく僕の心を痛めつける。<BR>
 黒猫の金の目がろうそくの明かりを反射する。<BR>
 苦しい。<BR>
 どうしようもない。<BR>
 憎くてたまらなくて。<BR>
 消えて欲しくてならなくて。<BR>
 いっそ、死んでしまえばいいのにとすら思う相手が、足元に倒れている。<BR>
 
ということで、アークレーヌもちょこちょこ変えたのですが大幅な変更がなかったので、ケイティの方をこちらにアップ。
 ちょこちょこだけかな。それプラス少々進んだかな?
 なんか、ウィロウがますますわからん男になってる気がする。

<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 一通の手紙がわたしの手から落ちた。<BR>
「ピアノが………」<BR>
 どうして。<BR>
 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。<BR>
 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。<BR>
 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤を軽く叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。それよりもなによりも、以前の持ち主がどれほどこれを大切にしていたのか、それを偲ぶことができる滑らかな鍵盤の手触りだった。<BR>
 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。<BR>
 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。<BR>
 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。<BR>
 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。<BR>
 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。<BR>
 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。<BR>
 仕事上のミスに震える心が静まったことがあったと、仲良くしていた相手とのすれ違いに心が張り裂けそうな時、怒りに煽られていた時、偶然耳にしたピアノの音色にどれだけ心が安らいだだろうと、しゃべってくれたのは侍女たちだった。<BR>
 御曹司であるからピアニストになることはないだろうけれど、それでも、アークレーヌさまのピアノを偶然にではあれ聞くことは彼女たちの間では”ゴールデン”と囁かれ、ひそかな楽しみとなっていたという。<BR>
 段違いに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。<BR>
「痛い………」<BR>
 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。<BR>
 エドナがいなくてよかった。<BR>
 そんなことを思う自分にハッとする。<BR>
<BR>
 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。<BR>
<BR>
 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。<BR>
「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」<BR>
 そう笑って見せたわたしに、<BR>
「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」<BR>
と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。<BR>
 そう。<BR>
 仕事なのよね。<BR>
 お友達でいる仕事。<BR>
 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。<BR>
 エドナは無意識だろうけれど、だからこそ仕事と面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。<BR>
 彼女の部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。<BR>
 どうしよう。<BR>
 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。<BR>
 今朝の散歩のお叱りというか、注意は侍女長から受けた。<BR>
 曰く、適度な散歩はいいが、長時間ひとりでなどと、貴族の奥方として、それ以前に身ごもっている女性としてありえませんと。<BR>
 ヒースの荒野と羊の放牧地との境目の細い道。<BR>
 あそこでなら、なにか解決策が浮かぶのではないかと思えるのに。<BR>
 途方にくれる。<BR>
 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。<BR>
 その思いがだんだんと強くなってゆく。<BR>
 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。<BR>
 同じ敷地で暮らしているというのに。<BR>
 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。<BR>
 お会いしたくて。<BR>
 せめて、お顔を見たくて。<BR>
 お声をお聞きするだけでもいいのに。<BR>
 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。<BR>
 行こうかどうしようかと。<BR>
 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。<BR>
 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。<BR>
 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。<BR>
 ゆっくりと、一段一段登って行く。<BR>
 ウィロウさまにお目にかかろう。<BR>
 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。<BR>
 そうして、それは、たやすく叶えられた。<BR>
 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。<BR>
<BR>
 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。<BR>
 そこには、見覚えのある男性がいた。<BR>
 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。<BR>
 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。<BR>
 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。その時整えられた前髪がほんの少しだけ額に乱れかかる。<BR>
「奥方さま、どうかなさいましたか」<BR>
 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。<BR>
「奥方さま?」<BR>
 訝しげな声に、<BR>
「ウィロウさまにお会いしたいのです」<BR>
 我に返った。<BR>
「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」<BR>
 どうぞ。<BR>
 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
「ウィロウさま」<BR>
 とてもお懐かしい心地で思わずつぶやいていた。<BR>
 ウィロウさまは書斎の窓を背に黒檀の重厚な机に向かっていた。<BR>
「レディ」<BR>
 手にした書類を机の天板に置くのと、私に向かって呼びかけてくるのとがほぼ同時だった。<BR>
 どうして名前を呼んでくださらないのだろうとほんの少しさみしかったけれど、わたしにこの館の女主人としての自覚を持つようにと敢えてそう呼ぶようにしてくださっているのかもしれないと、気を取り直す。<BR>
「どうなさいました」<BR>
 他人行儀な優しい口調で問いかけながら机を回り込みわたしに近づいて、両手を握りしめてくださる。<BR>
「また、なにか起こりましたか?」<BR>
 男性のものにしては節の目立たない白く滑らかな手が、不意に、いずれかの夜のことを思い出させた。刹那背筋を舐め上げるように駆け上ってゆくその感覚に、小さな戦慄が走り抜けた。<BR>
「いいえ。いいえ。………………ただ、ただウィロウさまにお会いしたくて………」<BR>
 声が小さくなったのは、羞恥のせいだろう。<BR>
 我慢の効かない頑是ないありさまと、それとは別に不意に駆け上った戦慄を知られはしないかと。<BR>
「ああ。しばらく忙しくて、レディとの時間を作れませんでしたからね」<BR>
 口元までわたしの手を持ち上げて、指先にくちづけてくる。<BR>
 まるで天鵞絨のようなそのやわらかな感触に、耳の付け根が熱くなった。<BR>
 きっと、顔が赤くなっているのに違いない。<BR>
「こちらへ」<BR>
 そのまま導かれた先には、革張りのソファがあった。<BR>
「ハロルド、ハーマン、しばらく誰も通すな」<BR>
 ウィロウさまの言葉に、わたしは部屋にふたりがいたことを知った。<BR>
 ふんわりとしたソファに背中を包まれながら、これ以上ないくらいにわたしは真っ赤になっていただろう。<BR>
 なぜなら、そのまま、わたしはウィロウさまに抱きしめられたからだ。<BR>
<BR>
 そうして−−−。<BR>
<BR>
 気だるさを誰にも見咎められないように自分の部屋へと戻ったわたしは、床の上に落ちている手紙を手に、居間に入った。<BR>
 そこでわたしを待ち受けていた光景は、それまでの幸せな心地を粉々に打ち砕くものだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドから聞いていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、腱を傷つけられて力の入り辛い左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に指を開いて、鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのさいのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。右手からも徐々に力が抜けて行く。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 けれど、ピアノをしまいこむのは切なくて。<BR>
 だから、居間から動かす事ができないでいた。<BR>
 その思いに区切りをつけてくれたことに感謝していた。僕の代わりに弾いてくれるひとがいるのだと思えば、ピアノが埃をかぶることもないのだと思えば、嬉しかった。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
 黒光りのする艶やかな塗料がささくれて、下の木肌までもが傷んでいる。<BR>
 ざらりと肌をこする感触を指先で辿っていた。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 声量を抑えていながらも鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 いつの間にか右手に持っていたペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。それをトーマスが取り上げたのを、目の隅で捉えていた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 僕のものであったピアノに刻まれた無残な傷跡。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたのだと彼が思っているのだと、けれどそれが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「僕じゃない………」<BR>
 信じてもらえるかどうかはわからない。<BR>
 けれど、あんなこと、どうしてするだろう。<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせられる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるように先導されるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、寸胴のマグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったカップを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 どうして、ピアノが傷つけられていたのか。<BR>
 もしかして。<BR>
 本当に、僕が傷つけたのだろうか?<BR>
 ようようのことで僕の耳に入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれは僕じゃない。ピアノを傷つけるなんて、僕がするわけがない! けれど義母上の部屋に無断で侵入していたことは事実だ………………。もしかして、ならば、あれもこれも………記憶にないだけで僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に両膝をついた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれらは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
 彼の手が、お仕着せのジャケットの隠しポケットから何物かを取り出す。<BR>
「それ………は」<BR>
 プラチナの持ち手にサファイヤが象嵌されたそれは、確かパブリック・スクール入学の祝いにと父が僕に送ってくれたペーパーナイフだった。<BR>
 無意識に伸ばした掌に、トーマスが静かに乗せてくる。<BR>
「………覚えておられませんか? このペーパーナイフが見当たらないと御曹司が私に伝えてきたのが昨日の午前中のことでございました。あれから私どもが探しておりましたが、力が足りず見つけられずにおりました」
 そういえば。<BR>
 取り寄せた書籍を読もうとしてペーパーナイフがいつもの場所にないことに気づいたのだった。居間のカードテーブルの上にいつも置いていたのだ。そこなら、暖炉にもソファにも近い。書斎を使うことのない自堕落な生活をしている僕にはちょうどいい場所だった。それが見当たらず、結局トーマスに探しておくよう言いつけて代わりのペーパーナイフを使ったのだった。<BR>
「失礼いたします」<BR>
 掌の上から取り上げて、定位置に戻す。<BR>
「それにもう一つ。おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 ひそめた声に、頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれらは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことに対する罪悪感は消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 一通の手紙がわたしの手から落ちた。<BR>
「ピアノが………」<BR>
 どうして。<BR>
 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。<BR>
 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。<BR>
 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤をポンと叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。<BR>
 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。<BR>
 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。<BR>
 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。<BR>
 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。<BR>
 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。<BR>
 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。<BR>
 そんなに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。<BR>
「痛い………」<BR>
 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。<BR>
 エドナがいなくてよかった。<BR>
 そんなことを思う自分にハッとする。<BR>
<BR>
 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。<BR>
<BR>
 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。<BR>
「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」<BR>
 そう笑って見せたわたしに、<BR>
「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」<BR>
と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。<BR>
 そう。<BR>
 仕事なのよね。<BR>
 お友達でいる仕事。<BR>
 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。<BR>
 けれど、面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。<BR>
 エドナの部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。<BR>
 どうしよう。<BR>
 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。<BR>
 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。<BR>
 その思いがだんだんと強くなってゆく。<BR>
 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。<BR>
 同じ敷地で暮らしているというのに。<BR>
 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。<BR>
 お会いしたくて。<BR>
 せめて、お顔を見たくて。<BR>
 お声をお聞きするだけでもいいのに。<BR>
 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。<BR>
 行こうかどうしようかと。<BR>
 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。<BR>
 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。<BR>
 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。<BR>
 ゆっくりと、一段一段登って行く。<BR>
 ウィロウさまにお目にかかろう。<BR>
 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。<BR>
 そうして、それは、たやすく叶えられた。<BR>
 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。<BR>
<BR>
 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。<BR>
 そこには、見覚えのある男性がいた。<BR>
 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。<BR>
 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。<BR>
 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。<BR>
「奥方さま、どうかなさいましたか」<BR>
 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。<BR>
「奥方さま?」<BR>
 訝しげな声に、<BR>
「ウィロウさまにお会いしたいのです」<BR>
 我に返った。<BR>
「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」<BR>
 どうぞ。<BR>
 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。<BR>



 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しくてたまらない。<BR>
 頭の中に浮かんで消える、母の記憶が、僕を責める。<BR>
 苛む。<BR>
 愛していたひとと結ばれることなく、僕を生まなければならなかったレイラ。その苦しみ。愛するひとと睦みあうことのできない苦しみは愛することのできない相手の子、自身が生んだ僕への憎悪へと変化して、そうして苛むことになった。それは彼女を慰めたのか。それともより苦しめることになったのだろうか。<BR>
 いつしか父を想うようになっていた自分に気付いた時、母は、自身の心変わりに絶望して僕を、僕と自分自身とを無に帰そうとした。<BR>
 ごめんなさい−−−と。<BR>
 僕の首に絡む白い手が、ざらりとした何かを僕の首に巻きつけて、とても優しく、力を加えてくる。<BR>
 喉に食い込む細い紐のようなものがもたらす痛み。<BR>
 息ができなくなる苦しさ。<BR>
 すぐそこに迫った死へたどり着くまでの、気が遠くなるほどの苦しさ。<BR>
 あの恐怖。<BR>
 あなたのお父様を愛してしまった−−−<BR>
 それなのに、あなたを愛することができない−−−と。<BR>
 荒れる鼓動の合間に聞こえてきた彼女の血を吐くような贖罪の音色。<BR>
 愛せない。<BR>
 でも。<BR>
 愛してしまった。<BR>
 わたしのあのひとを、裏切ってしまったの。<BR>
 この心は、永遠にあのひとのものであるはずだったのに。<BR>
 だからこそあなたを、あなたという存在を許せなかったのに。なのに。ウィロウさまを想う心は、あなたを愛することを許してくれない。あなたをこれまで散々に傷つけてきたこんな女があなたの母であることを、許してくれない。今まで苦しめつづけてきた記憶が、それを良しとはしてくれない。だから、だから、消えてちょうだい。<BR>
 一体なにがきっかけであったのか。<BR>
 僕は知らない。<BR>
 ただ、悲痛なまでの謝罪に、僕は霞む視界に母を映しているばかりだった。<BR>
<BR>
 朦朧となった意識の中で、母の独白が、悲鳴へと変わる。<BR>
 周囲が騒々しくなった。<BR>
 誰かが僕を抱え上げ、僕の全身が揺れる。<BR>
 誰かが母を鋭く呼ぶ声が耳を貫いたと思った。<BR>
 けれど、それはもう僕にはどうでもいいことで。<BR>
 もう僕は死ぬのだと。<BR>
 それほど、母は僕を嫌っているのだと。<BR>
 絶望が静かに僕の意識を絶ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あの後、父の後妻に振り払われ情けなくも気を失った後、僕が気づいたのは寝室のベッドの上だった。<BR>
 まだ空は明るく、昼前であることを僕に問わず語りに教えてくれる。<BR>
 夢の中で散々思考を空転させた後の嫌な気分のまま、僕は上半身を静かに起こした。<BR>
 ぐるぐると止まることなく僕を苛む嫌な出来事の数々と、嫌な思考の数々。<BR>
 吐き気がする。<BR>
 こんなにも情けなく、醜い生き物であることに。<BR>
「御曹司」<BR>
 水を差し出してくる忠実なヴァレットに反応を見せることさえも億劫でならなくて、そのまま僕は髪をかきあげた。<BR>
「………義母上には、お子が出来ていたのだな」<BR>
 お前は知っていたのか?<BR>
 掠れた声が喉を痛めつける。<BR>
「はい」<BR>
と、ヴァレットが静かに答えた。<BR>
「御曹司におかれましては、興味がおありになられないだろうという判断をいたしておりました」<BR>
 −−−それは、半分は正しく、半分は誤っている。<BR>
 しかし、どうしてそれを彼が知るだろう。<BR>
 彼は、僕が母に囚われていることを知らない。<BR>
 いや。<BR>
 それとも。<BR>
 知っているのだろうか?<BR>
 じっとりと、彼の顔を見返した。<BR>
 知っているからこそ、興味がないと判断をしたのだろうか。<BR>
 僕と父の、おぞましい関係を。<BR>
 いったいどっちだろう?<BR>
 おそらくは、次のハウス・スチュワードとハロルドから目されているだろう、このよく気の回るヴァレットの灰色の目の奥を覗き込む。<BR>
 油照りの日の海のような瞳が、僕を見返してくる。<BR>
 それに気づいて、心臓が大きく跳ねた。<BR>
 とっさに、顔を背けていた。<BR>
 ぞわりと背中を駆け上り後頭部を逆毛立たせたのは、恐怖だった。<BR>
 最近では忘れがちになっていた、見られていることに対する恐怖が、蘇る。<BR>
 しかし、それを、従者に見せるわけにはいかない。<BR>
 知られていても、己からそうと見せるわけにはいかない。<BR>
 たとえ、これまでにおびただしいほどの醜態を晒してきていても−−−だ。<BR>
 顔を枕に伏せた。<BR>
「ひとりにしてくれ」<BR>
 くぐもった声が出る。<BR>
「承知いたしました」<BR>
 静かに諾い出て行く気配があった。<BR>
 独りになったと理解して、ぐるりと寝返りを打つ。<BR>
 額に手を乗せる。<BR>
 天蓋の裏側が霞んで見えた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「こちらに新たな子供部屋を設えるおつもりですか?」<BR>
「まだ犯人もわかっていないというのに、南の領域に戻れとおっしゃるのですか?」<BR>
 ハロルドにエドナが食ってかかるのを横目に、わたしは居間のソファに腰を下ろしていた。<BR>
 なんてことを−−−反省ばかりが頭の中を乱していた。<BR>
 なにをしてしまったのだろう−−−。<BR>
 手を差し伸べてくれた相手を。<BR>
 お礼すら口にせず、罵ってしまうなど。<BR>
 けれど。<BR>
 あの時、襲い掛かってきたのは、間違いなく、嫌悪感だったのだ。<BR>
 どうしようもないくらいの、生理的な嫌悪だった。<BR>
 証拠などはない。<BR>
 それなのに、あの疑惑は、どうしようもなくわたしの心に根付いてしまっていたのだ。<BR>
 同性なのに。<BR>
 親子なのに。<BR>
 そんなことがあるはずがないと思えば思うだけ、あの朝の廊下でのやりとりが頭の中で鮮やかなものへと変化を遂げてゆく。<BR>
 義理の息子、アークレーヌさまの前髪の下に隠されていたとても綺麗な顔。<BR>
 女性とは言いきれず、かといって、男性とも言いきれない。そんな、中性的な印象の顔が、媚びるような艶やかな色を帯びる。<BR>
 うっすらと白桃色に染まった頬が、首が、鎖骨が。<BR>
 露わになった胸元が。<BR>
 そこにくちびるを寄せるのは、ほかならぬウィロウさまだ。<BR>
 ああ!<BR>
 両手に顔を埋めた。<BR>
「奥さまっ?」<BR>
 エドナの声が耳を射抜くほどの激しさだった。<BR>
 おかしい。<BR>
 わたしは、きっとおかしくなっている。<BR>
 こんな、あるはずもない、いやらしい想像をしてしまうなんて。<BR>
 それも、わたしの夫と、夫の実の息子とで。<BR>
「奥様」<BR>
 ハロルドの落ち着いた声が、まるで外国産の張りのあるコットンにも似てわたしの動揺した心を落ち着けてくれるような心地がした。<BR>
「お部屋を乱した不心得者が見つかるまで、新しく設えられるのはおやめになられた方がよろしいのではと」<BR>
「………それは、旦那さまのご提案なの?」<BR>
「はい」<BR>
「それならば、早く犯人を見つけてちょうだい」<BR>
 ハロルドが腰を深く折る。<BR>
 そのまま踵を返して部屋を出て行った。<BR>
「奥さま」<BR>
 今日はエドナの声がどうしてだか鑢のように癇に触る。<BR>
「少しひとりにしてくれる?」<BR>
 エドナの榛色の瞳がどこか不満そうに揺れた。<BR>
「今の奥さまをひとりになど!」<BR>
「そう。ありがとう」<BR>
 どう伝えよう。<BR>
 対面のソファに座ったままのエドナに、<BR>
「さっき、外でのことだけれど。あれは、言い過ぎだったわ」<BR>
 口調に、エドナの表情が紙のようになった。<BR>
「けれどっ!」<BR>
「ええ。ありがとう。わたしを慮ってくれたのよね。わかっているわ。それに、わたしの行動も悪かったのだと理解しているわ」<BR>
 けれどね。<BR>
「エドナ。あなたが知っていたのかどうかはわからないけれど、あなたが咎めたのは、アークレーヌさまなのよ」<BR>
「アークレーヌさま?」<BR>
 ぽっかりと、エドナにしては間抜けな表情で繰り返す。<BR>
「そう。アークレーヌ・アルカーディ、次期アルカーデン公爵よ」<BR>
「そんなっ」<BR>
 悲鳴をあげる。<BR>
 エドナはアークレーヌさまのお顔を知らなかったのか。<BR>
 そんなエドナを見ながら、わたしはアークレーヌさまに謝らなければと、考えていた。<BR> 
 嫌悪は嫌悪として。<BR>
 疑惑は疑惑として。<BR>
 謝罪はしなければ。<BR>
 手を振り払ってしまった。<BR>
 罵ってしまった。<BR>
 それに。エドナも、わたしを思えばこそではあったのだろうけど、あの態度はいただけない。アークレーヌさまは次代の公爵さまなのだ。<BR>
「着替えます」<BR>
 控える侍女に命じる。<BR>
「はい」<BR>
 ドレスルームのドアを開ける侍女を見ながら、<BR>
「エドナ。少し待っていて」<BR>
 着替えてなにをするとは告げず、ドレスルームに入った。<BR>
 薄い緑色のドレスを選ぶ。白いレースのブラウスに襟元からウェストラインにかけて深いV字に切れ込んだそれを合わせる。<BR>
 髪は編み込み、シンプルな髪飾りをつける。<BR>
 靴は部屋履きの楽なものに履き替えて、扇とハンカチのどちらを手に持つかしばし悩む。<BR>
 まだ呆然としているエドナを、<BR>
「さあ。北の領域に行きましょう」<BR>
 促す。<BR>
「なにをするために?」<BR>
 返された反応に、え? と思った。<BR>
「なにって、アークレーヌさまに無礼を謝らなければいけないでしょう」<BR>
「え? あ………ぶれい………無礼」<BR>
 ぶつぶつと呟きながらわたしを見上げてくるその瞳に、なぜだかゾッとした。<BR>
「エドナ。あなた、今日はおかしいわよ」<BR>
 そうとしか言えなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 アークレーヌさまの従者がわたしたちを客間に通し奥へと消えてゆく。<BR>
 控えていた執事がすぐさま紅茶とケーキを説明とともに供してくれた。<BR>
 良質の紅茶の香りが空気に広がり消えてゆくのを楽しみながら、周囲を見やる。<BR>
 シンプルな部屋だった。<BR>
 あっさりしすぎていると言ってもいいだろう。<BR>
 あるのはソファとテーブル、後はライト。装飾品と呼べるものは、マントルピースの上や脇の壁に掛けられた大小数点の絵画だった。<BR>
 カーペットさえ敷かれてはいない。<BR>
「殺風景ですね」<BR>
 思わずといった態でエドナがつぶやいた。<BR>
 小さなそれを拾ったかもしれない執事は、壁際に佇み微動だにしない。<BR>
「エドナ………」<BR>
 今日のエドナは本当におかしい。<BR>
 いつもと違う雰囲気に、わたしもおかしくなりそうだった。<BR>
 まだアークレーヌさまは現れない。<BR>
 手持ち無沙汰も手伝って、ソファから立ち上がり絵に近づいた。<BR>
 五十号はあるだろう穏やかな春の風景が描かれたそれを鑑賞する。この国の田舎には珍しくないだろう、緩急のある丘陵地帯の放牧地に点々と散る羊の群れ。うっすらと靄がかったような空の色はぼんやりと琥珀色を宿したような光を宿す。<BR>
 のどかな風景画にアークレーヌさまはこういう絵画を好まれるのかと、心が穏やかになるような気がした。<BR>
 しかし、それも、逸らした視線が近くに飾られていた五点の一号ほどの素描画を捉えて、霧散した。<BR>
 風景画との不均衡さに、顔が引きつるのがわかった。<BR>
「これは………」<BR>
 暗い。<BR>
 偏執的なまでの執拗さで紙を引っかいたような細い描線が描き出すのは、この館を取り囲むガーゴイルたちの姿だった。<BR>
「なぜ、こんなものをモデルに」<BR>
 悪趣味としか思えなかった。<BR>
 まるで今にも紙から飛び出してきそうな、生々しい異形の鬼たち。<BR>
 嘆き、怒り、戸惑い、悲しみ、絶望にとらわれたものたちの心の底からの嘆きが聞こえてくるかのようで、わずかの”喜”を見出すことすらできなかった。<BR>
 鉛筆の黒と紙の白とのコントラストが、これほどまでに画家の内面を表すことができるのだと、わたしの背中が逆毛立つ。<BR>
 画家の名は? と、走らせた視線が、紙の片隅にあるサインを捉えた。<BR>
 そこには、<BR>
「アークレーヌさま?」の名が記されていた。<BR>
 ああ、そういえば。<BR>
 今朝のあの時も、従者はスケッチブックを手にしていたような気がする。<BR>
「気持ち悪いですね」<BR>
 失言が多い気がするエドナがそうささやいた時、ようやく、<BR>
「待たせてしまいました。申し訳ありません」<BR>
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。<BR>
 振り返った先では、長い白髪で顔の半ばまでを隠したアークレーヌさまがソファまでやってくるところだった。後頭部で髪をくくり、ありふれた白いシャツと髪をくくるリボンと同色のジャケットとズボンといういでたちは、朝とは違っていた。<BR>
「いいえ」<BR>
 慌てて応え、ふたりしてソファへと引き返す。<BR>
 わたしたちが腰かけたのを確認して、アークレーヌさまがゆっくりと腰を下ろした。<BR>
 すかさず執事が紅茶を差し出す。<BR>
 ひとくち含み、<BR>
「それで、ご用件は?」<BR>
 ささやかな大きさの声が問いかけてきた。<BR>
「今朝のことです」<BR>
「………今朝?」<BR>
 長い前髪の奥、表情は判らない。<BR>
「はい。助け起こそうとしてくださったのに、あらぬことを口走った上に手を払いのけてしまって申し訳ありませんでした」<BR>
 頭をさげる。<BR>
 隣では、エドナもまた、<BR>
「わたくしも、まさかアークレーヌさまだとは存じあげなくてあんな暴言を叫んでしまいました。申し訳ありません」<BR>
 頭を下げた。<BR>
「謝罪など必要ありませんでしたよ。あのタイミングでは、仕方のなかったことです。僕の方こそ醜態をさらしてしまい、お恥ずかしい」<BR>
「では」<BR>
「赦してくださるのですか」<BR>
「許すもなにも、単にタイミングが悪かっただけのことでしょう。義母上も今は大切な時期でしょうから、おからだをお厭(いと)いください」<BR>
 立ち上がり、<BR>
「それでは、僕はこれで。トーマス、義母上とレディをお送りして」<BR>
 そう言って、客間を出て行った。<BR>
 アークレーヌさまがこちらを振り返ることはなかった。<BR>
 実際にアークレーヌさまと相対してみて、不思議なことに嫌悪感を抱くことはなかった。私たちに対する態度も普通のものだったと感じられた。あんな素描画を描くとは到底思いもよらない。その現実に、わたしはわたしのなかに根付いてしまった妄想があまりにも悍ましすぎたのだと痛いくらいに感じた。あんなこと、あるわけがないのだ−−−と。<BR>
 そんな風にいろいろなことに拍子ぬけして、しばらくソファから立ち上がることさえできなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドが言っていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、力をなくした左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に手を開いて、指で鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 右手に持ったペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 たった今、ほかならぬ己がしでかしたことなのだ。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたものが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「なんてことを」<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人達に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、マグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったマグを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 それでも、己のしでかしたことがなかったことになるはずがない。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 その上、ピアノを傷つけてしまうなど。<BR>
 もしかして。<BR>
 いつしか僕の耳にも入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれも、僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に膝間付いた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
「………おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことやピアノを傷つけたことに対する罪悪感が消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれはなに?<BR>
 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。<BR>
 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。<BR>
 けれど、できなかったのだ。<BR>
 だって。<BR>
 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのを微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさにだらしないと思えばいいのか、混乱してしまったのだ。<BR>
 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。<BR>
 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。<BR>
 疑問だった。<BR>
 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。<BR>
 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。<BR>
 けれど、アークレーヌさまのうっすらと血の気を宿した胸元に、それよりもひときわ赤い斑が数個あるのを見つけたような気がした。<BR>
 キスマーク(hickey)?<BR>
 心臓が大きく鼓動を刻んだ。<BR>
 なにを馬鹿なことを。<BR>
 自分のはしたない連想を打ち消す。<BR>
 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。<BR>
 そう思った。<BR>
 だって、おふたりは父と息子なのだから。<BR>
 穏当な行動はそうだろう。<BR>
 他になにがある?<BR>
 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。<BR>
 おはようございます−−−と。<BR>
 ことはそれで普通に戻る。<BR>
 はずなのに。<BR>
 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。<BR>
「アークレーヌっ」<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。<BR>
 わたしといるときには見せることさえもなかったほどの激しさで抱きしめて、<BR>
「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」<BR>
 聞いたことがないほどに真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。<BR>
「いや」<BR>
 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。<BR>
 この声は。<BR>
「もう、いやだ」<BR>
 この口調は。<BR>
「いやなんだ」<BR>
 まるで………。<BR>
「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」<BR>
 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。ちらりと彼がわたしの方を見たような錯覚があった。<BR>
 落ち着き払った彼の声に、ささくれ立った神経が癒される心地がした。<BR>
 ああ。やっぱり。<BR>
 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。<BR>
 不思議な安堵感があった。<BR>
「ひとり、ひとりでもどれる」<BR>
 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、<BR>
「青いな」<BR>
 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。アークレーヌさまの前髪が乱れて、いつもはその下に隠されている容貌を刹那あらわにした。<BR>
「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」<BR>
 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ウィロウさまは………。<BR>
 その時、わたしの心の中には、ひとつの疑惑が芽生えていた。<BR>
<BR>
 唾棄するべき、恐ろしい疑惑だった。<BR>
<BR>
 彼らの姿が消えてしばらくして、わたしはふらふらと部屋を出た。<BR>
 心の中を占める妄想にも等しいものが恐ろしくてならなくて。<BR>
 それがもしも真実であったとしたら−−−。<BR>
 あまりにも恐ろしいそれに、ここから出てしまいたくてしかたがなかった。<BR>
 なんの証拠もありはしない。<BR>
 そう。妄想にも等しいものに過ぎないのだ。<BR>
 けれど。<BR>
 同様に。<BR>
 恐ろしいそれを打ち消す証拠もありはしないのだ。<BR>
 誰かに訊ねてみることだとて、できはしない。<BR>
 そう。<BR>
 例えば誰かに、<BR>
「ウィロウさまはアークレーヌさまを」<BR>
 小さく口の中で音にしてみただけで、考えるだけで、動悸が激しくなる。<BR>
 その先の言葉を紡ぐことができない。<BR>
 はしたないから?<BR>
 確かにその疑惑ははしたない。<BR>
 不道徳すぎる。<BR>
 あってはならないことだ。<BR>
 ひととして。<BR>
 親子として。<BR>
 口にするのも恐ろしいそれを、現実にもし仮に口にすることができたとして、おそらく、わたしの質問を受けた誰かは、狂った者を見るような視線をわたしに向けてくるだろう。<BR>
 誰にも。<BR>
 誰にも、問う術はない。<BR>
 ウィロウさまにも。<BR>
 ましてや。<BR>
 アークレーヌさまになど。<BR>
 おそらくは、彼こそが、わたしの、恋敵に違いないのだから。<BR>
 脳裏を、ぬめのような青白い肌が、桃色の陰影が、過る。<BR>
 十六の少年とは思えない細い首が、深く切れ込んだ鎖骨の儚さが。<BR>
 かすれた小さな声が。<BR>
 胸元の赤い斑模様が脳裏から消えてくれない。<BR>
 首を激しく左右に振った。<BR>
 違う。<BR>
 違う。<BR>
 違う。<BR>
 そんなことを考えてはいけない。<BR>
 けれど、そんなことに取って代わったのは、ウィロウさまに顎を取られて持ち上げられた時に乱れた前髪の隙間から見えた、彼の容貌だった。<BR>
 なぜ隠しているのか。<BR>
 ウィロウさまにも、先妻さまにも似ていなかったけれど、とても美しい顔だった。<BR>
「わたしは、いったい、なんのためにここまで来たのかしら」<BR>
 ぽつりと知らずつぶやいていた。<BR>
 誰も答えてくれるものはいない。<BR>
 朝が早かったこともあって、ルイザはまだ起きていないだろう。<BR>
 ひとりだ。<BR>
 ふらふらと、わたしはただ足の向くままに歩いていた。<BR>
 手近な石垣に腰を掛ける。<BR>
 いつの間にこんなところまで歩いてきたのだろう。<BR>
 遠く見えた、ヒースの花群れがすぐそこにある。<BR>
 ”孤独”<BR>
 あれだけ群れをなしていながら、ヒースの花言葉は孤独なのだ。<BR>
「こんなところになど来なければよかった」<BR>
 本国の素敵な公爵さまの求婚に、公爵夫人になれるという未来に舞い上がってしまった己の愚かさに自嘲がこみ上げてくる。<BR>
 丘陵を駆け抜ける春の風が、冷たくわたしに触れては通り過ぎてゆく。<BR>
 からだを震わせる。<BR>
 そうして、気がついた。<BR>
「いいえ! いいえ違う。わたしは孤独なんかじゃない」<BR>
 そう。<BR>
 まだ目立たないお腹をそっと掌で撫でる。<BR>
「ここには………」<BR>
 ウィロウさまとわたしの赤ちゃんがいる。<BR>
 わたしの疑惑がもしも真実だったとしても、わたしのお腹にいる赤ちゃんこそが、わたしにとって絶対の真実だった。<BR>
「あなたがいるわ」<BR>
 踵を返した。<BR>
 遠く、灰色の城館が見える。<BR>
 ミスルトゥ館と呼ばれるとても壮大な、異相を誇る、公爵家の居城が。<BR>
「ここがわたしの、あなたの家なのだから」<BR>
 決意を新たに、わたしは引き返した。<BR>
 まさか引き返した場所で、わたしをこんなにも苦しめた当の本人と出くわしてしまうだなどとは思わなかった。そうして、思わず彼を振り払ってしまい、罵ってしまうことになるだなど、想像だにしていなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれから、僕の頭を占めるのは、彼女に対する憎悪と嘆きだった。<BR>
<BR>
 あれから−−−。<BR>
<BR>
 そう。<BR>
 彼女−−−義母上、レディ・アルカーディが父の子を身ごもっていると知ってからである。<BR>
<BR>
 なぜ。<BR>
<BR>
 僕には−−−できないのに。<BR>
<BR>
 耳の奥で、ドルイドベルの音色が聞こえる。<BR>
 誰かが、赤いレースのリボンを持って、僕に近づいてくる。<BR>
 それを待ち望んでいる自分に気づいて、僕は顔を両手で覆い隠した。<BR>
 来るな!<BR>
 こんな思考は、おかしい。<BR>
 幻の赤いリボンが、僕を呪縛しようとする。<BR>
 今、僕を縛めるリボンはない。<BR>
 だから、僕を支配しようとするな!<BR>
 今、ここに、ドルイドベルはない。<BR>
 僕は、僕のからだは、僕だけのもの。<BR>
 心も、僕自身のもの………だとすれば、この害意も、この絶望も、僕自身のものなのだろうか?<BR>
 違う!<BR>
 そんなはずはない。<BR>
 寝室のベッドにうずくまる。<BR>
 そんなことがあっていいわけがない。<BR>
 ふたりの母の呪縛も、父の呪縛も、僕を覆い尽くして、壊してしまいそうだった。<BR>
 赤いレースに込められたレイヌの呪いも、それをわずかに緩やかなものにしようとしたレイラの思いが込められたドルイドベルも、結局は僕のからだと心を縛るものでしかないのだ。<BR>
 誰のために?<BR>
 父のために。<BR>
 他の誰でもない、父のために、ふたりの女は僕を人形にしてしまった。<BR>
 彼女らが死んだ後、彼女らの意のままに操ることができる人形に。<BR>
 父を受け入れる器として。<BR>
 父を苦しめる道具として。<BR>
 そこにあったのは、父に対する愛情と憎悪。<BR>
 アルカーディの血に対する、恨み。<BR>
 ほんの少しの−−−僕に対する憐憫。<BR>
 呪縛を受けて父に抱かれているうちに、僕は、彼女らの思いを知った。<BR>
 絶望を。<BR>
 羨望を。<BR>
 それでも。<BR>
 このからだは、この心は、僕のものなのだ。<BR>
 それなのに、なぜ。<BR>
 どうして。<BR>
 当然とばかりに僕を支配しようとするふたりの女の呪いを拒む術を、僕は知らない。<BR>
 どうすればいいのかわからない。<BR>
 リボンもドルイドベルもないのに。<BR>
 まるで水を吸う紙のように、たやすく彼女らの呪いに浸されてゆく。<BR>
 憎い。<BR>
 どうして。<BR>
 産むことは許されなかったのに。<BR>
 それなのに、なぜ。<BR>
 なぜ。<BR>
 死ねばいいのに。<BR>
 渦巻く憎悪に吐き気がこみ上げてくる。<BR>
 
 あれはなに?<BR>
 ほんの少し開けた扉の前で始まったウィロウさまとアークレーヌさまを含むやり取りに、わたしはドアから出ることができなくなった。<BR>
 何食わぬ顔で出ればよかったのかもしれない。<BR>
 けれど、できなかったのだ。<BR>
 だって。<BR>
 ウィロウさまのガウンを羽織られた後ろ姿はともかくとして、アークレーヌさまがなぜこの東の領域の廊下にガウン姿でいるのか。銀の縁取りのある濃紺のガウンの帯が不器用な固結びになっているのが微笑ましいと思えばいいのか、それとも乱れたさまのしどけなさになにを思えばいいのか、混乱してしまったのだ。<BR>
 いくら男の方とはいえ、ガウンの下は素肌だろうことが容易に分かった。<BR>
 なぜならガウンの合わせは帯のところまではだけてしまっていて、困ったことにアークレーヌさまのぬめるような青白い首筋から胸元の一部が露わになっているためである。しかも、ガウンの裾からやはり青白く細い繊細そうな踝までも見ることができる。<BR>
 疑問だった。<BR>
 朝が早いとはいえ、なぜ、あんな格好で。<BR>
 さすがに直視するのは憚られて見ないようにしたけれど、青白い肌がうっすらと熱を帯びたように陰影のある桃色を宿したさまは、男女の夜の後のような隠微な艶めきを示唆してくるかのような錯覚を抱かせるものだった。<BR>
 なにを馬鹿なことを。<BR>
 自分のはしたない連想を打ち消す。<BR>
 考え付くことができるのは、何か相談事があっておふたりで遅くまで話し込んでしまってアークレーヌさまがお部屋に戻るタイミングを逃したことくらいだろうか。<BR>
 そう思った。<BR>
 だって、おふたりは父と息子なのだから。<BR>
 穏当な行動はそうだろう。<BR>
 他になにがある?<BR>
 だから、こんなところで息を殺して盗み見ていないで、普通に出て行って朝の挨拶をすればいいのだ。<BR>
 おはようございます−−−と。<BR>
 ことはそれで普通に戻る。<BR>
 はずなのに。<BR>
 目の前で繰り広げられるやり取りに、昨日覚えた不安が鎌首をもたげてくるのだった。<BR>
「アークレーヌっ」<BR>
 ウィロウさまがアークレーヌさまの腕を掴んで抱え込む。<BR>
 抱きしめて、<BR>
「無理をする。それほど私の部屋に居たくないのか」<BR>
 わたしの聞いたことがない真剣な口調で、まるで掻き口説くかのように言うウィロウさまに、わたしの心臓が握りつぶされるかの錯覚があった。<BR>
「いや」<BR>
 十六歳の少年のものとは思えないほど、力のない拒絶に、背筋がそそけ立つ心地だった。<BR>
 この声は。<BR>
「もう、いやだ」<BR>
 この口調は。<BR>
「いやなんだ」<BR>
 まるで………。<BR>
「旦那さま、このままでは御曹司の体調がまた悪くなられましょう。私がお部屋まで」<BR>
 わたしが口を掌で抑えた時、ハロルドの声が聞こえてきた。<BR>
 それにささくれ立った神経が、癒される心地がした。<BR>
 ああ。やっぱり。<BR>
 アークレーヌさまは何かウィロウさまに相談事をしていて、そのまま体調を崩されたのだ−−−と。<BR>
「ひとり、ひとりでもどれる」<BR>
 そんなアークレーヌさまの張りのない声に、<BR>
「青いな」<BR>
 ウィロウさまが顎を持ち上げられたのだろう。<BR>
「ハロルドについていってもらえ。それもいやだというなら、私が抱いて連れて行ってやろう」<BR>
 熱のこもった、まるで睦言を紡いでいるかのようなウィロウさまのことばに、わたしの顔は赤く染まり、足から力が抜けたのだ。<BR>
 ああ。<BR>
 ウィロウさまは………。<BR>
 その時、わたしの心の中には、ひとつの確信が芽生えていた。<BR>
<BR>
 唾棄するべき、恐ろしい確信だった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「自分が口にしたことを理解できていますか?」<BR>
 殊更に丁寧な口調ながらも嘲笑を隠しもしない声が聞こえてきたような気がした。<BR>
 その夜の僕は巣穴に引きずり込まれる獲物でしかなかった。<BR>
 ドルイドベルの音で僕の意識の半分は母の呪いに呪縛され朦朧としていた。<BR>
 ひたすらに混乱したままの僕は、たやすく父に抱き伏せられ、食い散らかされる獲物同然だった。<BR>
 混沌とした眠りの底から這い出した時、そこがまだ東の領域にある父の寝室であることを知り、僕は途方にくれた。<BR>
 これまでの僕は自室でしか抱かれたことがなく、ことが終わった後に部屋に戻るなどということをしたことがなかったからだ。<BR>
 どうやって部屋に戻ればいいのか。<BR>
 愚かなことに、僕はただそれだけに悩んだ。<BR>
 起き上がり数歩を進むのさえ困難な自分のありさまに泣きそうになりながら、ベッドを降りた僕はそれでもガウンをしっかりと羽織った。紐を結ぶのに手間取り、結局は固結びになってしまった後になって、ガウンだけで部屋に戻る自分を想像して青くならざるを得なかった。<BR>
 服を−−−。<BR>
 せめて昨夜の服なりと着ていればと、視線を彷徨わせたものの、見つからない。<BR>
 それは、誰か使用人が服を持って行ったということで、その誰かは僕が父と何をしているのかを知っているということになる。<BR>
 ふらふらと、数歩進んだ僕は、寝室と隣との間のドアにもたれるようにしてうずくまったのだった。<BR>
 おそらく貧血だったのだろうけれど、くらくらと視界が揺れるその奇妙な感覚に襲われていたぼくは、父の嘲笑を隠していない声を耳にしたのだった。<BR>
 父以外の誰かが隣にいる。<BR>
 そうして、その誰かは、ハロルドや父の執事のうちの誰かではない。<BR>
 カーテンのかかったままの窓から外を見ることはできなかったが、ベッドサイドの時計を目を眇めて見れば、まだ夜が明けて間もない時間であるらしかった。ならばどれほども眠ってはいない。父に引きずり込まれたのは、昨夜遅くだった。突然部屋に訪れた父の手にある深紅のリボンを見て、僕がどれほどの絶望に落とし込まれたことか。あれから、信じられないくらい執拗な行為を受け入れさせられ、挙句、気絶したままだったのだろうか。他に記憶はない。<BR>
 ぼんやりと床に腰を落とした僕の耳に、誰かと父のやりとりが聞こえてくる。<BR>
 父が相手をしている声の主は、かなり常識はずれの時間にここを訪ねてきたことになる。<BR>
<BR>
「だから、うちの息子を」<BR>
「何度説明すれば理解できるのでしょうね。あなたと我が家はもはや無関係なのですよ。先代の温情でアルカーデンの土地の一部と子爵位とを与えられていますが、それを条件に縁切りおよびアルカーディの名を利用しないことを約束させられたと書類が残っていると、先ほど説明したばかりなのですが」<BR>
 呆れを隠しもしない。<BR>
「けれど!」<BR>
「けれどもなにもない! なぜ、我が家にはアークレーヌという後継ぎがいるというのに、あなたのところの息子を跡取りになどという愚かしいことを主張できる!」<BR>
 打って変わった父の荒い口調に、全身が震えた。<BR>
「学校すらまともに通えなかったようなアークレーヌでは公爵家の当主など勤まりませんよ! それよりうち家の息子を跡取りにして、うちの娘とアークレーヌを娶せて子爵家を」<BR>
「あの賭け事好きの浪費家を後継ぎにどころか、あの尻軽をアークレーヌに押し付けようと?」<BR>
 あなたの頭は大丈夫なのですか?<BR>
 呆れ果てた声に、<BR>
「娘は尻軽などではないわ!」<BR>
 甲高い叫び声は、どこか力がない。<BR>
「尻軽でなければ、男好きとでも? 何回婚約破棄を繰り返しているか、その理由さえ、私の耳に届いているのですよ。尻軽や男好きどころかもっと悪い噂で。しかも他の令嬢の婚約者を横取りすることを飽きもせずに繰り返すと。ハロルド!」<BR>
「こちらに」<BR>
「読み上げて聞かせようか」<BR>
 悪意さえ隠さないその声音に、<BR>
「なら、後生だから、せめて助けてちょうだい!」<BR>
「なにが、”なら”なのかわかりませんね。なぜ、助けなければ?」<BR>
「叔母の頼みが聞けないというのですか」<BR>
 ため息が聞こえたような気がする。<BR>
「何度言えば理解できるというのか。そちらとこちらの縁は切られているとなぜ理解しようとしないのでしょうね。縁が切られているということは、私とあなたも、叔母と甥の関係ではないということだと」<BR>
「そんな。いいえ。たとえ縁は切られても、我が家だとて公爵領の一部を預かる身。公爵家の次代を心配してどこが悪いのです。だいたいあの脆弱極まりないアークレーヌが公爵家当主など、すぐに傾くに決まってますよ」<BR>
「当主が脆弱ならば、きちんとした補助役をつけさせればすむことでしょう。そのための後進の育成も我が家の家令にはすでにはじめています。そうすれば当主がたとえ凡愚であろうと大丈夫ですからね」<BR>
 僕の背中が、震える。<BR>
 ああ、やはり−−−と。<BR>
 父にとって、僕は、頼りない存在でしかないのだと。<BR>
 凡愚でしかないのだと。<BR>
 抱え込んだ膝頭に片方の頬を当てて、僕は目を瞑った。<BR>
 なぜ、こんなところで、行儀の悪い盗み聞きなどをする羽目に陥っているのだろう−−−と。<BR>
「なにが大丈夫です! あんな気色の悪い子っ」<BR>
と、悪意の滴る女性の声が聞こえたと思えば、何かやわらかなものが打たれる音と、女性の悲鳴とが聞こえた。<BR>
「あなた、女性に手を挙げるなど!」<BR>
「ああ。失礼。けれど息子を侮辱されて怒らないわけがないでしょう」<BR>
「あなただとて、私の子供たちを」<BR>
 震える声に、<BR>
「あなたの子供たちの場合はきちんと裏付け調査をした上での事実ですよ。あなたの息子は賭け事好きの派手好きであちらこちらに借金を作っていますし、決闘騒ぎさえも一度や二度ではないようです。娘の場合は、先ほども説明しましたよねぇ。侮辱には当たりません。しかし、あなたの言葉は、ただ単に、アークレーヌを見た目だけで判断した侮辱にすぎません。ええ。私の最愛の息子、ひいては未来の公爵に対する侮辱以外の何物でもない! 公爵家の子息を見た目で罵っておいて借金の肩代わりなど! しませんよ。するわけがないでしょう。子爵家の残りの土地を売り払って払えば済むことです。それくらいの土地ならまだ残っているはずですよ」<BR>
「待って。待って頂戴。さっきの言葉は謝るから。だからっ」<BR>
「ハロルド、子爵夫人はおかえりだ案内を」<BR>
「子爵夫人。ハーマンがご案内いたします。お帰りはこちらでございます」<BR>
 丁寧なハロルドの口調に、<BR>
「覚えておきなさい、ウィロウ! いずれ、絶対に後悔するに違いありませんよっ」<BR>
 捨て台詞とともに、女性のものとは思えない荒い足音が遠ざかって行く。<BR>
 足音が聞こえなくなると、深いため息が聞こえてきた。<BR>
 父のものと思えないほどのものだった。<BR>
「こちらをどうぞ」<BR>
「バートか。ありがとう」<BR>
 父の従者の声がした。<BR>
「子爵夫人にも困ったものだ」<BR>
「子爵家の土地は既に半分ほど担保に取られておりますが」<BR>
 ハロルドの声が静かに事実を告げる。<BR>
「残りの土地の半分で子息の借金は払えましょうが、そうなりますと子爵家を今まで通りに維持して行くことはできなくなると思われます」<BR>
「あの土地自体はさして重要な土地ではないが、アルカーデンの中ほどに位置する土地が他家の飛び地になるやもしれず、唐突にアルカーデンとは関係のない土地があることになるやもしれず、どちらにせよしのびないか」<BR>
「押さえておくように手配しておきましょう」<BR>
「名を伏せてな」<BR>
 あとは、子爵家がどう出るかだろう。<BR>
 正確な面積は知らないが、子爵家を名乗る一族の領地の四分の一なら親子四人に数名の使用人ていどなら、充分な生活はできるはず。それを、彼らが受け入れられるかどうかという問題だが、それは、父には関係のないことだった。<BR>
 そんなことをとりとめもなく考えていた僕の耳に、複数の足音が聞こえてきた。<BR>
 聞いていたことを知られる。<BR>
 それどころか、父以外の誰かに、見られてしまう。<BR>
 必死に立ち上がろうともがいた僕が一歩を踏み出したその時、タイミング悪くドアが開いた。<BR>
「っ」<BR>
 ドアが背中に当たり、せっかく立ち上がったというのに、その場に、あえなく頽れる。そんな情けない自分に、頭の中が真っ白になった。<BR>
「何をやっている」<BR>
「御曹司」<BR>
 父とハロルドの声が背中にこぼれ落ちる。<BR>
 回り込んできたバートに抱え起こされるようにして、立ち上がる。<BR>
「聞いていたのか」<BR>
 父の言葉に、思い出す。<BR>
 脆弱で凡愚な息子である自分を。<BR>
 差し出された父の手を避けたのは、そのせいだったろう。<BR>
 意識しての行動ではなかった。<BR>
 その時の僕の頭の中にあったのは、自分の情けなさだけで。<BR>
 こんな僕など−−−という、自棄であったろう。<BR>
「なにを拗ねている」<BR>
 けれど、父にはそんな僕の行為が、ただ拗ねているものと映るのか。<BR>
 首を横に振る。<BR>
「しばらく休んでから部屋に戻るといい。そのままでは歩くのもままなるまい」<BR>
 ハロルドも、バートさえもがいるこの場所で。<BR>
 血の気が引いた。<BR>
 知っているのだと。<BR>
 このふたりは当然のごとく知っているのだと。<BR>
 この、本来であれば唾棄するべき、関係を。<BR>
 それは、火事場の馬鹿力(アドレナリンラッシュ)というものだったのだろう。<BR>
 貧血に襲われた上にもとより足取りすらままならない状況だというのに、僕はその場を駆け出したのだ。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
「御曹司」<BR>
 三人の声を背中に僕は父の寝室を駆け抜け、東の領域の廊下に飛び出した。<BR>
 もはや、己の格好など頭にはなかったのだ。<BR>
 父の執務室につながる寝室は、東の領域の二階奥にある。<BR>
 全領域が交差する大廊下に出るまでには、父の後妻の部屋があるということなど、この時の僕は知らなかった。<BR>
 そう。彼女の部屋が荒らされ、とりあえずの処置ということで部屋をこちらに移動しているという情報など、僕は知らなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
たどり着けない本題。
 こんなに二人を絡ますのが難しいとは………。
 67kbを費やして、まだここorz

 怠い。<BR>
 何もする気が起きなかった。<BR>
 自室の居間から窓の外を眺め見る。<BR>
 小糠雨に濡れる庭には、咲き初めようとする花々でうっすらと色づいていた。<BR>
<BR>
 昨日のことだ。<BR>
 ふと思い出す。<BR>
 この城を守るようなガーゴイルの雨樋をスケッチしていた。<BR>
 ファサードのガーゴイルたちは特に大きめに造られているため、細部までスケッチするには最適だった。だから、思い立ったその足で、建物正面まで来ていた。いつもは北の領域の庭から外に出ることが多い僕にしてみれば、それは珍しいことだった。<BR>
 この城が建造された中世の頃のデザインのどこか滑稽な表情の魔物たちが天を見上げて大きな口を開けている。羽のあるものもいれば、尻尾のあるものも。ツノがあるものも。どれもないものもどれもあるものもいる。<BR>
 初めて見るものは驚くかもしれないが、見慣れて仕舞えばどうということもない。もちろんのこと、言うまでもなく、ただの、雨樋にすぎないのだ。<BR>
 天を見上げて口を大きく開いたさまは、まるで己の状況を嘆くかのようで。<BR>
 天から落ちて魔物へと変わった自分を呪うかのようで。<BR>
 まるで自分のようだと、思ったのだ。<BR>
 気づいて、苦く嘲笑う。<BR>
 どこの悲劇のヒロインだ−−−と。<BR>
 滑稽な。<BR>
 ほんとうに滑稽だった。<BR>
 逃げようとすれば、逃げられるのに。<BR>
 逃げないのは、己に自信がないからだ。<BR>
 この、安楽な生活を手放したくないためだ。<BR>
 ぐるぐると自嘲が頭の中を埋めてゆく。<BR>
 己の情けなさに捉われて、鉛筆を動かす手が止まった。<BR>
 ガーゴイルたちのように、空を見上げる。<BR>
 晴れ渡った空が、どこまでもつづく。<BR>
 下界で足掻くのをやめた愚鈍な人間のことなど我知らぬとばかりに、天上の輝かしさを映してどこまでも美しい青が広がる。<BR>
 あまりのまばゆさに地上へと視線を戻し振り返れば、遠くどこまでもつづく丘陵地帯の紫が見えた。<BR>
 荒野にはびこるヒースの花群れ。<BR>
 どこかうっすらと黒みを帯びたように見える、紫の荒野。<BR>
 惹かれるようにして、歩き出す。<BR>
 スケッチブックと鉛筆が地面に転がる。<BR>
「御曹司。どちらへ行かれます」<BR>
 いつものように控えていたヴァレットのうろたえたような声が聞こえたような気がした。けれど、それに返事を返すこともせず、僕は歩を進めた。<BR>
 だけど、どれほども進めなかった。<BR>
「御曹司!」<BR>
 ヴァレットの慌てた声とほぼ同時に、甲高く小さな悲鳴が襲いかかる。<BR>
 背後からのいきなりの衝撃に、バランスを崩した僕はたたらを踏んだ。<BR>
「ご、ごめんなさいっ」<BR>
「いや………」<BR>
 差し出した右手を、<BR>
「いやっ!」<BR>
 勢いよく叩かれた。<BR>
「御曹司っ!」<BR>
「ご、めんなさい」<BR>
 天上の空のような青が僕を見上げていた。<BR>
「かまうな」<BR>
 その瞳の中に見えるおびえの色に、戸惑った。<BR>
 なぜ?<BR>
「義母上?」<BR>
「アークレーヌさまっ」<BR>
 悲鳴のような声だった。<BR>
「近づかないでっ」<BR>
 どうしてこんなに怯えられなければならない?<BR>
 僕が、いったい、何をしたというのだ。<BR>
 これで、彼女と顔を合わせたのは、何回目だろう? ほとんど言葉すら交わしたことがないというのに。<BR>
「ケイティさまっ」<BR>
 遅れて駆け寄ってきた見知らぬ女性が、彼女の肩を庇うように抱きしめた。<BR>
「大丈夫ですか? おからだは? お腹はっ」<BR>
「なんてことをするんですかっ! ケイティさまのお腹には赤ん坊がいらっしゃるんですよっ」<BR>
 睨みつけてくる灰色の瞳が僕を糾弾してくる。<BR>
 誰だろう−−−と思うよりも先に見知らぬ彼女のそのことばに、心臓を思い切り握りつぶされるような衝撃が襲い掛かった。<BR>
 ぐらり−−−と、視界が揺らいだ。<BR>
 鼓動の動きが、血管の収縮が、速度を増してゆく。<BR>
 まだ何かを叫んでいる見知らぬ彼女のことばを把握することは、僕にはできなかった。<BR>
 僕にできることは、背後から僕を支えてくれたヴァレットに体重を預けることだけだったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ウィロウさまはあの日、来てくださらなかった。<BR>
 知らせはハロルドさんから受けたはずなのに。<BR>
 どうしてなのだろう。<BR>
 この頃のウィロウさまは、とてもそっけない。<BR>
 朝食時も、晩餐の時も、アフタヌーンティーの時さえも、お顔を見ることができるのは稀になっていた。<BR>
 お忙しいのだろうか?<BR>
 領地経営は、きっとわたしなどが想像できないくらいに大変なお仕事なのだろう。わたしは詳しくは知らないけれど、ウィロウさまはそれ以外にも他にお仕事をなさっているらしい。<BR>
 南の領域から東の領域の二階に移された部屋で赤ん坊の靴下を編みながら、わたしは溜息を吐いていた。<BR>
「どうなさいました?」<BR>
「いいえ。なんでもないのよ」<BR>
 普通に微笑むことができているだろうか。口角がひきつるような気がしてならない。<BR>
「前の奥さまがお亡くなりになられたのが三年前の今頃なのだそうですよ」<BR>
 何気ないように言うルイゼの事情通さに、目を見開く。<BR>
「前の奥さま………」<BR>
 すっかり忘れていた。<BR>
 わたしは後妻なのだ。<BR>
 そう。<BR>
 アークレーヌさまのお母さま、ウィロウさまの先の奥方さま。<BR>
 離婚などという外分の悪いことを貴族がするはずもない。せいぜいが、別居といったところだろう。だから、後妻を迎える貴族の大多数は、相手を亡くしている場合が多い。<BR>
 当然、ウィロウさまの前妻も、亡くなられている。<BR>
 これまで考えたこともなかった自分が、どれだけウィロウさまとの結婚に浮かれていたのかを物語っていた。<BR>
 どうして亡くなられたのか。<BR>
 さすがにルイゼもそこまでは知らなかった。<BR>
 どんな方だったのだろう。<BR>
 とても今更の疑問だった。<BR>
 もしかして、ウィロウさまは今も、前の奥さまを愛してらっしゃるのだろうか。<BR>
 そうかもしれない。<BR>
 だから、あんな事件が起きたというのに、ハロルドさんに任せっきりにされるのだ。<BR>
 たった一言でいい。<BR>
 やさしいことばをもらうことができれば、この不安は、消すことができる。<BR>
 そう。<BR>
 きっと。<BR>
 わたしは編みかけの靴下をテーブルの上にそっと置いた。<BR>
「ハロルドさん」<BR>
 家令の仕事部屋の扉をノックした。<BR>
「奥さま、何事でしょうか」<BR>
と、ウィロウさまと歳も変わらないだろうハロルドさんが机から顔を上げてわたしを見ていた。<BR>
「ハロルドとお呼びください」<BR>
 とってつけたように言うハロルドに、<BR>
「前の奥さまの肖像画とかありますか? あるのなら見たいのですけど」<BR>
 なるたけ冷静に言ったわたしのことばに、ほんの少しハロルドのメガネの奥の目が大きくなったような錯覚があった。<BR>
「ございますよ。こちらへどうぞ」<BR>
 やりかけの書類をまとめ終わったハロルドが、ソファに座っていたわたしを先導してくれた。<BR>
<BR>
<BR>
 採光に気を使ったその部屋は西の領域のグランドフロアにある絵画専用の部屋で、壁にはおびただしい数の肖像画や家族の肖像画がかけられていた。<BR>
 奥の端にあるのが、初代アルカーデン公爵のものだという。<BR>
 ずらりと下がって、目の前にあるのが、ウィロウさまの幼い頃と若かりし頃の肖像画とご両親と共に描かれた肖像だった。<BR>
 とても凛々しくお美しい。<BR>
 この方が、わたしの旦那さまなのだ。<BR>
 そうして、その隣にある家族の肖像画が、ウィロウさまのご家族の肖像。<BR>
 椅子の背後に立つ十代後半の青年貴族と、椅子に座る初々しい美貌のレディ。<BR>
「この方が………」<BR>
 わたしは惚けたようにその女性を見ていた。<BR>
 それは、とても美しい女性の肖像だった。<BR>
 透けるような白い顔を彩っているのはマホガニー色の艶めく髪。額に嵌ったティアラには真珠の飾りが品よく配置されている。薄い貝殻のような耳。小さめの通った鼻の下に薄幸そうな小さなくちびる。綺麗に弧を描いた細い眉。アーモンドのような双眸。深紅のレースのリボンが巻きつく細い首。くっきりと浮き上がる鎖骨から下を美しく包み込むのは、繊細なレースをふんだんに使ったドレスである。女性的なラインを描く方から腕。手袋に包まれた腕の先では労働とは無縁の細い指が扇を持っている。<BR>
「レイヌ・アルカーディさまでございます」<BR>
「とてもお美しいお方でしたのね」<BR>
 ころがり出たのは、力のない言葉だった。<BR>
 なよやかな、たおやかな、わたしとは正反対の貴族的な容姿。<BR>
 見せつけられた。<BR>
 決して、かなわない。<BR>
 そんな気がした。<BR>
 どんなに気をつけても日に焼けるのを避けるのが困難な故郷の気候。<BR>
 ここに来て少しは白くなったろうけれど、それでもまだそばかすの散る顔はわたしにとってのコンプレックスだった。<BR>
 指を見る。<BR>
 女性にしては、関節の節が目立つ少し不恰好な指。移動には絶対に馬が必要な環境で、御者の真似事は必須だった。乗馬は趣味などではなく、生活と切り離すことができないもので。それに、金鉱掘りや砂金取り、鉱山仕事に従事する荒くれの多い土地柄の上に、ヘビなどの危険な生き物のいる土地柄である。女性だとて護身用のピストルは必須だった。<BR>
 上流階級と呼ばれる生活ではあったけれど、家事も一通りはできる。山火事の炊き出しに参加したこともある。<BR>
 上流階級と呼ばれる層の質があちらとでは違うのだ。<BR>
 優雅にお茶を飲み、することといえばお喋りと刺繍など。<BR>
 もちろん、社交シーズンの忙しさは昨年少しだけ体験してはみたけれど。<BR>
 子供がお腹にできたことで、しばらくは首都に出向くことはできなくなった。おそらく、今年の参加は無理だろう。少し残念だけれど、社交界の本格的な洗礼を受けなければならないことを鑑みれば、猶予ができたことは幸運なことのように思えた。<BR>
 そう。<BR>
 必ず、レイヌさまと比べられる。<BR>
 それは逆らいようのない事実だった。<BR>
「奥さま?」<BR>
 込み上げてくる悲しみがハロルドの前で形になる前に、わたしは急いで踵を返したのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あれが、何を意味していたのか。<BR>
 悪夢の只中にあって、僕はようやく理解した。<BR>
 あれは。<BR>
 あれこそが、僕の本当の母親だったのだ。<BR>
 夢の中で、父は、彼女をこそ”レイヌ”と呼んだではないか。<BR>
 では。<BR>
 あの優しい白い手の主は、父が”レイラ”と読んだ彼女は、僕の本当の母親ではなかったのだ。<BR>
 ゆらゆらと揺れた、青黒い顔。<BR>
 あの顔が、幼い頃の僕を苦しめた。<BR>
 夢に出てきて、僕を睨み付けるのだ。<BR>
 そんな僕に、”レイラ”が、呪(まじな)いをかけた。<BR>
 彼女の首にかけられていた銀のクルスが、ゆらゆらと揺れて、幼い頃の悪夢(リアル)を心の底へと押しやったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ギィギィと耳障りな音に誘われるように、目を見開いた。<BR>
 暗い。<BR>
 ああ、何時だろう。<BR>
 時計のないこの部屋ではわからない。<BR>
 喉が渇いた。<BR>
 寝室に戻らないと。<BR>
 起きあがって、身震いする。<BR>
 寒かったのだ。<BR>
 ぐらりとめまいのするような感覚に襲われて、しばらくその体勢から動けなかった。<BR>
 悪夢のせいだろう。<BR>
 肩で息をするようにして、めまいをやりすごす。<BR>
 その間にも、ギィギィと癇に障る音がする。<BR>
 ギィギィと−−−まるで僕の脳からすべてを取り込もうとするかのように、耳の奥へと入り込んでくる。<BR>
 気持ちが悪い。<BR>
 立ち上がるのは億劫でたまらなかったが、このままここにいては駄目だとなにかが僕を急かしてくる。<BR>
 つるりとながれ落ちる生汗の感触にからだを震わせながら、ようようのことで立ちあがった僕は、息を呑んだ。<BR>
<BR>
 まだ、悪夢の中にるのだろうか?<BR>
<BR>
 ぼんやりした意識のどこかで、猫が鳴いた。<BR>
<BR>
 ギギィと、より大きな音がして。<BR>
 黒く太い紐からぶら下がった女が、僕を見てくちびるに弧を描いて見せた。<BR>
<BR>
「おかぁさま」<BR>
 声に出しただろうか。<BR>
 僕の記憶は、そこで途切れた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「どうして?」<BR>
 目を疑った。<BR>
<BR>
 南の領域に新たに設けた、やがて生まれてくるこどものための部屋だった。<BR>
 わたしの部屋の続き部屋を、ウィロウさまにお願いしてこどものために設え直したのだ。<BR>
『あなたとこどもの領域だから、好きにして構わない。なにか必要なものがあれば遠慮なくハロルドに言うといい』<BR>
 どこか物憂げなようすでウィロウさまはそうおっしゃってくださった。<BR>
 まだ男の子か女の子かもわからないこどものために、やわらかなクリーム色の壁紙を選んだ。温かな春の日差しめい淡い黄色のカーテンも選んだ。少し濃い黄色の糸で細かな花や鳥や蝶の刺繍をしてある可愛らしくて手の込んだものだ。絨毯は毛足の長い濃い目のシナモン色の地色に白い花模様にした。家具は、赤ん坊にはまだ必要ではないだろうから、その代わりにたくさんのクッションを準備した。これで怪我もしにくくなるだろう。この部屋で這い這いをするウィロウさまとわたしのこどもの姿を思い描いて、わたしは胸の奥が暖かくなるのを感じた。<BR>
 その昔流行った宝飾品ほども値段がしたというレースみたいな薄いレースの天蓋付きのベビーベッドも取り寄せた。とても細かなバラと天使をモチーフにしたリネンの白が、艶出しで光るクルミ材のベビーベッドにとてもよく映えた。これは、必要がなくなるまではわたしのベッドの脇に置くことになるだろう。寝心地がいいように、やわらかなコットンの寝具を厳選した。<BR>
 準備をしている間はとても楽しくて心がうきうきと弾んだけれど、ほんの少しだけ小さな魚の骨のような不満があった。<BR>
 どうして、ウィロウさまは一緒に選んでくださらないのだろう。<BR>
 ふたりのこどものものをふたりで選ぶのは、とても大切で楽しいことのはずなのに。<BR>
 首都までは遠すぎて、カタログを複数取り寄せた。<BR>
 それを一緒に見るのは、ウィロウさまではなく、ルイゼなのだ。<BR>
 もちろん彼女に不満があるわけではないけれど、ウィロウさまと一緒に見て、こどものことやその他他愛のないおしゃべりをしたいという思いがあるのが事実だった。<BR>
 たとえばこれと思うものがあって、ウィロウさまにご相談したい、お見せしたい、感想を聞きたいと思っても、ハロルド止まりで終わるのだ。<BR>
 こどもの産着に関しても、なにもかも。<BR>
「ルイゼ。ウィロウさまはこどもには関心がないのかしら」<BR>
 そう言ってみた。<BR>
 もちろん、ルイゼは未婚だから、こういう相談はお門違いなのだろうけど、訊ねずにはいられなかったのだ。<BR>
「ケイティさま。ご安心ください。以前母が姉を諭していたのを小耳に挟んだことがあるのですけれど、男親というものは、赤ん坊をその目にするまでは自分の子という認識を持てないものだそうですわ」<BR>
 思いもよらない返答に、わたしは目を大きく開いただろう。<BR>
「そういうものなの?」<BR>
「だそうですよ。なんでも、女性は自分の内にこどもを実感できますけど、男親は目で見て触るまではやっぱり、こう、自覚しにくいのですって」<BR>
 ですからね。<BR>
 こどものことは、女性同士の方が忌憚なくお話できていいですよ。<BR>
「そうなの?」<BR>
「はい」<BR>
 にっこりと笑うルイゼに、<BR>
「じゃあ、この布とこの布のどちらの産着がいいかしら」<BR>
 カタログについていた小さな布の切れ端を二枚差し出したのだ。<BR>
<BR>
 そういて、いくばくかの不満はあったものの、着々とこどもを迎える準備が整って行った。<BR>
 そうして、今日。<BR>
「どうして?」<BR>
 まだ目立つことのないお腹を撫でながら小部屋の扉を開けたわたしは、そんなうめきとも知れない声をあげていた。<BR>
 悲鳴なんででなかった。<BR>
 足から力が抜けて行くのがわかった。<BR>
 ドアの端っこを手で擦るように、わたしはその場に蹲った。<BR>
 顔を覆う。<BR>
 だって。<BR>
 なぜなら。<BR>
「誰が………」<BR>
 生まれてくる子のために誂えた部屋の中が、これ以上ないというほどに荒らされていたからだ。<BR>
 壁紙もカーテンもクッションさえもがズタズタだった。<BR>
 クッションの詰め物があちこちに撒き散らされ、絨毯にはインクが染み込んでいる。<BR>
 いたずらなんかじゃない。<BR>
 唯一裂かれていなかった一番心地良さそうな大きいクションに突き立てられた裁ちばさみが、それを示唆しているような気がした。<BR>
 あまりにも明確すぎる害意。<BR>
 それを感じた。<BR>
 誰かが、この子の誕生を喜んでいない。<BR>
「………アークレーヌさま?」<BR>
 不意に脳裏をよぎったのは、あの白い容姿だった。<BR>
 ウィロウさまに嫁いで二月近く、会話という会話もない、義理の息子。<BR>
 顔すら数えるほどしか見たことのない、三つ年下の、アークレーヌ・アルカーディ。<BR>
 彼なら?<BR>
 首を横に振る。<BR>
 わたしにこどもができたとしても、彼が次期公爵であるという事実は変わらない。<BR>
 ”御曹司”と呼ばれるのは、彼だけなのだ。<BR>
 それに、彼がここにどうやって忍び込むというのだ。<BR>
 ここは、わたしがメインに使っている部屋の奥の端なのだから。<BR>
 わたしや召使の目を盗んでここにくるのは、難しいのに違いない。<BR>
 けれど。<BR>
 なら。<BR>
 いったい誰が?<BR>
「きゃあっ」<BR>
 つん裂くような悲鳴にわたしの思考は断ち切られた。<BR>
 いつの間にかルイゼがわたしの近くで、悲鳴をあげていた。<BR>
「奥さま。これは?」<BR>
「ひどい」<BR>
「なんてこと」<BR>
 たちまち召使たちが駆けつけてくる。<BR>
 最後にウィロウさまとハロルドとが駆けつけてくると、その只中で、ルイゼはくたくたと気絶したのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「危のうございます」<BR>
 ヴァレットが差し出してくる手を思わず払いのけた。<BR>
「すまない」<BR>
 気まずいままに謝罪が口をつく。<BR>
 本来なら使用人に対して口にすることではないのだが、最近の僕は、いつにも増しておかしいのだ。<BR>
 自覚はあった。<BR>
「差し出がましいことをいたしました」<BR>
 先導でソファに腰を下ろした。<BR>
 僕のからだが、僕のものであって僕のものではない。そんな、変な感触に捉われてどれくらいになるだろう。<BR>
 足にまとわりついてくる猫を膝に抱き上げる。<BR>
 あの日。<BR>
 どうしようもないほど己の情けなさに震えたあの日。<BR>
 実の母親の記憶を取り戻したあの日。<BR>
 育ての母をそうと認識したあの日。<BR>
 目が覚めると父に抱きしめられていた、あの朝。<BR>
 あれからだろうか。<BR>
 いつも以上にぼんやりしている。<BR>
 今カップを持っている手は確かに僕のものだという感覚はある。しかし、手から伝わるそのすべらかな感触が、何か薄い膜を一枚隔てたもののように感じられるのだ。<BR>
 そう。<BR>
 全てが全てにおいて、そんな、一枚の膜ごしに見て、聞いて、しゃべっている、感じている、そういう不快感を伴っていた。<BR>
 怠い。<BR>
 何もする気が起きなかった。<BR>
 
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 日差しの差し込む南の領域のテラスで、わたしたちは午後のお茶を楽しんでいた。<BR>
 コンパニオンであるルイゼがテーブルの反対側に座っている。わたしよりも少し年上の、可愛らしい女性だった。<BR>
 嫁いでから半月が過ぎようとしていた。わたしの毎日は、ウィロウさまを中心にして回っていた。朝起きてから寝るまで。寝てからも、かもしれない。毎日、スケジュール通りの行動をとられるウィロウさまなので、それは決して難しいことではなかった。それは、時折、イレギュラーなことも起こりはするけれど、基本、決まった時間に決まったことをして過ごされるウィロウさまだった。それは、以前も今もこれからも、変わることはないのだと思われた。ウィロウさまにとってはそこに、おそらくは、わたしとの生活が加わっただけなのだろう。朝食の時、アフタヌーンティーの時、晩餐の時、わたしがウィロウさまのお顔を見ることができるのは、早朝と夜遅くを除くとそれくらいだったけれど。それに、それにこれまで、最初の夜を除いて、わたしはほぼ毎夜、ウィロウさまと夜を共に過ごしていた。<BR>
「ウィロウさまは今日は遅いのね」<BR>
 いつもなら顔を覗きに来てくださる頃合いなのに。<BR>
 暗にそうほのめかせば、<BR>
「お寂しいのですか?」<BR>
 ルイゼが小首を傾げる。<BR>
 微笑ましいと言いたげな彩りがルイゼの小さめなくちびるをかすめた。<BR>
「そういうわけじゃないけど………」<BR>
 ケーキスタンドの上のフェアリーケーキをひとつ取り上げる。イチゴジャムの入った、バタフライケーキだった。<BR>
 お行儀が悪いけれど、紙をはがして、そのまま頬張る。そんなわたしを、ルイゼが目を丸くしてみていた。<BR>
「ウィロウさまには内緒、ね」<BR>
 ルイゼは皿に取り分けて、フォークで四分の一に切って口に運ぶ。ただでさえ小さなカップケーキが名前の通り、まるで妖精が食べるケーキのように見えた。<BR>
「旦那さまは、御子息さまのお部屋にいらっしゃるのでは?」<BR>
「どうして?」<BR>
 ふと思い出したというように、ルイゼが口にした。<BR>
「たしか、今朝から体調を崩されていらっしゃられるとか聞き及んでおりますよ」<BR>
 白−−−が脳裏をよぎった。<BR>
 義理の息子になったアークレーヌさまのあの独特な容姿を思い出す。まだ未完成の初々しさを持つ、線の細い少年。長い前髪が表情を判りづらく見せていて、かろうじてあの印象的な赤いくちびるが頑なな心情を湛えているように見えた。<BR>
 アルカーディに嫁いで半月、”御子息さま”、”御曹司”と呼ばれるアークレーヌさまとお話ししたのは最初の夜のほんのすこしだけだった。それ以来、顔をあわせることもなく過ごしてきた。館が広いこともあって不思議なことではないのだろうけど、ルイゼが言うには貴族というのはこういうものだそうだけれど、故意に避けられてるのじゃないかと勘ぐってしまう。<BR>
 あの少年が、体調を崩している。<BR>
「大丈夫なの?」<BR>
 最初の夜も、体調が悪いと晩餐の席を早々に立っていた。あの時の、本当にお辛そうだった青白い頬を思い出す。<BR>
「お小さい頃からおからだがお弱いと聞いておりますし。あと、お見舞いの必要はございませんと伺っております」<BR>
 そういえば、からだが弱いと聞いたような。<BR>
「誰から?」<BR>
「ハロルドさんからですわ」<BR>
 それにしても、<BR>
「十六の男の子をそこまで心配する?」<BR>
 少し、ほんの少し、これはやきもちなのかも知れなかった。けれど、義父は、兄たちが幼い時に体調を崩したくらいではさほど心配をしたようすを見せたことはなかったのだ。<BR>
「………跡取りですもの。ご心配でしょう」<BR>
 そっと、わたしを気遣うふうを見せながら、ルイゼが小さくささやいた。<BR>
「………」<BR>
 跡取り。<BR>
 考えたことはなかったけれど、そうなのだ。<BR>
 彼が、次のアルカーデン公爵さまなのだ。<BR>
 わたしにこどもができたとしても、この家を継ぐことはできない。<BR>
 それが少しだけ、本当にちょっとだけ、気になった。<BR>
 紅茶に手を伸ばした。<BR>
 冷めて渋みの際立つ味は、どこかわたしの感情に似ている、そんな他愛のないことを考えた。<BR>
<BR>
 その日の夜からしばらく、ウィロウさまと夜を過ごすことはなかった。<BR>
<BR>
 そうしてウィロウさまに嫁いで一月が経とうというころになって、わたしは、わたしの妊娠を知ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「大丈夫でございますか」<BR>
 従うヴァレットが口にする耳に馴染んでしまったことばを素通りさせながら、僕は館に戻った。<BR>
 −−−大丈夫だと言っては嘘になる。<BR>
 −−−大丈夫じゃないと言って、どうなるというのか。<BR>
 僕はどうせ一生ここから出ることはないだろう。<BR>
 戦う前から負けている負け犬なのだという自覚は痛いくらいにある。<BR>
 父に心底から逆らうことができずにいる自分を、僕は知っている。いつしか苦痛の中から肉の悦びを拾い上げてしまうようになったこの身の浅ましさを自覚せずにはいられなかった。<BR>
 狂ってしまった父。<BR>
 その狂気が、母の死ゆえだと。<BR>
 その悲しみを分かち合う親子が、肉欲をも分かち合うその狂ったありさまに、絶望を覚えながら逃れることさえもしないでいるのだ。<BR>
 泣きわめき拒絶を口にしながら、一歩を踏み出さない。<BR>
 逃げない−−−と。<BR>
 そんな僕を知っているからこそ、父は、僕を自由にさせているのだ。<BR>
 今更、僕が貴族以外の暮らしができるわけもない。<BR>
 それくらい、僕だとてわかっている。<BR>
 貴族としての諸々を全て剥ぎ取ってしまった僕は、ただの能無しにすぎないのだ。<BR>
 絵はあくまで趣味にすぎない。<BR>
 もはや満足に弾くことのできないピアノだとて、以前ですら趣味の範囲でなら褒められるていどの腕だったろう。<BR>
 頭もさして良くはない。<BR>
 身体能力など、推して知るべしでしかない。<BR>
 こんな僕が家を出て、何ができるというのか。<BR>
 以前ほど恐怖心を覚えなくなったとはいえ、未だ時折覚えるひとに対する恐怖を抱えたままで。<BR>
 これでは、貴族としてさえ生きて行くことはできないだろう。<BR>
 こんな僕のどこが”大丈夫”だというのか。<BR>
 もはや、”大丈夫”ということばを口にすることすら億劫になっていた。<BR>
「おかえりなさいませ」<BR>
 ハロルドのことばに、<BR>
「しばらく休む。誰も通すな」<BR>
 どうせ父には反故にされるとわかっている命令をしていつもの寝室に戻るつもりだった。<BR>
 しかし、僕の足はその部屋の前を通り過ぎた。<BR>
 通り過ぎて、ずっと奥、突き当りにある隠し階段を上る。そのまま五階のあの小部屋に僕は入っていた。<BR>
 緑色の別珍に複雑な模様を織りだしたベッドカバーを剥ぐ。猫はいない。まだ戸外をうろついているのだろう。<BR>
 むしり取るようにスカーフを抜き取り、ジャケットを脱ぎ捨てた。<BR>
 靴を脱ぐのに少し時間はかかったがそのままベッドに入り、布団を頭からかぶった。<BR>
 まだ風が冷たかったせいだ。<BR>
 全身の震えをそう言い訳する。<BR>
 己の無能さに叫びだしたくなったわけでは、決してない。<BR>
 己の無能さに、泣きたくなったわけではない。<BR>
 感情の澱が心の底にどろどろといやらしい渦を巻く。<BR>
 それに震えながら眠った僕は、悪夢を見た。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「近寄らないでっ!」<BR>
 頬で爆ぜた熱に僕はびっくりして、泣こうとした。<BR>
 けれど、そんなこと意味はなかった。<BR>
「お前などっ! お前などいらないっ!」<BR>
 僕の頬を打った畳まれた扇が、僕の頭と言わず首と言わず背中と言わず、ありとあらゆる箇所を打ち据えたからだ。<BR>
 痛くて、熱くて、悲しくて、寂しくて、ただ床にうずくまっていた。その脇腹さえ、先の尖った靴で蹴られて、僕はひっくり返ったカエルのように天井を向いて転がった。その腹の上に、細いヒールが押し当てられる。<BR>
 ヒッヒッと、声にならない引きつった泣き声を無様にこぼしながら、僕は涙に霞んだ視界に映るそのひとを見上げていた。<BR>
 そのひとが誰か、僕は知っていた。<BR>
「おかぁさま」<BR>
 声にして呼べば、止めてくれるのではないかと思った。<BR>
 けれど、<BR>
「ヒッ!」<BR>
 伸ばした手でつやつやしたドレスの裾を握りしめたけれど、<BR>
「さわらないでっ」<BR>
 足は外されたけれど、そのひとも僕に背を向けて何処かに行ってしまわれた。<BR>
 僕の手の中に、ドレスの裾に縫い付けられていた同色のレースの切れ端だけが残っていた。<BR>
 しばらく、僕はそのままの体勢で引きつった泣き声をあげていた。<BR>
 やがて、ドアが開き、軽い足音が響いた。<BR>
「ああ。アークレーヌ」<BR>
 先ほどどこかに行ってしまわれたおかあさまが別のドレスに着替えられて戻ってこられ、僕を抱きしめてくださった。<BR>
「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたは悪くないの。少しも。決して。愛しているわ」<BR>
 抱きしめてくださって、頬ずりをしてくださった。やさしく涙を拭いてくださった。<BR>
「おかぁさま」<BR>
「ええ。ええ。お母様ですよ。アークレーヌ。わたくしの可愛い子」<BR>
 頭を撫でてくださって、<BR>
「さあ、お着替えをしましょうね。その前に、傷の手当てをしてしまわなければ。痛かったわね。ごめんなさい。辛かったわね」<BR>
 ぽろぽろとおかあさまがながされる涙が、僕の頬を濡らした。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ギィギィと軋る音が耳障りだった。<BR>
 目を開けてみれば、ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光の中に、なにか黒いものが揺れていた。<BR>
「おかぁさま?」<BR>
 喉が痛かった。<BR>
 ああ。<BR>
 思い出す。<BR>
 おかあさまが僕の首を絞めたのだ。<BR>
 泣きながら、笑いながら、僕の首を絞めた。<BR>
 だから、僕は苦しくて、そのまま死ぬのだと思った。<BR>
 怖かったけれど、おかあさまの様子のほうがその何倍も恐ろしくてどうすればいいのかわからなくて、そのまま意識を手放したのだ。<BR>
 おかあさまは、僕に死ねと仰るのだ。<BR>
 どうしてお前が生きているのと、仰る。<BR>
 憎いと、仰られる。<BR>
 お前などいらないと叫ばれる。<BR>
 そうして、いつもいつもどこかに行ってしまう。行ってしまって戻って来る。そうして、いつもいつも、泣きながら謝るのだ。<BR>
 ごめんなさいと。<BR>
 愛していると。<BR>
 あなたが悪いのじゃないと。<BR>
 だから、僕は、わからないのだ。<BR>
 ここにいていいのか悪いのか。<BR>
 生きていていいのか悪いのか。<BR>
 何もかもがわからない。<BR>
 だから、わからなくて、おかあさまのすることに抵抗することができなくなった。<BR>
 おかあさまが死ねと仰られるのなら、死ぬしかないのだと。<BR>
 悪いと言われるのなら、僕が悪いのだと。<BR>
 暗い暗い意識の底で、僕は、このまま死んだほうがいいのだろうと、思った。<BR>
 けれど、僕は死んではいなかった。<BR>
 生きている。<BR>
 死んでいない僕は、おかあさまに怒られる。<BR>
 おかあさまが泣いてしまわれる。<BR>
 けれど、あの苦しさをもう一度味わいたいとは思わなかった。<BR>
 喉が痛い。<BR>
 見上げた視線の先、黒い梁から下がったロープの先で、おかあさまが揺れている。<BR>
 揺れるたびに、いろいろな色が、おかあさまを飾る。<BR>
 埃の舞う、暗い部屋の中、ステンドグラス越しの日差しだけが、揺れるおかあさまを彩っていた。<BR>
「おかあさま?」<BR>
 いつも綺麗にお化粧をされているおかあさまとは思えない奇妙なお顔をなさって、おかあさまが僕を見下ろしていらっしゃる。<BR>
「にらめっこ?」<BR>
 おずおずと、僕も変な顔をしておかあさまを見上げたけれど、おかあさまは笑ってくださらない。<BR>
 そんなに変な顔ではなかったろうかと、口を大きく開いたり、目を左右に指で引っ張って細くしたり、鼻を押し上げてみたり、いろいろしてみたけれど。<BR>
 少しも反応を返してくださらないおかあさまに、僕がどうしようもない寂しさを覚えた頃、<BR>
「こんなところにいたのか、レイヌ。アークレーヌ」<BR>
 心配そうな声が聞こえてきた。<BR>
「おとうさま………」<BR>
 僕が言い終えるかどうかという時、<BR>
「レイヌっ!」<BR>
 大きな音を立てて、おとうさまが部屋に入ってきた。<BR>
「アークレーヌ、見てはならないっ! ハロルド手伝え。レイラ嬢、アークレーヌを部屋の外にっ」<BR>
 幾つもの小さな悲鳴は、名を呼ばれることのない召使たちのものだった。<BR>
 けれど、そんなことはどうでもいいことだった。<BR>
 僕は、ただ、びっくりしていたのだ。<BR>
 父の大きな声にもだけど、それよりも、<BR>
「おかあさまが………ふたり」<BR>
 僕の目を白いやわらかな掌で覆い隠した”レイラ嬢”と呼ばれた女性は、おかあさまだったからだ。<BR>
「アークレーヌ。さあ、部屋を出ましょうね」<BR>
 そのまま僕の肩を抱いて、おかあさまと一緒に部屋を出る。<BR>
 けれど、僕は、呆然としていた。<BR>
 にらめっこをして揺れていたおかあさまと、僕と一緒にいるおかあさま。<BR>
 僕には、ふたりのおかあさまは、まるっきり同じ顔だった。<BR>
 こちらのおかあさまの手を振り切って振り返ってみても、もう揺れていたおかあさまを見ることはできなかった。<BR>
「おかあさま?」<BR>
「後でね。みんなの邪魔になるから、お部屋に戻りましょう」<BR>
 いつもよりも強く手を握られた瞬間、<BR>
「やっ」<BR>
 思わず振り払っていた。<BR>
 全身が震えた。鳥肌が立つような恐怖と嫌悪とに襲われたのだ。<BR>
「アークレーヌ?」<BR>
 目の前にしゃがみこんで、おかあさまが僕を見る。<BR>
 悲しそうに、辛そうに、苦しそうに。<BR>
 僕の首に、おかあさまの細い手が伸びてくる。<BR>
 僕は、首を横に振る。<BR>
 ぽろり−−−と、涙がこぼれ落ちた。<BR>
「痛かったわね。怖かったわね。でも、大丈夫よ。大丈夫」<BR>
 僕を抱きしめて、耳元で、
「痛いことをするひとは、もういない」<BR>
 小さくささやいた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 そんなわけで2回目です。この後はまだできてません。
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 脛を何かが擦る感触で我に返った。<BR>
 見下ろせば、黒い和毛(にこげ)に包まれた見慣れた姿が尾をピンと伸ばして僕にからだをこすりつけていた。<BR>
「おまえ………」<BR>
 名前のない黒い猫を脇に手を差し入れて抱き上げる。別段嫌がるでもなくぶら下がるように力を抜いてされるがままの猫を膝に抱えた。<BR>
 毛氈に腰を下ろす。<BR>
 イーゼルに立てかけた画布の中では、目の前で威容を誇る緑に染まりつつある大地の只中の環状列石柱(ドルメン)が黒白のコントラストを見せている。それぞれの列柱の隙間に、今も古のドルイドたちの姿を垣間見ることがあるかのような、古い遺跡だった。古く、アルカーディの先祖はドルイドだという伝説もあったが、その真偽を確かめる術はない。しかし、代々のアルカーディの女性たちは、なにかと神秘的な物事に傾倒しがちな面があった。真実、母もまた神秘に惹かれるひとりであった。母の髪を縛っていた赤いリボンの先についた燻し銀のドルイドベルの高く澄んだ音色が、ふと耳の奥に蘇る。<BR>
 昨夜の今朝で、倦怠感は抜けないが、部屋にいるのも苦痛だった。<BR>
 食欲などもとよりありはしなかった。それでもと、執事の用意したバスケットが毛氈の上に置かれている。バスケットの横にはミルクと果汁まで準備されている。<BR>
「ああ。匂いに惹かれたか?」<BR>
 バスケットを開けようとすれば、背後で黙したままだったヴァレットが先に動く。<BR>
「ミルクを注いでやってくれ」<BR>
 ミルクを小さな皿に注いで、猫を近くに下ろしてやる。<BR>
「御曹司もなにかお召し上がりになられませんと」<BR>
 いらないと言いたかったが、あまりに心配そうな視線に、<BR>
「オレンジジュースを」<BR>
 肩をすくめた。<BR>
 差し出されるグラスを受け取り、口をつける。<BR>
 甘酸っぱい果汁が喉の渇きを癒してゆく。渇いていたのだなとそこで初めて自覚した。<BR>
<BR>
 絵を描くことは、学校で覚えた。<BR>
 その時間だけが、僕にとっては穏やかなひと時だった。<BR>
 まだ健在だった母が僕を手放したがらなくて、学校生活を過ごしたのは中等部の一年からで結局一年に足りないほどだったけれど、思い出したくもない。<BR>
<BR>
 公爵子息ということであからさまないじめなどは受けなかったが、それでも上級生からの何がしかの嫌がらせが毎日のようにあった。<BR>
 寮生活という世間から隔絶された毎日にあって、常識というものが少しばかりいびつになっていたのだろうか。<BR>
 ささやかな、それでいて執拗な嫌がらせの数々は上級生である第三王子が中心になって行われたものだった。名前は、ウインストンだったろうか? 不敬だろうが、少しあやふやではある。ともあれ、第三王子である上に上級生であったから、逆らうことは難しかった。なにしろ学生である間は身分の上下は関係ないとの建前があっても、上級生の命令は絶対というのが暗黙のルールであるためだ。もちろん、度を過ぎた理不尽な命令であれば拒絶も許されたが、まだ未熟な年齢の集まりであるため、稀に洒落にならない事件となることもあるらしかった。<BR>
 幼年から寮生活を送っていれば、慣れることもできたろう。しかし、十三の歳までからだの弱かった母と共に領地で暮らしていた僕にとって、初めての他人ばかりとの生活は苦痛でしかなかったのだ。溶け込むことが難しく、馴染むことが辛かった。<BR>
 だから、僕は、周囲から浮いてはいただろう。<BR>
 馴染もうと努力はしたのだ。しかし、あまり無理をすると始まる頭痛を堪えることが辛くてならなかった。だから、自覚はなかったものの、いつしか一歩周囲から引いてしまっていたらしい。<BR>
 そんな僕の楽しみといえば、初めて覚えた絵画のスケッチと、母に聞かせていたピアノくらいなものだった。<BR>
 原因ははっきりとしないが、部屋割りか、寮弟制度か、監督生とのやりとりか。来賓の前でピアノを披露する役目を僕が担うことになったことだったのか。それとも、あの非日常な空間にあって蔓延していた同性同士のやりとりが原因だったのか。<BR>
 それらすべてが複雑に絡まりあった末に起きたことなのかもしれない。<BR>
 その事件で、僕の左手の力は無くなってしまった。<BR>
 ピアノを楽しむことができなくなってしまったのだ。<BR>
<BR>
 寮に備えつけのグランドピアノは年代物だった。滅多に誰かが弾いていることはなかったが皆無というわけでもなく、翌日に迫った発表に少しでも指を慣らせておきたかった僕は監督生に許可を得て独占していた。<BR>
 曲目は、「ピアノのための瞑想曲」のつもりだった。百年以上昔の詩人の詩をイメージして作曲されたという、静かな印象の曲である。そのため、来賓たちの好みを考えてもう少し派手なのにすればいいのにと提案をされもしたが、僕はこれを翻すつもりはなかった。<BR>
<BR>
 集中していた僕は、いつしか上級生達に囲まれていたのに気付くのが遅くなった。<BR>
 気づかない僕に焦れて、暗譜済みではあったがもしもの予防に立てかけていた楽譜を落とされて、手が止まった。<BR>
「熱心だな」<BR>
 嘲笑うように言われて、右手の主旋律が小指の動きを違えた。<BR>
 ウィンストンとその取り巻きの上級生たちだった。<BR>
 その時は、はっきりと覚えているとは言い難かったが記憶にある少年がひとり加わっていた。<BR>
「あなたは、たしか………」<BR>
 『もう少し派手なのにすればいいのに』と言ってきたのが彼だったような。ネクタイの色を見れば、上級生らしい。憎らしげにこちらを睨めつけてくる茶色の瞳が、可愛らしい顔には不似合いだった。<BR>
 もともとこれが仕上げのつもりで弾き終われば部屋に引き上げるつもりだったこともあって、邪魔されたなと、それだけを残念に感じていた。<BR>
 だから、どこかまだ完全に音の宇宙からこちら側へと戻りきっていなかったのにちがいない。<BR>
 そんな僕が気に入らなかったのだろう。<BR>
「やってよ」<BR>
 可愛らしい上級生が短く叫んだ。<BR>
 ピアノの蓋に手をかけたのを見て、なんとなく嫌な予感に襲われ手を引いていた。<BR>
 それが良かったのだ。わずかなタイムラグののちに大きな音を立てて蓋が閉められる。<BR>
 顔をしかめた僕が立ち上がるのに先んじて無理やり立ち上がらせ、羽交い締めにしてくる。<BR>
「いつも鈍そうにしてるのに、こんな時だけなんで素早いんだよ! 弾けなくなればいいのにっ」<BR>
 可愛らしい顔の上級生が僕の近くに盛大にしかめた顔を寄せる。<BR>
 いつの間にか手にしていた楽譜をわざとらしく大きな音を立てて破く。<BR>
「え?」<BR>
 そうなって、初めて、僕は声を出していた。<BR>
「いつだって僕が弾いてたんだよっ」<BR>
 頬を力任せに叩かれた。<BR>
「なぁに、関係ありませんって顔してんだよ」<BR>
 ジンジンと熱い痛みを感じながら、それなのにまだ僕はどこか非現実の中にいるような錯覚から抜け出しきるには至っていなかった。<BR>
「いっつもお高く止まってんだよなぁ下級生の分際で」<BR>
「いっくら公爵令息ったってさぁ」<BR>
「そのキレーな顔、泣かせてやりたいんだよなぁ」<BR>
 いつの間にか取り出されていたナイフが頬に当たる冷たい感触に、目が見開かれてゆく。<BR>
「そうそう。いっつもそうやって感情を出していれば少しは可愛いものを」<BR>
 底意地の悪そうな笑いのにじんだ声で、遅まきに湧き上がってきた恐怖を煽ってくる。<BR>
「アイスドールってかぁ」<BR>
「はなせっ」<BR>
 ジャケットの下、下着でもある白いカッターシャツがよく研がれたナイフで切り裂かれる。その手際の良さに、背筋が震えた。<BR>
 当時の僕には、何が起きているのかなど、全くわからなかった。<BR>
 なぜ、突然服を破かれるのか。皮膚が外気に晒されて、鳥肌が立つ。<BR>
 奇妙な空白の時に、加害者達が息を飲み生唾を飲み込む音だけがやけに大きく耳に届いた。<BR>
 向けられる視線に込められた熱が怖くて、気持ち悪くてどうしようもなかった。<BR>
 居合わせた誰も助けてくれなかった。<BR>
 そうだろう。<BR>
 相手は第三王子であるウィンストンと、その取り巻きなのだ。<BR>
 しかも、彼らは寮の最上級生。<BR>
 あの時あの場所に居合わせたものたちで、彼らに立ち向かえるものはいなかったに違いない。<BR>
「へぇ………顔だけじゃないんだ」<BR>
 ウィンストンが、僕の胸にぺたりと湿った掌をくっつけてくる。<BR>
 全身が震える。<BR>
 僕の肌理を確かめるように撫でさすりながら少しずつ下がって行く掌が、やがて金属音を立てた。<BR>
「やめろっ」<BR>
 いつの間に溜まっていたのか、涙が下まぶたからこぼれ落ちる。<BR>
 吐き気がこみ上げる。<BR>
 ガンガンと脳が直に殴られるように、視界がぶれる。<BR>
 なぜこんなことをされるのか、こんなことになんの意味があるのか、当時の僕には本当にわからなかった。<BR>
 入浴の手伝いをする執事やヴァレットならともかく、建前上とはいえ同等の立場にある彼らになぜ裸を見られ、触られなければならないのか。<BR>
 ズボンを引き抜こうとしてくる手に抗う。足をよじるようにして、力を込める。しかし、相手は複数なのだ。ナイフすら手にするものもいる。どうして敵うだろう。ナイフをズボンの前合わせに沿わせて、<BR>
「抵抗するなら、このまま切るぞ」<BR>
 そう言われて、恐怖にすくみ上がらずにはいられない。<BR>
「力を抜け」<BR>
 少し離れて、ウィンストンと可愛らしい顔をした上級生とが僕を見る。<BR>
 舐めずるような、獲物をいたぶる悪魔のような、悪辣な表情をして、楽しげに。<BR>
 僕は力を抜くことさえできず、首を左右に振る。<BR>
 力を抜けばどうなるか。<BR>
 ズボンを奪われれば、シャツの上部はすでに切り裂かれてその態をなしてはいない。そんな情けない姿を人前に晒したいわけがない。ナイフの存在をまざまざと感じながら、僕はただ足に力を入れていた。<BR>
 誰かから緊急の知らせを受けた監督生が駆けつけて来た時、僕は、動くに動けなかった幾人もの寮生たちの中で、見世物のような哀れな格好を強いられていたのだ。<BR>
 その屈辱。<BR>
 その恐怖。<BR>
 その悔しさ。<BR>
 怒り。<BR>
 羞恥。<BR>
 様々な感情のごった煮の只中にぶち込まれて僕は必死でもがいていた。<BR>
 これ以上どんな屈辱があるのか当時の僕は知らなかったが、それでも、何か良からぬことに襲われるということだけはうっすらと予感していたからだ。<BR>
 監督生の声が逆に彼らを煽った感があった。<BR>
<BR>
 今も僕の左の手の甲から掌にかけて醜く残る傷跡は、あの折り僕に向けられた害意の最終的な形だった。<BR>
<BR>
「やめないか!」<BR>
 短く鋭い声に、学校で一目置かれる監督生を認め、青くなったのは、可愛らしい上級生だった。<BR>
「名誉ある×××寮の一員たちが何をしている」<BR>
 続けられた声は、一転淡々としていた。<BR>
「今すぐ愚行をやめないか」<BR>
 溜息をつきながらナイフを取り上げようと近づいてくる。<BR>
 それに弾かれて、<BR>
「くるなっ」<BR>
 叫んだのは、ナイフを手にした者だったのだろう。同時に、ナイフが前合わせから離れる。<BR>
「また、君か」<BR>
 何度目だ。<BR>
「うるさい!」<BR>
 振り払うようにナイフを握っている手が動く。<BR>
 痛みが、僕の頬に走る。<BR>
 かすかな呻きに、少しばかりにじんだ血に、一瞬時が止まったかに思えた。<BR>
 しかし。<BR>
 野次馬と化したものたちが悲鳴を上げた。<BR>
 それが、次の動きを決めた。<BR>
 第三王子は、いつの魔にか傍観者の位置に移動している。そうなれば、取り巻きだということを周知されているとはいえ、実行犯は他ならない彼らなのだ。おそらく、第三王子という立場からウィンストンは、見逃されるだろうことが想像に易かった。そうなれば、アルカーディの権力は実行犯よりもはるかに勝る。学校内での戯れごととみなされる程度の虐めならば問題視されなくても、そこに血が流されたという事実が加われば、実行犯たちの家は潰されるかもしれない。彼等の廃嫡という処置で済めば御の字もいいところなのだから。<BR>
 そこまでを理解するほどの余裕がなかったのか。<BR>
<BR>
 ふりかぶられたナイフは、僕の心臓を狙っていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 目が覚めた時、そこはすでに、学校ではなかった。<BR>
 病院でもなく、馴染み深いマナハウスの自室だった。<BR>
 薄暗い部屋の中、誰か、ひとのシルエットが際立つ闇となって見えた。<BR>
「誰」<BR>
 声はしわがれ小さなものだったが、シルエットはそれに弾かれたように動いた。<BR>
「父上」<BR>
 やさしく額に触れてきたその掌の感触に、泣きたくなった。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 かすれ気味の穏やかな声が、僕の名を呼ぶ。<BR>
「………なにが」<BR>
 記憶はおぼろで、ただ疑問ばかりが大きかった。<BR>
 抵抗しようとかろうじて拘束を解き突き出した左手を貫いたため、ナイフは心臓まで届かずに済んだのだそうだ。<BR>
 けれど、僕の左手は、もう自由にピアノを奏でることができなくなってしまった。<BR>
 実行犯たちのその後も、その家がどうなったかも、僕は知らない。第三王子もあの可愛らしい上級生もどうでもいい。<BR>
 理由も何もかも、知りたくもなかった。<BR>
 声も出せずにただ涙を流す僕に、<BR>
「全て忘れてしまうといい」<BR>
 父は僕の内心を知っているかのように何度もそう囁いた。<BR>
 何度も、何度も、僕が再び眠るまで、父は僕の頭を撫で、囁き続けたのだ。<BR>
<BR>
 父は静かに、ただ穏やかにそこにいた。<BR>
 母の死の折りのあの嘆きを、心の奥深くに沈めて。<BR>
 向けられる父の視線の意味を、深く考えることなどありはしなかった。<BR>
 父は、父であり、それ以外ではなかった。<BR>
 それ以外になるはずがない。<BR>
 なっていいわけがなないのだから。<BR>
<BR>
 怪我も治り、父の雇った家庭教師(チューター)が僕の勉強を見るようになって、ふと僕は気付いた。<BR>
 他人の視線というのが、恐ろしくてならないということに。<BR>
 最初は、勉強をしたくないという怠け癖が家庭教師と共にいることを嫌悪させているのだと思っていた。<BR>
 しかし。<BR>
 やがて、過呼吸の発作となって、それが現れだした。<BR>
 家庭教師は僕をいじめはしないのに。<BR>
 彼が時々手にする定規の動きに、黒板を指す短い鞭の動きに、心臓が跳ねるような恐怖を覚えるようになった。<BR>
 それは日々大きくなっていった。<BR>
 見られているだけなのに、からだが震えるようになった。<BR>
 相手の、目が怖かった。<BR>
 なにを思って見てくるのか、ごく普通のその感覚が、怖くてしかたがなかった。<BR>
 けれど。そんなことを知られたくなくて、僕は必死に我慢した。<BR>
 それが悪かったのか。<BR>
 いつしか、”誰”ということもなく、不特定のその辺にいる”誰か”の視線というだけで、震えるようになっていた。<BR>
 自然、部屋に閉じこもるようになった。<BR>
 父はそんな僕を諌めることはなかった。<BR>
 それをいいことに、ただ漫然と、僕は日々を過ごすようになったのだ。<BR>
 時々、部屋にあるピアノに触れて、左手が満足に動かないことを思い知らされた。けれど、生活するだけなら、なんら問題はない。右手で主旋律を弾くくらいならできるのだから。それに合わせて、あらかじめコードの幅と形とに左手を開いて軽く鍵盤に置いて上下させる。手をコードの幅に合わせて変えることには苦痛だが伴ったが、小さな音を奏でるくらいはできた。<BR>
 弱々しい音色に自嘲に口角が引きつったが、気を紛らわせるには充分だった。<BR>
 不意に、突然、胸に刺さったナイフの鋭さを、心臓には届くことなく済んだそれを幻のような痛みとして思い出して息が止まりそうになることがあったが。<BR>
 概ね平凡な日々だった。<BR>
<BR>
 グラスハウスの中は、冬とは思えないくらいの湿度と暖かさに満ちていた。<BR>
 弱い日差しが、グラス越しに緑に降り注ぐ。<BR>
 ひとのことばを真似ることができる鮮やかな鳥が止まり木でしきりに首を振り立てていた。<BR>
 それをスケッチしていた僕は、ふと背後から落ちてきた影に振り返った。<BR>
「先生………」<BR>
 家庭教師だった。<BR>
 かけたメガネを直しながら、僕を見下ろしてくる。<BR>
 その視線はなんということもないものだったのに、背筋が不快に震えた。<BR>
「アークレーヌさま。今日は調子が良さそうですね」<BR>
 空いた手に持っているのは数冊の教本のようだ。<BR>
 こうして行き合ったときに僕の調子が良さそうなら、授業が開始される。<BR>
 このところグラスハウスがお気に入りになっていた僕を見つけるのは容易かっただろう。<BR>
「こちらよろしいですか」<BR>
 尋ねてくるのにうなづいて返すと、備え付けられているソファに腰をおろす。<BR>
 テーブルの上に教本を広げるのを見て、僕は小さく肩をすくめた。<BR>
 集中できたのは三十分ほどだったろうか。<BR>
 教本に指を添えての家庭教師の声が、ふいに途切れた。<BR>
「先生?」<BR>
 眼鏡越しの視線が、教本から逸れて僕の背後に向けられていた。<BR>
 それの先に、<BR>
「父上?」<BR>
 グラスハウスと北の区画とを隔てる扉近くに、父が佇んでいた。<BR>
 僕の声に、促されたかのように歩き出す。<BR>
 家庭教師が、椅子から立ち上がる。<BR>
 僕は惚けたようになって父をただ見ていた。なぜなら、父の雰囲気が、いつもと違って見えたからだ。<BR>
 姦しい叫びをあげて、極彩色の鳥が止まり木から飛び立った。<BR>
「出て行け」<BR>
と。<BR>
 いつもの父の穏やかさが消えた口調で、家庭教師に命じる。<BR>
 その雰囲気に、ぎこちなく一礼して彼が足早に出て行く。<BR>
「父上?」<BR>
 不思議にかすれる声で、目の前で僕を見下ろす父に呼びかける。<BR>
 高く澄んだ音色が、父の手元から聞こえてきた。<BR>
 懐かしい。<BR>
 母のリボンの先にあった、ドルイドベルの音色だった。<BR>
 目の前に掲げられた赤いリボンの先にで、燻し銀の丸くささやかなベルがぶら下がり揺れている。僕の意識を奪うその高く澄んだ音色が、だんだん大きく膨らんでゆくような錯覚があった。大きく、まるで僕を包み込むかのように。<BR>
「手を出しなさい」<BR>
 父の声が、なんらかの膜を一枚隔てたような不明瞭なものになる。<BR>
 けれど、言葉の意味はわかった。<BR>
 まるで操られるかのように、僕は、手を差し出していた。<BR>
 かすかな衣擦れの音を立てて、赤いリボンが僕の両手首に絡まる。<BR>
 父の手が器用に動き、僕の手を縛める。<BR>
 しかし。<BR>
 その時の僕は、すでにおかしくなっていたのだろう。<BR>
 それを不思議と感じなかった。<BR>
 しゃらしゃらと鳴り続けるドルイドベルの音色が、まるで亡くなった母の声のように僕の耳の奥でささやきつづける。<BR>
<BR>
 アークレーヌ、可愛らしいわたくしたちの−−−と。<BR>
<BR>
「アークレーヌ。お前は私たちのものだ」<BR>
 直接に僕に囁いてくる父の言葉と重なり合って、ふたりぶんのことばが僕を呪縛してゆく。<BR>
<BR>
 この時、僕には何もまだ分かってはいなかった。<BR>
 ふたりによる呪縛の意味が。<BR>
 まだ十五に手の届いていなかった僕にとって、外の世界を学び取ることができなかった僕にとって、迫ってくる父の顔を、押し当てられるくちびるの生々しさを、それらの持つ意味は最初わからなかった。それを理解することができたのは、すべてのことが終わってからだった。<BR>
<BR>
「お前は、レイヌが私に残してくれた唯一だ」<BR>
と。<BR>
「私がレイヌ以外に抱いてもいいのは、レイヌの血を受け継ぐお前だけなのだ」<BR>
と。<BR>
 狂人のささやきを睦言に、僕の下肢が開かれる。<BR>
 父の充溢したものが、僕の下肢を押し開きあらぬ箇所へと分け入ってくる。<BR>
 灼熱をはらんだ凶悪なまでの質量に、その場が引き裂かれてゆく。<BR>
 からだの奥が割かれてゆく忌まわしい音が、脳までもを犯す。<BR>
 その頃になってようやく僕の手首を結びつけていたリボンは解け、同時に、痺れたように何も考えられなくなっていた脳が動きだす。<BR>
 そうして、理解する。<BR>
 これが、禁忌であるのだと。<BR>
 実の父親に、同性である父親に、こうして犯されている己の存在は、決して許されるものではないのだと。<BR>
 その事実が、僕に絶叫を上げさせる。<BR>
 心を捩らせるようにして振り絞りほとばしり出た叫びが、泣(・)き声が、どれほど大きなものだったか。<BR>
 救いを求める声が、どれほどまでに悲痛なものであったのか。<BR>
 そんな大声が誰にも聞かれずに済むはずはない。<BR>
 けれど、誰も、助けに来ることはなかった。<BR>
 やがて悲鳴も叫びも貪られる獲物の喘鳴へと変化を遂げて、父の律動に揺さぶられその刺激に声帯からまろび出るただの嬌声めいたものになりはてる。<BR>
 そうして。<BR>
 何度目になるのかわからない理性をなくした父の行為の果てに、僕の意識は焼ききれるようにして途切れたのだった。<BR>
<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 穏やかな父の声が、聞こえた。<BR>
 髪の毛を梳いてくる掌の感触が、心地よかった。<BR>
 しかし。<BR>
 頬に、額に、父のくちびるの熱が触れた瞬間、<BR>
「いやだっ!」<BR>
 掠れた声で拒絶を叫ぶ。<BR>
 思い出したのだ。<BR>
 何が起きたのか。<BR>
 涙でかすみ、泣き腫れた重い瞼の向こう、木々の隙間から見えるのはグラスハウスの天井以外のなにものでもなく。僕は父に抱き潰されたのと同じ場所で、抱きしめられているのだ。<BR>
 汗や精液にまみれたからだは重怠く、ひとの重さと熱量とが、嫌悪ばかりを訴えかけてくる。<BR>
 疼痛を覚えるその箇所が、禁忌を犯した証だった。<BR>
 男である僕が、血のつながる父に犯された、逃れようのない、罪の証だった。<BR>
 どうして−−−と。<BR>
 まともな声にならない声で、糾弾するも、<BR>
「お前はレイヌが私に遺した唯一のものだ」<BR>
と、獣のような色を宿した瞳が見下ろしてくる。<BR>
 おやこなのに−−−と。<BR>
「それがどうした」<BR>
と。<BR>
「お前はわたしたちのもの」<BR>
と。<BR>
 静かに狂ったまなざしが、僕を凝視する。<BR>
「私たちの愛の証に他ならない」<BR>
と。<BR>
 涙が、こみ上げる。
 鼻の奥がきな臭くなり、目頭が絶望の熱を孕んだ。<BR>
 溢れ流れ落ちた涙にくちびるを寄せてくる狂った男を、押しのけようとして、叶うことはなかった。<BR>
<BR>
<BR>
 その時から、僕の髪は色を失い、老人のような白へと変わってしまったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
 こんな感じですかね。
 びみょうにウィロウの行動が唐突な気がしてならないんですが。あまりおとーさまには触れないようにしようと思ってるんですよね。おとーさまおかーさまははっきりいって、鬼門、もしくは、地雷です。
 あ、レィヌって、フランス語で女王なんですが、偶然です。偶然。
<BR>
<BR>
<BR>
 その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。<BR>
 そんな鋭い音を聞いたような気がした。<BR>
 とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。外からではいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕からは、彼女のようすをつぶさに観察することができた。<BR>
 そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。<BR>
 こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。<BR>
 そんな自分が嫌でしかたなかったが。<BR>
 重厚な内装のせいもあり照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。<BR>
 ずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、女性が”彼”にエスコートされて入ってくる。<BR>
 それを、主階段の踊り場の手すりにもたれて見下ろしていた。<BR>
 やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、<BR>
「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」<BR>
 満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。<BR>
 嫌悪からではない。<BR>
 恐怖からだった。<BR>
 彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。<BR>
「アークレーヌ、挨拶を」<BR>
 ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、<BR>
「はじめまして、義母上」<BR>
 口を開いた。<BR>
 差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。<BR>
 そうして、僕は自分の領域に戻った。<BR>
 いいや。<BR>
 逃げ込んだのだ。<BR>
 古い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるもの達に印象付けるものだった。<BR>
 僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。<BR>
 たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下や階段は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。<BR>
 五階の奥が、僕が唯一力を抜くことができる部屋だった。<BR>
 荒い息をこらえることもせず扉を開け、勢いを殺すことなくベッドにそのまま突っ伏す。<BR>
 丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。<BR>
「悪い」<BR>
 顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めてゴロゴロと喉鳴りをこぼす。<BR>
 他の部屋と比していささか手狭な八角形の部屋は、いくつもある尖塔の中でも小さな尖塔のすぐ下の階にあたるためである。<BR>
 高い位置にある鋭角的なドーム状にくりぬかれた窓に嵌められたステンドグラス越しの青や赤の光が、ベッド以外なにもないこの部屋を彩る。<BR>
 建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見える。<BR>
 態勢を変え、胎児のように丸くなる。<BR>
 壁に付けて据えてあるベッドは、幼い頃から僕の唯一の逃げ場所だった。<BR>
 ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、その頃からここにいた。<BR>
 何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。<BR>
 ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。<BR>
 大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。<BR>
 来年が来れば十七になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。<BR>
「頭が痛い………」<BR>
 脈動と同じリズムを刻む痛みが、次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。<BR>
 吐き気がする。<BR>
 ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。<BR>
 僕よりも幾つか年上だろうか。<BR>
 頬を染めた、初々しい花嫁。<BR>
 新大陸から来た富豪の令嬢だったと記憶している。<BR>
 ”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。<BR>
 名は………。<BR>
「何といったか」<BR>
 つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。<BR>
 ありふれた名前だったような気がする。<BR>
 まぁいい。<BR>
 義理の母を名前で呼ぶこともない。<BR>
 僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、中央の塔の領域に僕はいた。<BR>
 長いテーブルの一角についていた。<BR>
 カトラリーがかすかな音を立てる。<BR>
 いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。<BR>
 牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。<BR>
 原因は、義理の母となる女性の軽やかなさえずりだった。<BR>
 彼女のことばに、父が短く答える。その繰り返しが、空虚さを際立たせているかのように感じた。<BR>
 頭痛は治まっていた。<BR>
 軽い吐き気はあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。<BR>
 このせいではないが、僕はまともに学校生活を送ることができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。<BR>
 情けない。<BR>
「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」<BR>
 女性の愛らしい声。<BR>
 気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。<BR>
 かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。<BR>
「だいじょうぶです」<BR>
 応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。<BR>
 何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、メインディッシュを切り分ける途中だったカトラリーを動かす。<BR>
 湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間ぼんやりとしていたことを思い知る。<BR>
 小さく切ったそれを一口。<BR>
 散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。<BR>
 ともあれ、これでサリチル酸(柳から分離。アスピリンの前身。胃腸障害が出やすいらしい)を飲むことができる。<BR>
<BR>
 晩餐をどうにかやり過ごし、自分の領分に戻ろうと席を立とうとした耳に、<BR>
「後で話がある」<BR>
 父の声が聞こえてきた。<BR>
 全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。<BR>
 ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、<BR>
「わかりました」<BR>
 答えるのが精一杯だった。<BR>
<BR>
「ご入浴の準備は整えてございます」<BR>
 家令が僕の部屋で待ち構えていた。<BR>
 三階にある僕の部屋だった。<BR>
 そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。<BR>
「そんなこと、僕の執事か近侍(ヴァレット)の誰かに任せておけばいいだろう」<BR>
 家令(ハウス・スチュワード)の仕事ではない。<BR>
「ご主人様のご命令です」<BR>
「そうか」<BR>
 ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。<BR>
 身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。<BR>
 溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。<BR>
<BR>
 なぜ。<BR>
<BR>
 入浴後にバスローブをまとっただけで暖炉の前のソファに座った僕の背後に立つ家令が髪を拭ってくる。<BR>
 青ざめた自分の顔が暖炉の上の鏡の奥から見返してくる。<BR>
 血の気のない紙のような顔。それを彩るのは老人めいて艶のない白糸のような色のリボンを解かれて流れ落ちる長い髪。<BR>
 切りたくないと伸ばしっぱなしの長い前髪の奥に隠れた覇気のない虚ろな目はアルカーディ一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。<BR>
 高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。<BR>
 その実、少しも意志が強くはないというのに。<BR>
 ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。<BR>
 叫び出したい。<BR>
 泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。<BR>
 できもしないくせに。<BR>
 それなのに。<BR>
「ご主人様からはこちらをと」<BR>
 梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された深紅のリボンを見た途端、心臓が痛いくらいに縮んだような錯覚に襲われる。<BR>
「御曹司?」<BR>
 少しばかりうろたえたような家令の語調に、口角が皮肉に持ち上がった気がした。<BR>
 僕の意識は朦朧となってゆく。<BR>
 くらりと目まいがする。<BR>
 いつものとは違う深紅のリボンは、僕の心を縛る。<BR>
 それは呪いだった。<BR>
 亡き母が望み、父が実行する、呪いだった。<BR>
 両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 アルカーデン公爵家のマナハウスに着いたのは、植民地を発って二月が過ぎようとするまだ寒さの残る春先のことだった。<BR>
 わたし、ケイティ・マクブライトがウィロウ・アルカーディさまの後妻になることが決まって半年になろうとしていた。<BR>
 宝石の鉱山を多数持つ大富豪マクブライト家の娘とはいえ末子であるわたしが、まさか旧大陸の公爵、金銭的に困窮しているわけでもない、そんな相手の妻になることができるなどと、考えたことはなかった。<BR>
 十九になろうという私が後妻とはいえ、正妻なのだ。<BR>
 マクブライトの娘ではあれ父親と血の繋がってはいない後妻の連れ子であるわたしには、信じられないほどの幸運だった。<BR>
 実際、年の近い姉にはかなり妬まれた。<BR>
 去年、本場の社交界を経験しておくようにと云われ旧大陸に旅行に出かけた際、招待された夜会で偶然出会った魅力的な男性。それが、アルカーデン公爵ウィロウ・アルカーディさまだった。<BR>
 古くは王家の血を引く、まぎれもない青い血を連綿と今に伝える公爵。<BR>
 お歳はわたしよりも二十近くも上だけれど、どこか物憂げな雰囲気をたたえた青白く高貴なお顔に、はしたないけれど一目で憧れた。<BR>
 綺麗に整えられた艶めく黒髪が一筋その秀麗な額に落ちかかる。そのさまさえもが匂い立つようで、親しくなった令嬢たちと同じくわたしの視線も、彼から離れることはなかった。その物思わしげな夜の空のような濃紺の眼差しに映されてみたいなどと、夢物語を思い描かずにはいられなかった。<BR>
 物知りな令嬢が、あれがアルカーデン公爵であると得意げに説明してくれるまで、夢物語は続いた。<BR>
 公爵さまと聞いて、砕け散ったけれど。<BR>
 ただの富裕層の娘と、高貴な血を受け継ぐ公爵さまとでは、逆立ちしても、ロマンスなど生まれるはずがない。<BR>
 夢物語は夢物語なのだ。<BR>
<BR>
 それが婚約などとなったのは、何度かの偶然の巡り合わせのおかげだった。<BR>
<BR>
 植民地に戻った後に、なんと、公爵さまから突然の打診が父のもとに届けられたのだそうで、聞かされたわたしはあまりのことに気を失ってしまったほどだった。<BR>
 思慮深げで穏やかそうな、そんなウィロウさまの元に嫁ぐ日を、わたしはゆびおり数えて待ちわびる日々を楽しんだ。<BR>
<BR>
 そうして、もうじき、それが現実となるのだ。<BR>
 一月半にもわたる船旅を無事に終え、港に迎えに来ていた馬車に乗り半月。<BR>
 屋敷に着いた時点で、わたしはウィロウさまの妻となる。<BR>
 披露宴も式もないことが残念で仕方なかったけれど、後妻なのだから仕方ないのかもしれない。シーズンと呼ばれる社交期がくれば王都の夜会で紹介されることになるだろう。<BR>
 馬車が荘園館(マナハウス)の門扉をくぐると、そこに広がるのは鬱蒼として薄暗い森だった。<BR>
 どこまでも続くと思えた馬車道の果てに、アルカーディ家のマナハウスが現れたのを見た瞬間、わたしは冷水を浴びせかけられたような心地を味わった。<BR>
「ミスルトゥ館と申しますよ」<BR>
 話し相手として共に旅をしてきたコンパニオンがそっと教えてくれた。<BR>
 けれど、その威容は、決して館などではない。<BR>
 それは、城だった。<BR>
 それも、異形の。<BR>
 空にそびえる灰色の城には、壁一面に口を大きく開いて天を呪うかのようなガーゴイルの群れが取り付いていたのだ。<BR>
 古めかしい飴色に黒い錬鉄の鋲や横木の渡った両開きの木の扉が内側から開かれる。軋む音がしないのが不思議だった。扉の奥に現れた闇を見て、わたしは帰りたいととっさに思った。<BR>
 あれほど嫁ぐ日を心待ちにしていたというのに。<BR>
 お会いできる日を指折り数えていたというのに。<BR>
 ウィロウさまは迎えに出てきてくださらない。<BR>
 公爵家の遠い血筋に当たるという港からここまでの旅程に付き添ってくれたシャペロンにどうぞと手で促されて、馬車を降りたわたしはひとりでマナハウスの扉に向かわなければならなかった。<BR>
 開かれた扉をくぐると、ずらりと並ぶお仕着せの使用人たち。百人以上いるのではないだろうか。<BR>
「おかえりなさいませ、奥様」<BR>
 思いもよらないことばで声さえも揃えて歓迎され、奥から現れたウィロウさまに、ようやくわたしの心細さは押しやられた。<BR>
「レディ・アルカーディ」<BR>
 穏やかな声で、いささか他人行儀に呼ばれて、少しがっかりしたけれど。<BR>
 けれど、ここはわたしがこれまで暮らしてきた植民地ではないのだと、気を取り直す。<BR> 
 ここは因習深い、旧大陸なのだから。<BR>
 手を取られて、甲にくちづけられる。<BR>
 それだけで、陶然となった。<BR>
「今日からここがあなたの家になる。ゆっくりとでいいので馴染んでいってほしい」<BR>
 そう言いながら、わたしの肩に手を回した。その瞬間にほのかに立ちのぼったウッディな香水の匂いに、ああ、ウィロウさまのところに嫁いだのだわと、感動に心臓が震えた。<BR>
「こちらへ」<BR>
 照明を灯してなおも薄暗いホールを主階段へと促された。<BR>
 そうして、わたしは、その少年に気づいたのだ。<BR>
 少年というには少し大人びて見えたが、今年二十歳になるわたしよりは、年下に見受けられた。<BR>
 階段の踊り場に立つそのひとの印象は、白だった。<BR>
 引き結ばれたくちびるの朱はけざやかに目を惹いたけれど、それでも、白だった。<BR>
 立ち止まったわたしの視線の先を確認したウィロウさまが、<BR>
「………アークレーヌ。息子だ」<BR>
と、教えてくださった。<BR>
 息子がいるということは知っていた。<BR>
 けれど、その相手がわたしと幾ばくも歳が変わらないということを、わたしは愚かにも深く考えてはいなかった。<BR>
 それでも。<BR>
 彼は、わたしの義理とはいえ息子になるのだ。<BR>
「ああ。あなたが」<BR>
「アークレーヌ。挨拶を」<BR>
 階段を降りてきた少年、アークレーヌに手を差し出す。<BR>
 しかし彼は、<BR>
「はじめまして。義母上」<BR>
 わたしの手をとることもなく、そういうと頭を下げて、引き返していったのだ。<BR>
 あまりといえば、あまりの態度に、わたしはあっけにとられていたのだろう。<BR>
「しかたのない。照れているのだろう」<BR>
 ウィロウさまの言葉に我に返ったわたしは、<BR>
「これからあなたが生活をする領域に案内しよう。あなたは南の塔のある区域で暮らすことになる。ハロルド」<BR>
「はい。ご主人様」<BR>
「彼はこの館の家令だ。名をハロルド。ハロルド、レディを部屋へ案内してくれ」<BR>
「では、晩餐までからだをやすめてくれ」<BR>
 わたしは物足りなさを感じながらも、ウィロウさまの指示に従った。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「レィヌ」<BR>
 熱をはらんだ声が、耳を犯してくる。<BR>
 レィヌと呼ばれることで、己が誰の代わりを果たしているのかを自覚させられた。<BR>
 耳腔をなぶられ、耳朶を食まれ、背筋に戦慄が走る。<BR>
 刹那冷えた汗に寒いと思った。しかし、すぐさま消え去る。<BR>
 目の端に深紅のリボンが見えた。<BR>
 解けたそれが呪縛は解けたと、問わず語りに伝えてくる。<BR>
 しかし、それがどうだというのだろう。<BR>
 この身はすでに相手の腕の中なのだ。<BR>
 この身はすでに熱に侵されている。<BR>
 深く密着したからだが、己の欲が目覚めていることを相手に伝える。<BR>
 喉の奥で小さく笑われて、全身が羞恥で焼けつくような熱を感じた。<BR>
 それだけで。<BR>
 たったそれだけのことで、疾うに慣らされきっているからだは容易いほどに。<BR>
 からだはこれから起きるだろうことに期待を隠さない。<BR>
 隠すことができない。<BR>
 その羞恥。<BR>
 その屈辱。<BR>
 その背徳感。<BR>
 ふるふると小刻みに震える全身に、嫌悪が湧き上がる。<BR>
 呪いの小道具が解けた今、全ては唾棄したいものでしかなかったからだ。<BR>
 目をきつくつむり、眉根を寄せる。<BR>
 くちびるをかみしめた途端、<BR>
「傷がつく」<BR>
 軽く、戒めるかのように頬を張られた。<BR>
 痛くはないが、衝撃に我に返った。<BR>
 そのせいで、己の有様をより生々しく思い知らされる。<BR>
 何をしているのだと。<BR>
 まざまざと、理解してしまう。<BR>
 己を見下ろしてくる端正な顔が、恐ろしくてならなかった。<BR>
「レィヌ」<BR>
 甘くとろけるような囁きに、その深い色のまなざしに、狂気を感じて、絶望を覚える。<BR>
「どうしてっ」<BR>
 熱を煽ろうと弱い箇所をまさぐってくる手に、悲鳴のような声が出た。<BR>
「なにがだ」<BR>
「………………………義母上がっ」<BR>
 そんなことを問いたいのではなかったが、己の真に問い詰めたい疑問に対する答えはわかりきっていた。返されてくる答えは、いつも決まっているのだから。<BR>
 追い詰められた脳が、問いをどうにか形にするのに、少し、かなり、時間が必要だったけれど。<BR>
「ああ。あれは、うるさいものどもを黙らせるために必要だったのだ」<BR>
 面倒臭い。<BR>
 呟く声に苛立ちが潜み、手の動きがやわらかなものから激しいものへと変わる。<BR>
「柵(しがらみ)は少なければ少ないほうがいい。だからこその選択だ」<BR>
 後添いをとうるさい声を黙らせるには、新たな妻を迎える必要があったのだろう。しかし、新たな妻には新たな親族がついてくる。貴族の出であれば旧弊な諸々が”彼”を煩わせるだけでしかなく。ならばと遠隔の植民地の富豪の娘、しかも、血の繋がらない後妻の連れ子を選んだのだと、淡々と告げてくる。<BR>
 しかし、その内心は苛立ちが募っているのだろう。<BR>
「お前以外を抱く気はないというのに。アークレーヌ」<BR>
 獰猛なうなり声のような言葉に、前身が恐怖にすくみあがった。<BR>
 まさぐってくる手は、激しさを増すいっぽうだった。<BR>
 自由になっていた両手に気づいて、怠いそれでできるだけ声を潜めるべく口を覆う。<BR>
 くちびるを噛んでしまえばまた頬を張られるだろう。痛みはなくても、性感を昂められた今そんなことをされては、たまらない。<BR>
 なのに。<BR>
「声を抑えるな」<BR>
 無情な声に、首を左右に振った。<BR>
 髪がシーツにあたり、いつの間にかながれていた涙が、シーツを濡らす。<BR>
 嫌だというのに。<BR>
 嬌声よりも拒絶の声をこそ噛んでいる事実を、おそらく”彼”は知っている。<BR>
 ほどけたリボンが、この夜にかけられた呪いが解けたことを現しているのだから。<BR>
「おまえの、真の声を聞きたい」<BR>
 無理やり外された手がシーツに縫いとめられる。<BR>
 おそらくは執拗な蹂躙を受けただろうそこは”彼”を拒絶することはできず、当てられた切っ先に僕の意思を無視した喜びをあらわにする。<BR>
 そうなると、出るのは、ただ、<BR>
「いやだっ」<BR>
 堪えきることができない拒絶だけだった。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
 目を細めた”彼”、父の表情が、遠い東洋の不気味な面めいて僕を見下ろしていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「ウィロウさま」<BR>
 椅子から立ち上がる。<BR>
「おはようケイティ」<BR>
 物憂げな表情はそのままに、わたしの手をとり、くちづけてくる。<BR>
 声を弾ませてしまって、少し、はしたなかったかしらと反省する。<BR>
「おはようございます」<BR>
「よく眠れたかな」<BR>
 椅子に座り直し、くちをつけていた果実水の入ったグラスを手に取った。<BR>
「はい。とても」<BR>
 マナハウス内にあるグラスハウスで採れるという南国の果実の果汁はとても甘酸っぱくて美味しかった。<BR>
 朝専用のダイニングの昨夜のとは違う小ぶりのテーブルの対面に座ったウィロウさまの前に、朝食が運ばれてくる。<BR>
 メニューは黄色の鮮やかなオムレツとマッシュルームとベーコン、サラダ。あとはよく焼かれた薄切りトーストが数枚。ミルクと果実水というたっぷりとしたものだ。<BR>
 コーヒーか紅茶を嗜むのは食後らしい。<BR>
 朝は慌ただしくコーヒーしか口にしなかった義父や義兄しか知らなかったわたしには、朝食をゆっくりと召し上がられるウィロウさまの姿はとても新鮮なものと映った。<BR>
「今日は、この館を案内しよう」<BR>
 目が合ったと思えば、しばらく何か考えたあと、ウィロウさまが仰ってくださった。<BR>
「嬉しいです」<BR>
 ゆっくりと、ウィロウさまは歩いてくださる。<BR>
 そんなウィロウさまにわたしは遅れないようについて行く。<BR>
 どうして手をつないでくださらないのだろうと疑問に思いはしたものの、家の中だからかもしれない。<BR>
 昨日は何かと慌ただしくて、南の塔の領域と呼ばれているらしい公爵夫人のエリアも自室以外は見ることはなかったのだ。なんとはなく夫婦の寝室は隣り合ってるというイメージがあったので、館ひとつぶんはゆうにありそうな部分が全部自分だけのものだという説明に、びっくりせざるを得なかった。上から下まで、南の部分の端から端まで、全部自分の好きに使っていいというのだから。ちなみに、受けた説明では、ウィロウさまのプライベートは東側の領域全て。アークレーヌさまの領域は北側全てなのだそうだ。中央から西側は、パブリックスペースになるらしい。<BR>
「じゃ、では、もし子どもが生まれたりしたら、どこになるのでしょう」<BR>
 何気ない疑問だった。<BR>
 少し恥ずかしかったけれど、結婚したのだから、いずれ子どもができることもあるだろうと。<BR>
 そんなわたしの言葉に、ウィロウさまの足がぴたりと止まった。<BR>
 見下ろしてくる濃紺の瞳に、背筋が粟立つような心地を覚えた。<BR>
 すぐさまに消えた、恐怖にも似た何かを、わたしは錯覚だと打ち消す。<BR>
 クスリと、口角に笑いをたたえ、<BR>
「もし、あなたに子ができたなら、あなたの領域で育てましょう」<BR>
 あなたにとってはその方が望ましいでしょう?<BR>
 そうおっしゃってくださった。<BR>
「ええ! はい。もちろんです」<BR>
 その優しいトーンの声に、わたしは先ほどの恐ろしさを忘れてしまったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
 そうして、その日一日は、わたしにとってとても幸せな一日になった。<BR>
 そう。<BR>
 夜もウィロウさまと共に過ごすことができて、わたしは天にも昇る心地だったのだ。<BR>


***** 本文が長いと注意が出たので、一旦切り。
泣きながら笑い狂った。<BR>
 俺の狂った心に呼応して、世界は少しずつ壊れていった。<BR>
 きっと、俺が死ぬ時には、世界も滅びてしまうのだろう。<BR>
 狂った心の片隅で、冷ややかに理解していた。<BR>  
 滅びればいい。<BR>
 苦しめばいい。<BR>
 叫べ。<BR>
 泣け。<BR>
 死んでしまえ。<BR>
 この世界に俺を引きずり込んだ三本目の触手が何だったのか、俺は理解していた。<BR>
 この世界そのものだったのだと。<BR>
<BR>
 そうやって、どれくらいの時が流れたのだろう。<BR>
 俺は黒々とした雲に覆われた空を見上げていた。<BR>
 心はいまだ癒えることはない。<BR>
 怒りに身を任せるばかりで、自分の身に起きたことなど忘れていた。<BR>
 俺の本性は憤怒なのだと、そう考えることもなく沸き上がる激情のままに世界を震わせていた。<BR>
 そんなある時。<BR>
 不意に誰かに呼ばれたような気がした。<BR>
 鼓膜が震えたわけではない。<BR>
 言ってしまえば、心が震えた。<BR>
 ひとの声だと思えば、ゾッと怖気に震えた。<BR>
 忘れたはずのひとの王の仕打ちが頭をよぎったのだ。<BR>
 ひとは嫌いだ。<BR>
 うるさい! 呼ぶな! と、意識せずに、叫んでいた。<BR>
 それでも、低い声は、繰り返し俺を呼んだ。<BR>
 しつこい!<BR>
 俺の怒号に、風が吹き荒れた。<BR>
 おなじ声が悲鳴を上げる。<BR>
 まだいるのかと、投げた視線の先に、雷が落ちた。<BR>
 ひときわ大きな悲鳴が上がる。<BR>
 為損じたか。<BR>
 ひたと凝視したそこに、俺は薄汚れた男を見つけた。<BR>
 白い麻で作ったようなさっくりとした衣類を纏った男は、腰を抜かしたさまで放心している。<BR>
 ひとなど死ねばいい。<BR>
 俺は、次こそ為損じまいと、指を男に突きつけた。<BR>
 けれど、それは適わずに終わった。<BR>
 腰を抜かしていたとは思えないスピードで起き上がった男は、そのまま俺に這い寄り足に縋りついたのだ。<BR>
「トールさま」と。<BR>
 男が、知るはずのない俺の名を口にしたのだ。<BR>
「誰だ」<BR>
 俺は男を見下ろした。<BR>
 じっとりとした熱が、俺の足首を握る男の掌から伝わってくる。<BR>
 それに全身が逆毛立つ。<BR>
 蹴り放したかったが、なぜか、できなかった。<BR>
 不快を感じながら、どうしても、できなかったのだ。<BR>
「お前は、誰だ」<BR>
 ゆっくりと、俺は、尋ねた。<BR>
「サージと申します」<BR>
 俺の女性器がひとの王によって焼き潰されたあの時、彼は立ち会っていた王たちの中にいた。<BR>
 サージはあの時、未だ歳若い、十代半ばの、発言権のない王だった。<BR>
「三十年の昔、力のないこの身はあなたを救うことができる力を持たず、どれほど謝ろうと今更遅すぎるとわかっております。」<BR>
 そのことばに、あの刹那甲高い制止の声を聞いたような気がしたのを思い出した。<BR>
「それでも、幾度でも、謝罪をいたします。トールさまのお心が凪ぐまで、幾度でも」<BR>
 静かにゆっくりと俺の足から手を放し、地面に額を押し付けた。<BR>
 俺は既視感を覚えた。<BR>
 これとおなじことを何度かくり返していないだろうか。<BR>
 その時々に俺の足下で額づいていたのは、今よりも若くより若いサージではなかったか。<BR>
「三十年…………か」<BR>
 そんなにも、俺は荒れ狂っていたのか。<BR>
 そんなにも長い間。<BR>
 しかし、まだ足りない。<BR>
 総てを奪われた心の傷は、まだ、癒えない。<BR>
 何よりも大切な“あれ”を奪われた俺には、ひとを許すことはできない。<BR>
 そう。<BR>
 引き離されたもとの世界。<BR>
 愛した男。<BR>
 その一族。<BR>
 俺のもうひとつの性。<BR>
 そうしてなによりも、おそらくは愛した男に託されたろう、一族最後の命。<BR>
 これらはなにひとつ戻っては来ないのだ。<BR>
 どれひとつとして、取り戻すことは不可能なのだ。<BR>
 そう思うと、怒りに髪が逆立つ心地がした。<BR>
 風が俺の髪を乱す。<BR>
 俺を中心に渦巻く風の中に、ぱちぱちと小さな放電が起きる。<BR>
 悲鳴があがる。<BR>
「トールさま」<BR>
と。<BR>
「どうか怒りをお収めください」<BR>
と。<BR>
「どうか、これを見てください」<BR>
と、差し出されたサージの掌の上で、俺の周囲の放電の光を弾くそれ。<BR>
 その銀色の勾玉のようなもの。<BR>
 まさか。<BR>
 まさか、あの時の。<BR>
 憎いひとの王が、燻る大地に捨てた一族最後の希望。<BR>
 放電が止まり、風が止まる。<BR>
 俺は、サージの掌から、銀のそれを取り上げた。<BR>
 割れてはいない。<BR>
 皹もないようだった。<BR>
 不安は残る。<BR>
 そんなことでわかるはずがないと思いながらも、俺は、それを耳に当てずにはおられなかった。<BR>
 ああ。<BR>
 トクントクンと、心臓が脈打っている。<BR>
 生きている。<BR>
 涙があふれた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 最初の印象は、「派手だなぁ」だった。<BR>
 石積みの建物ばかりが連なる色味の単調な町中で、その一団だけが色彩豊かだったからだ。<BR>
 その纏う色彩だけで、その一団がただの町人などではないと一目瞭然だった。<BR>
 彼らにしてみれば、身分を伏せてのしのび遊びであったろうが、きらきらしすぎる。<BR>
「あれが、異世界からの巫(みこ)ですか」<BR>
 こそりと耳元にささやかれて、うなづいた。<BR>
「金髪に青い目とは珍しい」<BR>
 皮膚の色は、トールさまと同じく見受けられますが。<BR>
「髪は、染めているのだろうな」<BR>
 かなりな美少年だ。<BR>
 春の花の淡い色に染められた纏う衣の色さえもあせて見える。<BR>
 その彼が五人の若者たちを従えて、なにかを叫んでいる。<BR>
 いや、喋っているだけなのだろうか。<BR>
 地声が大きいのかもしれない。<BR>
 取り巻き五人は噂通りであればいい家の出だろうに、諌めるものもいはしない。よほど巫に心酔しているのだろう。<BR>
 丹色のトーガを纏っているのは、この国の王太子のはずだ。<BR>
 群青のトーガ姿は、たしか、宰相の嫡子であったろうか。<BR>
 白衣の若者は、この国の神官長の一人息子ではなかったか。<BR>
 黄土色と緑色のトーガのふたりは、知らない。それでも、その腰に帯びた剣から見るに、神官と王族、各々の近衛に属するものなのだろう。<BR>
「しのびになっておりませんね」<BR>
 いつもであれば平坦なイザイの声に、珍しくなにがしかの感情がこもる。<BR>
「何を考えているのやら」<BR>
 忍ぶならばそれ相応の身なりというのがありましょうに。<BR>
 肩を竦めたイザイが周囲をそれとなく見渡した。<BR>
 広場には、市が立っている。<BR>
 泉水を中央に、くるりと丸い広場に開かれたいくつもの露天は、この町の住人たちにとって必要不可欠な日用品を提供している。<BR>
 自然、周辺の町の人々が集まることになるのだが。<BR>
 人々の纏う色調が暗いものばかりなのに、気づいていないのだろうか。<BR>
 埃に、日々の生活の汚れに、着衣は、色褪せている。<BR>
 彼らは、知らないのかもしれない。<BR>
 この辺りは、貧しい人々が多いのだ。<BR>
 彼らのような華美な出で立ちでうろつこうものなら、狙われる。<BR>
 彼ら自身の悪目立ちが、ひとの悪心、もしくは焦りを、煽っているということに、気づいていないのだ。<BR>
<BR>
 人心が荒れている。<BR>
<BR>
 この大陸を遍く統べる宗教の総本山、その一支部であるこの国の神殿へと繋がる参道は、ひところよりは参拝人の数もまばらとなっている。それは、今はこの国だけのことではあるらしい。<BR>
 それでも、報せを受けた時、どうしようもないやるせなさと、時間の流れの無情さを思い知らされた気がした。<BR>
 しかたがない。<BR>
 そう思った。<BR>
 世は移ろうものなのだ。<BR>
 自分だけを取り残して。<BR>
 かねてより自分は、すべてを受け入れるだけのものでしかないのだから、逆らうことさえも許されはしない。<BR>
 昔も、今も。<BR>
 自分は変わることがない。<BR>
 自分だけが。<BR>
 キリキリとこの身を穿つ痛みに、眉根を寄せた。<BR>
「大丈夫ですか」<BR>
 イザイの声に、気遣わしげな音がふくまれる。<BR>
「大丈夫だ」<BR>
 少しだけ口角をもたげてみせる。<BR>
「ご無理をなさいませんよう」<BR>
 それだけでいつもの単調な口調を取り戻すイザイに、肩が揺れた。<BR>
 頭を撫でたい衝動に駆られる。<BR>
 大きななりをして、可愛らしい。<BR>
 自分に許された、唯一の愛玩物であるイザイを、見つめる。<BR>
 その逞しい首に巻かれたくすんだ銀の環が、彼が俺のものだという証である。<BR>
 誰も、誰ひとりそれを認めることがなくとも、俺とイザイの間で交わされた約束の証なのだ。<BR>
「しないさ。俺は、なにも、しない」<BR>
 イザイを凝視する。<BR>
「一休みいたしましょう」<BR>
 あちらの泉水のほとりにでも。<BR>
 痛ましげに目を眇めたイザイから、俺は顔を背けた。<BR>
 自分が招いたイザイの表情だったが、いざ見るのは、苦痛だった。<BR>
「なにか飲み物を買ってまいりましょう」<BR>
 イザイの背中が小さくなって、俺は、詰めていた息を吐いた。<BR>
 あの日から、俺を苛む棘は日々大きく育っている。<BR>
 あの日、浅い眠りの縁にたゆたっていた俺は、突然の激痛に目覚めを余儀なくされた。<BR>
 全身が一本の血管に変貌したかのような、激しい脈動の中心は、間違いなく俺の胸だった。<BR>
 平坦で肋の浮いた貧相な胸に、黒々とした痣ができていた。<BR>
 それは、俺の心臓の真上にあった。<BR>
 それが何なのか。<BR>
 今の俺には、わかっている。<BR>
 どうして、できたのかも。<BR>
 俺の命は長くはない。<BR>
 いずれ、遠からず、この棘は育ち、俺の心臓を貫くのだろう。<BR>
 その後。<BR>
 それを思えば、すべてを諦めたはずの俺なのに、どうしようもない辛さに、目頭が熱くなるのだ。<BR>
<BR>
 大きな悲鳴に、俺の回想は破られた。<BR>
 どうやらイザイの買ってきた果汁を飲みながら意識が過去に戻っていたらしい。<BR>
 声の方向を見れば、鮮やかな一団の姿。<BR>
 巫がなにか叫んでいる。<BR>
 しかし、悲鳴の主は、彼ではないようだ。<BR>
 彼の足もとに、こどもがひとり。<BR>
 石畳に腰を落としたこどもは籠を手に持ったままだ。ただし、籠の中にはなにもない。<BR>
 濃い赤をした果実が石畳の上に散らばっている。<BR>
 その同じ赤の色彩が、巫の着衣に大きな染みを作っている。<BR>
「あのオードーとかいうらしい巫は、本当に、巫なのでしょうか」<BR>
 ことの顛末を推察することは容易かった。<BR>
 イザイの眉間に皺が刻まれている。<BR>
 不快を感じているのは確かだった。<BR>
『巫は、時が選ぶのだ。その時節、時代、ひとが望むものを』<BR>
 ならば、あれは、今とひととが望む巫の姿であるのだろう。<BR>
「品のない」<BR>
 吐き捨てるような嫌悪の声に、俺は、驚きを隠せない。<BR>
 イザイが、こんなにまで感情を露にするのを、見たことがなかったせいだ。<BR>
「傍観だけでよろしいのですか?」<BR>
 イザイの手が腰のあたりを彷徨う。<BR>
 助けたいのだろう。<BR>
 しかし、今、俺は目立ちたくはないのだ。<BR>
 ただでさえ底を尽きかけている俺の力は、今の俺の姿を保たせることだけで精一杯だった。<BR>
 これを言えば、あそこを出ることさえ許されはしなかっただろう。<BR>
 しかし、俺は、俺自身の目で確かめたかったのだ。<BR>
 一目で構わない。<BR>
 納得したかった。<BR>
 俺の命が尽きる原因を、認めることができればいいと、願っていたのだ。<BR>
「王太子がついている。神殿の近衛もいる。だいいち、あれだけの衆目がある中で、無茶振りもしないだろう」<BR>
「なにを仰られます。今にかぎらずではありますが、王族がどれだけ傲慢か。ご存知でしょうに。特に、巫が現れてからというもの、ひとをひとと思わないほどの暴君ぶりではありませんか」<BR>
 短い悲鳴が耳を打つ。<BR>
 イザイの銀の目から視線を外し、俺は、その場をもう一度見た。<BR>
「馬鹿がっ」<BR>
 王太子の近衛と、神殿の近衛とが、柄に手をかけている。<BR>
 こどもは動けないようだ。<BR>
 それどころか。<BR>
 白衣の若者が、こどもを引きずり立ち上がらせている。<BR>
「トールさま。ご命令を」<BR>
「ああ。助けてくれ」<BR>
 それ以外に、何を言えただろう。<BR>
「御意」<BR>
 イザイの口角が持ち上がる。<BR>
 背筋が逆毛立つような、そんな好戦的な表情だった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ことばもなくその場に割って入った男の姿に、彼らは驚いたらしい。<BR>
 それはそうだろう。<BR>
 彼らの中でひときわ大柄な王太子よりも頭ひとつ分丈高いイザイが、まるで空から現れたかのように彼らには思えただろう。その独特な銀の髪を惜しげもなく陽光にさらしてこどもを庇って立つ彼の姿は、まるで伝説の銀竜そのものに見えるだろう。<BR>
 俺は、そんな彼の姿を眺めていた。<BR>
 俗な言い方をすれば「格好いい」と、拍手を送りたいほどにほれぼれする姿だ。<BR>
 イザイは、俺の、誇りでもある。<BR>
 可愛らしく、格好いい、俺の、イザイ。<BR>
 俺の許嫁だった彼が、俺に残した、たった一つの形見。<BR>
 今となっては唯一の、銀竜の生き残り。<BR>
 遠からず彼を残すことになるだろうこの身を呪わずにはいられない。<BR>
 あそこにいれば、今少し、長く生きることができるだろう。<BR>
 イザイの嘆きを少しでも先に伸ばすことができるだろう。<BR>
 それでも、俺は、見たかった。<BR>
 俺を殺す、巫を、この目で。<BR>
 その巫が、<BR>
「お前、誰だ!」と、叫んだ。<BR>
 そのことばにこみあげたのは、郷愁だった。<BR>
 懐かしい、ことば。<BR>
 おそらくは、この場で巫のことばを正しく、その国の言葉として耳に捕らえているのは俺だけだろうが。<BR>
 かつての俺が暮らしていた世界の、国の、ことば。<BR>
 忘れていたと思っていた。<BR>
 けれど、忘れてはいなかった。<BR>
 あちらで暮らした以上の時をこちらで暮らしていても、忘れなかったのだ。<BR>
 知らず、俺の目からは涙があふれだしていた。<BR>
「私の名をあなた方が知る必要はない。私はただ、私の主の命で、このこどもを助けるためにここにいる」<BR>
「助ける?」<BR>
「このこどもが何をしたか知っていて、そう言うのか」<BR>
「こいつは、俺の服を汚したんだ」<BR>
「着衣の汚れなど、洗えば済むことだ。何を喚く必要がある。近衛が剣を抜く必要がある」<BR>
「ただの着衣じゃないのですよ。巫の衣です」<BR>
「巫にぶつかっておいて、服を汚して、謝っただけで済むとでも」<BR>
 衆目のざわめきは大きくなる。<BR>
「しのび遊びではないのか。みずから正体をバラしてどうする」<BR>
 言葉に詰まる六人を一瞥し、イザイがこどもを白衣の男から奪い取る。<BR>
 こどもは礼を言い、衆目の中に見知った顔を見出したのだろう、駆け寄った。<BR>
 しかし。<BR>
「お前はクビだ」<BR>
と、うろたえたような上擦った男の声がその場の空気を砕いた。<BR>
「どこへなりと行け」<BR>
 男とこどもとのあいだで、諍いが起きるが、男は縋るこどもを振り払って、きまり悪そうにその場から逃げ出した。<BR>
 こどもは呆然とその場に佇む。<BR>
 その姿に、<BR>
「助けにはならなかったようですね」<BR>
 嘲笑を含んだ声だった。<BR>
「巫を怒らせたものを雇うものなど、この町には、いえ、この国にはいないでしょう。あなたはどうするつもりです」<BR>
 怒りというよりも、呆れるといったほうが、正しいだろう。<BR>
 ことばは悪いが、みみっちい。<BR>
 この男が宰相の後を継ぐのか。<BR>
 なんとも、曰く言いがたい感情が、俺の心を塞いでいた。<BR>
 俺は、衆目の中から、進み出た。<BR>
 しかたがない。<BR>
 開き直るしかないだろう。<BR>
 もっとも、今の俺を知るものなど、ここには誰ひとりとして、存在しないに違いない。<BR>
「イザイ。俺が引き受ける」<BR>
 こどもの傍にしゃがみ込み、俺は、イザイに言った。<BR>
 顔を真っ赤に涙をこらえているのだろう、十ほどの少年の顔を覗き込んだ。<BR>
 たったひとりの少年を救ったところで、焼け石に水どころのはなしではないだろう。それでも、無視するには、辛い。<BR>
「家族は?」<BR>
 首を横に振る。<BR>
「そうか。なら、俺のところにくるといい」<BR>
 少年ひとりくらいなら、俺にも助けることができるだろう。<BR>
「何勝手なこと言ってるんだ。そいつは俺の服を汚したんだぞ!」<BR>
 俺の肩を、巫が突然掴んだ。<BR>
 刹那、俺の全身を襲ったのは、全身を貫くような痛みだった。<BR>
 この巫は。<BR>
「トールさまっ」<BR>
 巫の動きは、イザイの思いも寄らないものだったのだろう。<BR>
 瞬時に俺の傍に移動したイザイが、俺の肩から、巫の手を払いのける。<BR>
「トールさまに触れるな!」<BR>
「巫に何をする」<BR>
 白衣の男がその場に腰を落とした巫を抱える。彼らの前に、庇うようにして騎士が立ちはだかる。<BR>
 イザイの銀のまなざしが、一同を睨み据える。<BR>
 ゾッとするほどの敵意をこめて。<BR>
「この俺にっ! 俺は、巫だっ。俺のことばは絶対なんだっ! 誰よりも偉いんだっ!」<BR>
 立ち上がり地団駄を踏む巫は、ただの我侭なこどもにしか見えない。<BR>
 こんなヤツに。<BR>
 俺は、殺されなければならないのか。<BR>
「それは、巫が神に仕えて初めて言えることだ。まだ神殿に足を踏み入れてさえいない巫が口にするな」<BR>
「なっ」<BR>
 イザイのことばにうろたえるのは、白衣の男。<BR>
「厳しい戒律を嫌って、いまだ王宮で贅沢に暮らしている巫には、存在意義などない」<BR>
 いっそキッパリ言い切るイザイに、その場の空気が凝りつく。<BR>
 青ざめた空気を破ったのは、<BR>
「俺は、いるだけでいいんだ。いるだけで世界は平和になるんだっ! だから、俺がここにいることに意味がある」<BR>
 甲高い声。<BR>
「そうです。今この時に巫が存在する。そのことが大切なのです」<BR>
 神官長の息子が、我が意を得たとばかりに、勝ち誇る。<BR>
 そうなのか。<BR>
 巫がいればそれでいいのか。<BR>
 俺などいらない。<BR>
 そういうことなのだ。<BR>
 すべてに縛られつづけてきた俺など、まったく意味がない存在だったのか。<BR>
 痛みは去らない。<BR>
 痛みはただ俺の全身を苛みつづける。<BR>
 死ねとばかりに。<BR>
 目の前が暗くなる。<BR>
 そうして、なにかが、俺の心の奥底から鎌首をもたげようとしている。<BR>
 それは、歓喜だった。<BR>
 小暗い、呪詛にまみれた、狂った歓び。<BR>
 そうか。<BR>
 俺の名を呼ぶイザイの声を遠く聞きながら、俺は、涙を流した。<BR>
 俺の死とは、こういうことなのか。<BR>
 数多の祝詞に抑え込まれつづけた、俺の怒り。<BR>
 それが、胸に穿たれた黒い棘から、滲みだしてゆく。<BR>
 俺を、憎悪一色に染め変えてゆこうとする。<BR>
「あっ」<BR>
 狂気が、俺を、捕らえる。<BR>
「あっ」<BR>
 それは、絶望だった。<BR>
「あっ」<BR>
 俺はその場でのけぞった。<BR>
 目立たないように変えていた俺の姿が、元に戻る。<BR>
 黒い髪が、あの遠い日に変わった、白へと。<BR>
 黒い瞳が、あの遠い日に変わった、赤へと。<BR>
 周囲の空気が、驚愕に染めあげられてゆくのを俺は肌で感じていた。<BR>
 目の前の少年が、巫が、その場に居合わせたものたちが、目を見開いて俺を凝視する。<BR>
「トールさまっ」<BR>
と、イザイの悲鳴が、絶望に彩られた。<BR>
<BR>
<BR>
 あの遠い日の恐怖と絶望が、俺にもたらした変貌は、俺がこの世界の神である証に他ならなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 かつて、俺は、平凡な高校生だった。<BR>
 たった一つの秘密を除いて。<BR>
 俺は、男女両方の性を持っていた。<BR>
 遅い初潮を迎えたとき、ただひとりの理解者だった祖母は、<BR>
「本当に好きな人ができるまで大切にしなさい」<BR>
と、言ってくれた。<BR>
 大切。<BR>
 片頬で嗤った俺を見た祖母の悲しそうな表情を思い出すことができる。<BR>
 両親が俺に望んだのは、男であることだった。<BR>
 だから、俺は、女であろうとは一度も思わなかった。<BR>
 女である意識も、強くはなかった。<BR>
 男だと、男らしくあろうと心がけていた。<BR>
 それが百八十度変わったのは、世界が変わったからだ。<BR>
 そう。<BR>
 俺は、異世界に呼ばれたのだ。<BR>
 最後の夜、俺に絡んだ三本の触手。<BR>
 それが、俺を、この世界に引きずり込んだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 銀の髪と銀の瞳。<BR>
 遠いあの日に俺を愛してくれた、銀竜の王。<BR>
 俺は、俺を女として愛してくれた彼を信じることができなかった。<BR>
 長い間。<BR>
 俺が俺の心を認めることができたとき、既に、遅すぎた。<BR>
 俺が彼らのところに来た理由が、彼らのこどもを孕むことができるからだだということが、ずっと俺の心の中で棘になっていたからだ。<BR>
 だから、彼が俺を愛してくれるのは、最悪、ただのそぶりに過ぎないのだと、そう思っていた。<BR>
 銀竜一族はあのとき衰退していた。<BR>
 総数で数百を切っていただろう。<BR>
 俺はなにかで、種が存続してゆくためには最低二百の個体が必要だと、聞いたことがあった。<BR>
 だから焦っているのだと、だから、俺なんかを愛しているふりをするのだと思っていた。<BR>
 鬱々と、俺は王の求愛を受け入れないまま日々を送っていた。<BR>
 そうして、すべてが終わる日が来たのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 俺は、俺に絡んだ触手が三本だったことを忘れていた。<BR>
<BR>
<BR>
 この異世界に俺を招いたものは、銀竜の他にもあったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 銀竜は、存続を求めて、俺を招いた。<BR>
 しかし、この世界の人間は、力を求めて、俺を招いたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 俺は、騙され、そうして、攫われた。<BR>
 俺を求め、攫っておきながら、けれど、人間は、俺の女の性を忌んだ。<BR>
 人間の世界は、強い男権社会だったのだ。<BR>
 女性は男に従属する。<BR>
 そんな彼らにとって、“力”を与えてくれる俺が女性を持っていることが許せなかったのだ。<BR>
 俺は、人間の王とその側近たちに囲まれて、女性器を焼かれた。<BR>
 俺の処女膜を破ったのは、灼熱の鉄の棒だった。<BR>
 あの時に死んでいればよかったと、俺は何度も嘆いた。<BR>
 死の淵を彷徨いながら、
 
12:42 2013/05/06
10:05 2013/03/25 〜 18:07
 ネーミングセンス、やっぱり、ないな。


<BR>
<BR>
「なにをしているのだ」<BR>
 亜麻色の髪の男が、通された室内を見て、声を出した。<BR>
 広く優雅な室内には、その独特の臭気が充満している。<BR>
 なにをーーとわざわざ問いただすまでもない。<BR>
 それでも男が問いたださずにいられなかったのは、彼の従兄弟にして同僚の金髪の男の思いも寄らない暴挙に驚愕したからにほかならない。<BR>
 どちらかといえば温厚な、悪く言えば周囲に埋没しかねないと評される従兄弟だった。<BR>
 そう。<BR>
 彼ら、アッシェンバッハ大公家を支える三大公爵のなかで一番の常識派と言われるマリリアード・クロイツェルには似つかわしくない暴挙に、コンラード・ヴァイツァーがである。<BR>
 ヴァイツァー公爵といえば、その踊る炎めいた亜麻色の髪とは正反対に、冷静を具現化したようなと評されている。<BR>
 残るひとたりバルトロメオ・アイローを軍神に喩えるなら、コンラード・ヴァイツァーは英知の神に。しかしながら、マリリアード・クロイツェルは神に喩えられることはない。世に並びない三大公爵の一翼を担うひとたりでありながら、その生得のバランス感覚のせいで総てを等しく均してしまうからだろう。<BR>
 外見の美しさもまた、他の公爵より秀でているようには見えない。<BR>
 見えないだけで、よく見れば、とても美しい男性だと判る。しかし、金髪と緑の瞳の、穏やかそうな男性だというのが先に立つのだ。<BR>
 だからこそ、コンラードは、驚いたのだ。<BR>
 もちろん、同い年の従兄弟のことである。穏やかなばかりの人物ではないと、他の誰よりも近しく知っている。<BR>
 しかし、それでも、これは、どうだろう。<BR>
 コンラードの涼しげな眉間にかすかに縦皺が刻まれた。<BR>
 涙にまみれた顔が、揺れる。<BR>
 いや、その未だ完成されていない若者の薄いからだが、揺れる。<BR>
 見開かれた褐色のまなざしはただ涙をたたえるばかりの虚ろと化し、コンラードを認めてもいない。<BR>
 最近になってようやく彼にも馴染んできた、姫宮倫という名の、彼らの庇護者である。<BR>
 姫宮倫。<BR>
 彼らの世界にとって死語と等しい古い形態の名を持つ少年は、大公とその三公爵の居城である空の城の廻廊に忽然と現われたのだ。<BR>
<BR>
<BR>
 宇宙空間に浮かぶ四つの城を繋ぐ廻廊は、もちろん、警備の兵が常駐している。<BR>
 この世界を遍く支配する、実質王族の城である。<BR>
 ただびとが容易く侵入を果たせるはずもない。<BR>
 どのように。<BR> 
 なぜ。<BR>
 見つけたのは、偶然にもマリリアードであり、コンラードのふたりだった。<BR>
 大公に報告をと動き出そうとしたコンラードを止めたのは、他ならない、マリリアードであった。<BR>
「なぜ」<BR>
「ふむ。私にもよくは判らないのだが」<BR>
 珍しく途方に暮れたような緑のまなざしに、コンラードが折れた形になったのだ。<BR>
 それでも、背景の確認は必要だった。<BR>
 持ち物はもちろん、少年の体内に危険物がないか、危険思想の持ち主ではないかなど、さまざまな検査がコンラードの城の研究室で内密に行われた。<BR>
 意識を取り戻した少年とことばが通じないということが、難関だった。<BR>
 今や、多少の訛はあれど世界には共通言語が行き渡り、どこであろうと意思の疎通に困ることはない。それは、どんな辺境な山奥や、惑星であろうと同じことだった。<BR>
 だけに、これは、一族としては由々しき問題だった。<BR>
 別の世界なのか、それとも、別の時間軸なのか。<BR>
 おそらくは、この少年は、この世界の、もしくは、この時代の人間ではありえない。<BR>
 嘘をついている可能性も考慮され、軽めの自白剤を用いてみたものの、結果は同じことだった。<BR>
 少年の口から出るのは、彼らがかつて耳にしたことのない、不思議なことばだったのだ。<BR>
 持ちものに記された文字等から推測するに、おそらく、少年は、ずいぶんと過去からやってきたことになる。<BR>
 軽い自白剤を投与され、酩酊に近い状態にある少年に、噓をつく余裕はない。<BR>
 脳波を見る限り、少年が嘘をついているようすは皆無である。<BR>
「コンラードさま、これを」<BR>
 侍従が持ってきたものを、コンラードは少年の目の前に差し出した。<BR>
「読めるか?」<BR>
 ことばは通じないなと、古い書物を開いて、指差した。<BR>
 焦点を結びきれないままで、それでも、褐色の瞳が、コンラードの指先を懸命にたどる。<BR>
 ほんの少しだけ、少年の視線が、しっかりと文字を捉えた。<BR>
「読めるようだな」<BR>
 なら、こちらはどうだ。<BR>
 手直にあった処分間近の書類をたぐり寄せ適当に文脈をさし示す。<BR>
 文字と認識はできるのだろうが、理解不能のようすがみてとれる。<BR> 
 共通言語で記されたそれを見て当惑するさまに、コンラードの頬が苦笑を刻む。<BR>
「コンラード」<BR>
 気がつけば、マリリアードが隣に立っていた。それに気づかないほど夢中だったのかと、肩を竦める。<BR>
 コンラードの肩に手が置かれた。<BR>
「この少年は、結局、過去から来たということか」<BR>
「結論には早計だがな」<BR>
 とりあえず、この文献を読めるそぶりがあるあたりで、かなりな過去から来たのだろう。<BR>
 それは、解読法も失われた、かつて全人類のホーム(故郷)であった星の一島国の言語だった。<BR>
 持ち物にあった記憶媒体も、初期に近い古い形態のものだ。<BR>
 デスクの上から、薄い円盤状のものを取り上げる。<BR>
「一応映像を呼び出すことはできるがな」<BR>
 デスクのスロットにディスクを差し込み、いつもは必要ない複雑な手順でキーボードを操作する。<BR>
 派手な音楽とアクションが、何もなかった空間に映し出される。<BR>
「映画か」<BR>
「のようだな」<BR>
「これは、考古学者か言語学者が泣いて喜ぶか」<BR>
 少年がつぶやいていたのと同じことばで喋る人間たちが、画面の中で立ち回りをしている。<BR>
「あの時代のあの地域の言語文化に関する情報は、ほぼ壊滅状態だからな」<BR>
「実利的には役に立ちそうもないが」<BR>
 肩を竦めるコンラードに、<BR>
「極めた学問とはそんなものだろうよ」<BR>
 穏やかに笑うマリリアードだったが、<BR>
「問題は、この少年の処遇だな」<BR>
 コンラードの提案に、表情が引き締まる。<BR>
 見れば、少年は意識を手放している。<BR>
 軽いとはいえ、自白剤を使われたのだ。薬物耐性がよほど弱い体質なのかもしれない。おそらく、意識を取り戻した時、ここでのやりとりなどは一切記憶から消えていることだろう。<BR>
「ことばも判らない未成年者を世に放りだすほど鬼ではないが」<BR>
「偶然時間軸から外れたのであれば、もう一度もとの時間軸に戻れるのではないか」<BR>
「不確定だろう」<BR>
「この時代に根を張るものとして接するほうがいいとは思うが」<BR>
「あくまで客人でいいのでは。それならば突然姿を消したとしても、さして問題は起こらない」<BR>
「いずれにしても大公閣下に報告を入れねばなるまいな」<BR>
「次の会議までには、いれておこう」<BR>
 下手に興味を抱かれないていどの情報をな。<BR>
 つぶやいたマリリアードのことばに、コンラードの目が見開かれた。<BR>
<BR>
<BR>
 DVDを返しに家を出た。<BR>
 ただそれだけだったのだ。<BR>
 借りてきたのは父親だったが、面倒だから返してこいと、言ったのだ。<BR>
 ついでにコンビニでなんか買って帰ろうと、自転車にまたがった。<BR>
 車のヘッドライトが迫ってきた。<BR>
 狭い路地だった。<BR>
 家はすぐそこで、気を抜いた途端の奇禍だった。<BR>
 ぶつかった。<BR>
 そんな気がした。<BR>
 そうして、気がつけば、ここにいる。<BR>
 窓の外は、夜空。<BR>
 それも、星を身近に感じるほどの迫力で迫ってくる。<BR>
 ここは、この城で一番高い位置にある部屋だということだ。<BR>
 三十畳ほどの室内には、やけにきどった家具が配置されている。<BR>
 紫紺に金のアクセントの装飾は、まるで外国の城のようだ。<BR>
 天井からぶら下がるシャンデリアや、天井に刻まれた絵が、ますますその雰囲気を強めている。<BR>
 なんと言ったか。<BR>
「宇宙(そら)の間でございます」<BR>
と、自分とさして歳が違わないだろう、立ち襟の軍服めいたお仕着せを着た外国の少年が今日からはこちらを使えと言いながらそうつけ加えた。<BR>
「宇宙……か」<BR>
 ゆっくりと喋ってくれたため聞き取ることができたが、日本語ではない。<BR>
 英語でもなかった。<BR>
 金髪で緑の目のあの男が倫に少しずつことばを教えてくれてはいるが、投げ出したくなる。<BR>
 なんで今更、赤ん坊みたいに言葉を一から覚えなければならないんだ。<BR>
 そう自棄になったのは、つい二週間ほど前のことだ。<BR>
 通じないのは判っていたが、それでも、苛立たしくてならなかった。<BR>
 目の前で穏やかに忍耐強くつきあってくれている男が、実はかなり忙しい立場の人間だと判っていても、だからどうしたんだと、叫びだしたくなった。<BR>
 泣き叫びたくなった。<BR>
 家に帰りたい。<BR>
 食って掛かっても、通じない。<BR>
 困ったように自分を見下ろしてくる整った甘い顔に、腹立たしさばかりが募ってきた。<BR>
 マリリアードと名乗った男と、赤毛のコンラードと名乗った男が、入れ替わり立ち替わり、言葉を教えてくれる。<BR>
 それでも。<BR>
 いや、だからこそかもしれない。<BR>
 倫はこれまでに経験したことがないほどに混乱していたのだ。<BR>
 それに自分自身で気づかないほどに。<BR>
 キレたのは、外に出ることができなかったからだ。<BR>
 たったそれだけの理由がきっかけだった。<BR>
 その日はマリリアードもコンラードもこなかった。<BR>
 ああ、ふたりとも忙しいんだな。<BR>
 座り心地のいい椅子に座ったまま、執事らしい男が倫のために準備をしたノートや本、ネット学習のように単語の発音をくり返している端末の画面を見るともなく見ていた。<BR>
 こちらでーと、指し示されたから座って本をめくって機械のスイッチを入れたものの、気は乗らない。<BR>
 このままでは駄目だと判っていても、だからどうしたというのだと自暴自棄に襲われる。<BR>
 赤の他人のことなど、捨てておいてくれれば良かったのだ。<BR>
 彼らが悪いわけじゃない。<BR>
 倫にも、自分が尋常じゃない何かに巻き込まれたのだということは判っていた。<BR>
 なにひとつ責任もないだろう彼らが、自分をとりあえず引き受けてくれているのだということも、判っていた。<BR>
 だからこそ、彼らに申し訳なくて、ことばを覚えようとしているのだ。<BR>
 感謝しなければ。<BR>
 しかし。<BR>
 だからこそ。<BR>
 ここまでしてくれるのだから言葉を覚えなければという義務感がストレスになって、倫を追いつめていた。<BR>
 イライラがおさまらない。<BR>
 もう駄目だ。<BR>
 息が詰まる。<BR>
 そうして、はじめて、倫は自分からドアノブに手をかけた。<BR>
 これまでは、自分から部屋の外に出ようとはしなかった。<BR>
 だから、知らなかったのだ。<BR>
 ドアに鍵がかけられていることなど。<BR>
「なんで?」<BR>
「なんでだよっ」<BR>
 わからなかった。<BR>
 人当たりの好い顔をして。<BR>
 穏やかに笑ってみせながら。<BR>
 当惑したように、それでも、決して声を荒げずに。<BR>
「……………………」<BR>
「邪魔なんだよな」<BR>
「当然だ」<BR>
「だったら」<BR>
 オレなんかいないほうがいいんだから。<BR>
 窓は大丈夫だった。<BR>
 窓から出るなんて考えないんだろうか?<BR>
 いや。<BR>
 そんなことどうだってかまわない。<BR>
 倫は、窓を越えた。<BR>
 そうして、立ち竦んだのだ。<BR>
 窓の外の景色が、違う。<BR>
 倫が見ていた窓の外は、深い森のようなものだった。<BR>
 それなのに。<BR>
 騙された?<BR>
 外は、整えられた広い、広大すぎる庭園だった。<BR>
 噴水もあれば、廃墟のような佇まいの装飾まである。<BR>
 木立で造られた迷路もあるようである。<BR>
 流れる川の先には、池と呼ぶには大きすぎる、湖のようなものまである。白鳥までもが浮かんでいる。<BR>
 そうして、それを見下ろしている白亜の城。<BR>
 本物の城。<BR>
「なんだよいったい!」<BR>
「なんの冗談だよっ!」<BR>
 城から遠ざかろうと、狭いほうへ狭いほうへと無意識に走り出した倫は、遂に、そこにたどり着いた。<BR>
 まるで昔の人間が信じていた、“平たい地球”のその端っこ。<BR>
 ただし、その先は、流れ落ちる海の水ではなく、どこまでも広がる、宇宙空間だった。<BR>
 吸い込まれる。<BR>
 どこまでも落ちてゆくような錯覚に囚われ、倫は悲鳴をあげた。<BR>
 全身の毛が逆立つような感覚に、その場に蹲り、悲鳴を止めることはできなかった。<BR>
<BR>
<BR>
 意味のない叫びは、やがてひとを呼び、クロイツェル家の警備兵たちがその場で震える倫を遠巻きに、途方に暮れたように眺めていたのだ。<BR>
 彼らはもちろん、クロイツェル家の“客人”のことは知っている。<BR>
 クロイツェルとヴァイツァー両公爵家の当主がどこからともなく伴ってきて後、面倒を見ている少年である。<BR>
 いったいどこの辺境から来たのか、言葉が通じないと言う信じられない噂が事実だと言うことも、いつの間にか知れ渡っていた。<BR>
 だけに、どうすればいいのか、逡巡していたのだ。<BR>
「何をしている」<BR>
「公爵」<BR>
「閣下」<BR>
 揃いの軍服に身を包んだ男たちが、礼をとる。<BR>
 そこにふたりの公爵を認めたためである。<BR>
 付き従う侍従長が指し示す先を認め、マリリアードの口角がほんの少しほころんだ。<BR>
 その変貌に気づいたのは、長く彼に仕えてきた侍従長とコンラードだけだった。<BR>
「顔を見に来ただけだが、診察もしたほうが良さそうか」<BR>
「頼もうか」<BR>
「閣下私が」<BR>
 マリリアードの腕から意識を無くした倫を受け取ろうと侍従長が促すが、<BR>
「かまうな」<BR>
 にべもない。<BR>
「自覚はないのか?」<BR>
 揶揄する潜められた声音に、<BR>
「何がだ?」<BR>
 マリリアードがコンラードを見やる。<BR>
「クロイツェル公爵閣下におかれては、客人殿にひどくご執心とか」<BR>
「なんだそれは」<BR>
 あからさまな言葉遣いに、滅多なことでは刻まれることのない皺が眉間に刻まれる。<BR>
「まぁ、わからぬでもないがな。客人殿は、どういうわけか、酷く庇護欲をそそってくれる」<BR>
「貴公、返事になっておらぬではないか」<BR>
「そら、そういうところさ」<BR>
 コンラードがマリリアードの胸を人差し指で突つく。<BR>
「貴公らしくない」<BR>
 コンラードの心には、ある予感が芽生えていたが、あえて打ち消した。<BR>
<BR>
 いつの世も、悪い予感ほどよく当たるものである。<BR>
 英知の神に喩えられるコンラードもまた、自分のらしくない行動に気づいてはいなかったのだ。<BR>
<BR>
 
 
 
 
2012/-6/24 19:37
<BR>
※ ※ ※<BR>
<BR>
「判っている」<BR>
「知っている」<BR>
「だれがおまえをこうしたのか」<BR>
 どれほど愛そうと、少しも反応のない王子を、王は揺さぶりつづける。<BR>
 芯のない人形よりも力なく、ただ揺さぶられるままに揺れ続けるその姿は、すでに、目を背けたいものへと変貌を遂げていた。<BR>
 悪趣味な死人人形。<BR>
 救いは季節が凍てつかんばかりの冬であると言うことだったろう。<BR>
 暖かな気候であれば涌いたに違いない虫からは守られ、腐敗の進行は緩やかだった。<BR>
 それでも、確かに、死せる王子は腐敗してゆくのだ。<BR>
 傷口から血痕はぬぐい去られ、てらりとした肉と骨が露出していた。<BR>
 王の指先が傷口をなぞる。<BR>
「この太刀筋を読めぬほど愚かではない」<BR>
「ジュリオ!」<BR>
 双黒が見開かれる。<BR>
 憎悪を宿した黒いまなざしが、オイジュスを通り越して、もうひとりの王子に向けられていた。<BR>
 オイジュスを抱きしめる。<BR>
「冷たいな。おまえは。生前と変わらずに、私を見ようとすらしない」<BR>
 だから私は狂わされたのだ。<BR>
 一度でいい、おまえが心から私を父だと認め呼んでくれていたら。そうであれば、私は狂わなかったろう。おまえを息子としてだけ愛していることができたに違いない。<BR>
 息子であるおまえに、狂うことはなかったはずだ。<BR>
 我が子を抹殺することなど。<BR>
 愛している。<BR>
 愛しているのだ。<BR>
 殺すほどに。<BR>
 殺してしまえるほどにまで。<BR>
 私以外の誰にもその存在を見せたくないほどに。<BR>
 愚かな男を、嗤うがいい。<BR>
「オイジュス。我が王子よ」<BR>
 冷たい屍を撫でさすりながら、王はただつぶやきつづける。<BR>
 塔の扉は固く何重にも鍵をかけられていることなど、もはや王には何の意味もなかった。<BR>
 ただひとつだけ。<BR>
 悔やむことがあるとすれば、ただひとつだけ。<BR>
 オイジュスを殺した者に対する復讐だった。<BR>
 閉ざされた身では、果たすことはできない。<BR>
 ならばーーーーと。<BR>
 狂気と正気とを行き来する頭で、王は考えた。<BR>
 呪いを。<BR>
 もはやここから出ることは叶わないだろう。<BR>
 ならば、この血を持つジュリオの血を引く者に、逃れ得ぬ呪いを。<BR>
 そうして。<BR>
 今ひとつ。<BR>
「私は、おまえを、取り戻してみせる」<BR>
 この身は死しても。<BR>
 滅びようとも。<BR>
 どれほどの時を経ようとも、いずれ、澱んだ血の中によみがえるだろうおまえを取り戻してみせる。<BR>
 それまでは、いかように苦しもうとも、ジュリオの血縁者が滅びることはない。<BR>
 アルシードの最後のひとりにこそ、おまえの魂はよみがえるだろう。<BR>
 その時こそ!<BR>
 逃がしはしない。<BR>
「もう二度と」<BR>
<BR>
※ ※ ※<BR>
<BR>
「もう二度と」<BR>
 耳元でささやかれた声に、若者は全身で反応した。<BR>
 目の前に展開されていた白と赤に黒が混じった光景は消え去っていた。<BR>
 目を瞬かせる。<BR>
 そうして、一歩、後退した。<BR>
 凶悪なほどの歓喜に満ちた顔を見出したのだ。<BR>
「オイジュス」<BR>
 開いているはずの扉はいつの間にか閉ざされていた。<BR>
 開かない。<BR>
 何故。<BR>
 目の前の男が、生きている者ではないことは一目瞭然だった。<BR>
 その古めかしい服装も、古めかしい発音さえも。<BR>
「私の愛しい王子」<BR>
 どれほどこの時を待ったと思う。<BR>
 オイジュスの血の中におまえがよみがえるのを。<BR>
 私とお前のためのこの古寂れた伽藍の中で、おまえが戻って来ることを、気が遠くなるほど待ちつづけた。<BR>
 冷たい掌が、若者の頬を撫でた。<BR>
 全身が、凍えつく。<BR>
「思い出せ」<BR>
 おまえの血の中の記憶をよみがえらせろ。<BR>
 そうして、未来永劫、この伽藍の中で私とともにありつづけるのだ。<BR>
 若者が首を振る。<BR>
 拒絶の意味を込めて。<BR>
「この褐色の髪も瞳も、私を煽るそのくちびるさえ、私のオイジュスにそっくりだというのに」<BR>


**** あとがき
 いや〜一瞬消したかと思って焦りました。
 昨日乗りにのって書いてたのにこれだけだったのね〜というのもありますがvv 意外に長くないな。ま、元々短編向きなんだもんね〜。今更ですが。
 この後は〜ご想像の通りなんですがvv
 問題は、行為を書けないことだな。
 いや、まぁ、このブログ自体十八禁設定はしてないので、書くのはNGですけどね。してなかったはず?
 所詮書いたとしても、工藤のぬるい描写ですが。
 いいところでフェイドアウト〜自覚はあります。はい。
 それにしても、ほんっと、名前つけるの苦手だなぁ。溜め息ものです。

 少しでも楽しんでくださると嬉しいです。
<BR>
<BR>
<BR>
 それは古寂れた塔だった。<BR>
 数百年の歴史を孕むその塔は、風雪にさらされ蔦に巻き付かれながらも、その堂とした姿を空に向かって突き立てていた。<BR>
「なんとも」<BR>
 それしか感想はなかった。<BR>
 中世の頃の王宮のほとんどは崩れ石積みや骨が残るだけだ。<BR>
 雄大で広大だったという、中世アルシードを統べる代々の王の姿を知ることができるのは、敷地に点在する石像のみ。<BR>
 朽ちるにまかせるのは、最も隆盛を誇ったアルシード第十四代国王ジュリオ・アルシードの宣下に寄るとされていた。<BR>
 王位に着いてすぐ、十四代国王は遷都を計画した。<BR>
 理由については、何も残されてはいない。<BR>
 少なくとも、公的な書類はなにひとつとして。<BR>
 計画は遂行され、旧王宮は放棄された。<BR>
 以降、旧王宮は朽ちるにまかされることとなったのだ。<BR>
 おそらくは、遷都の折りに、旧王宮はある程度破壊されたのだろう。でなければ、強固な石造りの王宮が数百年ほどでここまで荒れ果てはしない。<BR>
 しかし、なぜ、この塔だけは残されたのか。<BR>
 判らない。<BR>
 理由を知るのは、おそらくは、既にこの世にはいないだろう一握りの人間だけだろう。もしくは、十四代国王だけかもしれない。<BR>
 問題はそこにあるのではない。<BR>
 ともあれ。<BR>
 自分は、ここに来た。<BR>
 ようやく。<BR>
 アルシード王国は、十四代で滅びた。<BR>
 賢王と呼び讃えられながら、それでも、最盛期にアルシードは滅ぼされたのだ。<BR>
 この世に滅びないものなどは存在しない。細々とした傍系の血脈が残るだけでも、奇跡なのかもしれない。<BR>
 このからだに流れる血は、最後のアルシードだ。<BR>
 王位も領土も、権力もありはしないが、それでも、確かにアルシードの血を引いている。<BR>
 そうして、なによりも、アルシードの血は、受け継ぐものたちに、断ちがたい呪いを繋げてもいるのだ。<BR>
 狂った血だ。<BR>
 悲哀に狂わせる血だ。<BR>
 呪いを解くには塔に登るしかないのだと、繋ぐものたちは知りながら、果たすことができなかった。<BR>
 それさえも、また、呪いに他ならないのだと。<BR>
 血族を呪う、狂った呪い。<BR>
 永遠の連鎖を断ち切ることが、アルシードの末裔の悲願だった。<BR>
 しかし———————。<BR>
 呪いは解けないまま、数百年。<BR>
 呪いを断ち切ることはできないまでも、自分が何も残すことなく死ねば、この血は潰える。<BR>
 血を繋ぐものが潰えれば、呪いも終わる。<BR>
 それでもいいと考えていた。<BR>
 アルシードの血は終わるが、苦しむものもいなくなるのだ。<BR>
 それでいい。<BR>
 それでいいと、思う。<BR>
 あんなこと!<BR>
 もう誰にも。<BR>
 流れた、血。<BR>
 絨毯の密な毛足を掻きむしる、白い指先。<BR>
 絡む蜜色の絹のような髪。<BR>
 前髪のあいだから、見上げてきたすみれ色の瞳。<BR>
 散らされた命。<BR>
 自分を求めるあのたおやかな手。<BR>
 赤い、艶やかなくちびる。<BR>
 愛しい存在を殺めたのは、いったいどれほど昔のことだろう。<BR>
 あれは、この血を絶やすためには必要な。<BR>
 違う。<BR>
 ただ、自分は怯えていたのだ。<BR>
 罪を犯すことを。<BR>
 愛しいものを殺したことよりも、より恐ろしい、罪を犯すことを。<BR>
 狂おしいすみれ色のまなざし。<BR>
 自分を求めた、血肉を同じくする存在。<BR>
 片割れを殺した罪は、償った。<BR>
 あの、清潔で冷たい、整然とした灰色の部屋の中で。<BR>
 そうして、ようやく、ここに来ることが叶ったのだ。<BR>
 双子の姉を殺した時は、未だ幼い少年に過ぎなかった若者が、塔への一歩を踏み出した。<BR>
「いったい、何のための塔なんだ」<BR>
 抵抗もなく開いた鉄の黒い扉をくぐると、ただ広い空間が明かり取りの窓から射す琥珀に薄ぼんやりと照らし出されていた。<BR>
「台所?」<BR>
 目を眇め見渡した視界に小さな木の扉が見えた。その奥にあるのは、中世の当時としては完璧な設備だったろう。<BR>
 他にあるものと言えば、塔の壁に埋め込まれた階段だった。<BR>
 壁全体をくるりと取り巻くように、上へと。<BR>
 見上げた若者を、遥か高みにある深い闇が手招いた。<BR>
 そんな気がした。<BR>
<BR>
※ ※ ※<BR>
<BR>
 罪だ。<BR>
 罪ばかり。<BR>
 流れる血の一滴まで、アルシードの末に与えられているのは、罪だけでしかない。<BR>
 肉親に対する執着、劣情。<BR>
 その結果生まれた己たち。<BR>
 幾世代もの血の澱みを受け継いだ、罪にまみれた存在だった。<BR>
 それを知りつつ互いを求め、認めることもできずに片割れを殺した。<BR>
 新たな罪の子を生まれさせることはできなかった。<BR>
 若者は、思う。<BR>
 罪に狂えた姉がうらやましいと。<BR>
 狂えなかった己を、どれほど嫌っただろう。<BR>
 狂った姉を、どれほど、厭い、どれほど、愛しただろう。<BR>
 飽きるほどに流し終えたはずの涙が、また、若者の頬を濡らし落ちた。<BR>
<BR>
 高い塔の上。<BR>
 幾重にも鍵をかけられた鉄の扉が若者を待ち受けていた。<BR>
 それを見た途端、背筋を悪寒が走り抜けた。<BR>
「この奥か」<BR>
 頑丈そうな南京錠を見ながら、それでも、不思議と解錠に不安を感じることはなかった。<BR>
 手を伸ばせ。<BR>
 それだけでいい。<BR>
 操られるように、若者は、錠に触れた。<BR>
<BR>
 息を呑んだ。<BR>
 白い、清浄な部屋を彩るのは、獣毛をしとどに濡らす赤い血の色。<BR>
 視界が眩んだ。<BR>
 背中を袈裟懸けに裂かれた細い肢体が蹲る。<BR>
 風雪に窓が鳴る。<BR>
 いつ部屋に現われたのか。<BR>
 それは、黒い髪黒い瞳の、壮年の男だった。<BR>
 若者は、その男を知っていた。<BR>
 いや、見た記憶があった。<BR>
 旧王宮の広い廃墟の石像群の只中に、悲嘆の王と名うたれた石像があった。<BR>
 アルシード第十三代国王グレンリード。<BR>
 アルシード史上記録に残る善政をひいた王は、また悲劇をまとってその生を終えた。最愛の王妃との間にもうけた第一王子を失い、やはり数年後、王妃を亡くした。十数年後に取り戻した第一王子はやはり数年後に死んだ。歴史に、その名を失われた王子とだけ残して。<BR>
 十三代国王は、第一王子の死後ほどなくして死んだ。<BR>
 まるで、第一王子の後を追うかのような死だった。<BR>
 そうして歳若くして王位に就いた第十四代国王の最盛期に、国は滅んだ。<BR>
 それはまるで何かの呪いのようだったと。<BR>
 おそらくは、それこそが、アルシードの末裔に伝わる呪いの最初だったのだろう。<BR>
「オイジュスよ」<BR>
 グレンリードの口が空気を震わせた。<BR>
「我が王子よ」<BR>
 嘆く王の流す涙が、血にまみれた若者の顔を濡らした。<BR>
 瞼の下から現われた褐色のまなざしが、ひときわ大きく見開かれ、涙を流す。<BR>
 首を横に振る。<BR>
 その弱々しい抵抗を、王が止める。<BR>
「動くな」<BR>
「今、医師を呼ぶ」<BR>
 それに、引き結ばれていた若者のくちびるが歪む。<BR>
 何かを言いかけて、力つきた。<BR>
 鋭く黒いまなざしが、刹那光を失った。<BR>
 次の瞬間、王のくちびるから、絶叫がほとばしった。<BR>



****

言い訳

 この話の元話が自棄に気に入ってるのか、不満があるのかのどちらからしくて、最近、いじり倒してます。
 要するに、作者に寄る自己満足の二次創作? ちと違うかxx

 タイトルも、「罪のカドリール」と悩んだんですけどね。
 カドリールもロンドも似たようなもんだし……違う! 延々と回ると言えばトルコのあれでもいいかもしれんxx 思考が変な方向に向かいそうになったので、穏当なタイトルを。
 昨夜の熱はひいたのですが、まだ少々名残があるのかもxx
 少しでも気に入ってくださると嬉しいです。といいつつ、続くのでしたxx
<BR>
<BR>
<BR>
 それを何と呼ぶのか。<BR>
 薄れ行く意識の中で、郁也は嗤った。<BR>
 襲われたというのにいまだ信じようとはしない自分自身をなのか、それが実在するという現実をなのか、郁也には判らなかった。<BR>
 くそったれ。<BR>
 まぶしいばかりの白銀の月が、既に遠ざかり行く男の姿を黒い墨としていた。<BR>
<BR>
 それが、昨夜のことだ。<BR>
 塾帰りの街角で、いきなり襲われたのだ。<BR>
 駅に向かう繁華街は、本道さえはずれなければ、街灯に照らされて昼のようだ。<BR>
 ひとの姿も絶え間ない。<BR>
 それなのに、なぜ。<BR>
 何故、自分だったのか。<BR>
 通り魔だったろう。<BR>
 名の通りに。<BR>
 憎いと思っても、名も顔も知りはしない。<BR>
 ひとならざるもの。<BR>
 ブラインドを下ろした部屋の中、布団をかぶって尚日射しがまばゆい。<BR>
 郁也は震えた。<BR>
 頭が痛い。<BR>
 気分が悪い。<BR>
 喉が渇く。<BR>
 心臓の音がうるさい。<BR>
 血液が管を流れる音が、うるさくてたまらない。<BR>
 ああ。<BR>
 もう。<BR>
 自分は。<BR>
 ひと。<BR>
 では………。<BR>
 なくなったのだ。<BR>
 なくなってしまったのだ。<BR>
 引きずり込まれた細い路地裏で、見上げた細い銀の月をまぶしいと感じた時から。<BR>
 あの墨のような男に血を吸われてから。<BR>
 このままでは自分が何をするのか、郁也には判った。<BR>
 痛いくらいにわかっていた。<BR>
 それは、映画や漫画、そうして小説からの知識だったが。<BR>
 そう外れてはいないだろうとことが、判っていたのだ。<BR>
 家族を襲う。<BR>
 病院に入れられる。<BR>
 もしくは。<BR>
 この渇きと苦痛に堪えられず、狂ってしまうだろう。<BR>
 そうなれば、おそらく。<BR>
 見境のない化け物になってしまうのだ。<BR>
 血に飢えた、化け物。<BR>
 怖い。<BR>
 自分が。<BR>
 自分を殺そうとするだろう、世界が。<BR>
 殺される前に。<BR>
 殺す。<BR>
 想像が郁也の心を戦かせる。<BR>
 駄目だっ!<BR>
 それくらいならいっそ病院に?<BR>
 それも、恐ろしかった。<BR>
 研究対象とされる日々はやはり怖い。<BR>
 狂ってしまえばそうではないだろうが。狂えないままの日々は、苦しいだけだろう。<BR>
 家を。<BR>
「出るしかないのか………」<BR>
 幸い自分は一人息子ではない。両親も最初は寂しがるだろうが、やがては諦めるだろう。<BR>
 失踪する人間など山のようにいる。<BR>
 自分もそのひとりになるだけだ。<BR>
 問題は、どうやって暮らしてゆくか。それだった。<BR>
 自分の貯金をかき集めたとしても、どれほどにもならないだろう。<BR>
 いいところ数万か。<BR>
 バイトもしない高校生などそんなもんだ。<BR>
 夜の街に受け入れてもらうにしても、自分はまだ十六だ。歳をごまかせたとして、住む所はどうする? 働き先は?<BR>
 ホームレスにまぎれて、日々をどうにか。<BR>
 そんな日々が頭に浮かんだ。<BR>
 イヤだ。<BR>
 イヤだ。<BR>
 イヤだっ!<BR>
 夢もあった、希望もだ。<BR>
 それが突然理不尽にも奪い去られた現実に、郁也は首を振った。<BR>
 目が回る。<BR>
 その時だ。<BR>
「郁ちゃん。お昼食べられる?」<BR>
 ドアをノックする音がして入って来たのは、年の離れた姉だった。<BR>
「どうしたの? ブラインドも開けずに」<BR>
「駄目だっ! 開けるな」<BR>
 思わず布団から飛び出して姉を遮る。<BR>
「危ない。やけどするじゃない」<BR>
 ブラインドを背に姉の前に立つ。<BR>
 握った姉の手から伝わる熱に、その血液の脈動に、喉が鳴った。<BR>
 欲しい。<BR>
 飲みたい。<BR>
 思考がそれだけに支配されそうな恐怖に、郁也は戦慄する。それは、まぎれもない、絶望を伴うものだった。<BR>
 それまでは、まだ、どこかで妄想を弄んでいるようなものだったのにちがいない。<BR>
 それが、リアルな恐怖に取って代わられたのだ。<BR>
 血が下がる。<BR>
 からだが冷えてゆく。<BR>
 寒い。<BR>
 震える。<BR>
 全身が震え、脂汗が流れる。<BR>
「大丈夫?」<BR>
 顔を覗き込んで来る姉の動きに、甘い血の匂いを嗅いだと思った。<BR>
「出てけ」<BR>
 だから、郁也は姉を突き飛ばしたのだ。<BR>
 姉の怒りは怖くなかった。<BR>
 怖いのは自分だったからだ。<BR>
 姉を襲い血を飲むだろう自分だった。<BR>
『もう、勝手になさいっ」<BR>
 ごめん。<BR>
 謝罪は声にはならなかった。<BR>
<BR>
 その夜、郁也は姿を消した。<BR>
 家族は必死になって郁也を探したが、彼らが郁也を見つけることは決してなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 星の綺麗な夜だった。<BR>
 空気は既に冬も深まったことを教えている。<BR>
 寒い。<BR>
 寒くてたまらない。<BR>
 だというのに、寒さよりも孤独が、孤独よりも飢えが、身をより苛んだ。<BR>
 血を得る術を郁也は知らない。<BR>
 ひとを襲うことをよしとはできなかった。<BR>
 だけに、いや増す飢渇が郁也を苦しめる。<BR>
 しかし、これだけは、譲れなかった。<BR>
 自分にこんな意地を張ることができるなど、郁也は考えたこともありはしなかったが。<BR>
 やればできるもんなんだな。<BR>
 漠然とそうとだけ思う郁也だった。<BR>
 家を出て、一ト月になるだろうか。<BR>
 その間口にしたものと言えば、水だけだった。<BR>
 案外生きれるもんだな。<BR>
 化け物が生きてるって言えるのかどうかは知らないけどな。<BR>
 肩を竦める。<BR>
 ふらふらと町をさまよい、町を出た。<BR>
 ひとを襲いそうになる自分を恐れて、ひとがいない場所を選びつづけて遂に、山に踏み込んだ。<BR>
 現代っ子の郁也にはサバイバル経験も知識もない。火をつけることすら道具なしにはできないのだ。ましてや、獣を獲る術など。あるのはただ、ひとではなくなったからだひとつである。<BR>
 それが幸いか災いか、は、既に郁也の中では決着がついている。<BR>
 言うまでもなく。<BR>
 考えるまでもなく。<BR>
 山奥に見つけた洞窟で夜露をしのぎながら、郁也は考える。<BR>
 考えようとする。<BR>
 しかし。<BR>
 頭を占めるのはもはや、ただ、飢渇ばかりだ。<BR>
 空腹と、喉の渇き。<BR>
 血が飲みたいという欲望ばかりだった。<BR>
 それを抑えようと含む水は、ただひたすらに虚しさばかりを郁也に与えた。<BR>
 そんな自分の震えるからだを両手で抱きしめる。<BR>
 治まれと、口癖になったことばを口ずさむ。<BR>
 しかし、紡ぐことばは人語にならず、ただの呻き声となり、空気に消える。<BR>
 理性が消えるのは時間の問題と思えた。<BR>
 もとより、我慢強い方ではない。<BR>
 一ト月も、よく保ったと言えるだろう。<BR>
 見えるものは、もはや、死だけだった。<BR>
 化け物になって、死ぬのか。<BR>
 突然脳裏をよぎった予想に、郁也の呻きが嗤いに取って代わった。<BR>
 ケラケラと、狂ったような空虚な嗤いが、銀粉をまぶしたかの星空に消えてゆく。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「強情な」<BR>
 黒衣をまとった男がつぶやいた。<BR>
 星の美しい夜の底で、郁也が嗤っている。<BR>
 梢の間から、男は行くやを見下ろした。<BR>
 見失った個体を見つけてみれば、未だ不完全なままだった。<BR>
 簡単に堕ちると思ったのだ。<BR>
「意外や骨があったのか」<BR>
 今時の若者らしく柔軟と言えば聞こえがいいが、精神面が脆弱そうな少年に見えたのだが。<BR>
「堕ちてこい」<BR>
 誰でもよかったのだ。<BR>
 実を言えば。<BR>
 男でも女でも、若かろうと幼かろうと歳を寄せていようと。この永い生に飽いた自分を楽しませてくれるのなら。<BR>
 だというのに。<BR>
 あの若者は、自分が血を吸った後の飢渇を、一ト月もの間耐えているのだ。<BR>
 すぐに折れ、ひとの血を吸うことにも慣れると思ったのだが。<BR>
 吸わなければ、完全体になることはない。ならないからこそ、吸うことを堪えられるのか。しかし、吸わなければその身を襲う飢渇は地獄の責め苦にも似たものなのだ。すなわち、絶えることのない苦痛である。<BR>
 この一ト月で、郁也の身はやせ細り、目は飢えに苦しみにぎらついている。幾度も噛み破ったのだろう、くちびるはかさつき血を滲ませる。<BR>
 男の舌が、己がくちびるを舐め湿した。<BR>
 ビルの谷間で吸ったあの血の味を思い出す。<BR>
 芳しく甘かった。<BR>
 男は喉を鳴らした。<BR>
 からだの奥深くで、久しく打つのを止めた鼓動が刹那の間よみがえる。<BR>
 束の間とはいえ、冷えきったからだに熱がともったのだ。<BR>
 戯れなどではなく、心の底から飲みたいーーーと。<BR>
 男は、郁也を見てはじめて、そう思った。<BR>
 黒衣の男がその手を郁也に伸ばした。<BR>
 その手が郁也に届くかに思えた時。<BR>
「チッ! 物好きな」<BR>
 男の舌打ちが聞こえ、梢の狭間に気配が消えた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あたたかい。<BR>
 どうしてこんなに気持ちいいんだ。<BR>
 しかし。<BR>
 欲しい。<BR>
 目覚めた視界いっぱいのまばゆい光に、刹那の心地好さは、瞬時にして凶暴なまでの飢えに取って代わられた。<BR>
 寒い。<BR>
 喰わせろ。<BR>
 飲みたい。<BR>
 凶悪なまでの衝動に、手を伸ばした。<BR>
 振り払おうともがく感触に、力をこめる。<BR>
 そのまま引き寄せ、無意識の命じるままに引き倒したものの首筋に顔を埋めようとした。<BR>
 そうして、我に返る。<BR>
 なにをしようとしたのだ。<BR>
 立ち上がると同時に後退する。<BR>
 本能が警鐘を鳴らす。<BR>
 駄目だーーーと。<BR>
 飲んでは駄目だ。<BR>
 ひとを喰らったら最後だ。<BR>
 そうすれば、じぶんは、ひとではなくなってしまうだろう。<BR>
 嬉々としてひとの血を啜る鬼になる。<BR>
 なってしまう。<BR>
 郁也は口を押さえた。<BR>
 おそらくは。<BR>
 なってしまえば、自分はひとを獲物としてしか見なくなるだろう。<BR>
 そうなれば、次々と、飢えにせっつかれるままひとの血を啜りつづけるようになってしまう。<BR>
 なってしまった方が楽なことは判っていた。<BR>
 それでも。<BR>
 しかし。<BR>
 自分はひとなのだーーーと。<BR>
 郁也は思うのだ。<BR>
 ひとでいたいーーーーと。<BR>
 既にこの身はひとではないとしても。<BR>
 心までも化け物になってしまいたくはないのだと。<BR>
 そんな自分がいるなどと、ひとであったころには考えもしなかった。<BR>
 どこかひとつでよかった。<BR>
 他人とは違う自分でありたかった。<BR>
 他人よりも優れている。<BR>
 他人とは違って何かがある。<BR>
 そうでありたいとどれだけ夢見ただろう。<BR>
 しかし、また、それは夢でしかないのだとイヤになるくらいに判っていた。<BR>
 夢は夢でしかないのだと。<BR>
 なのにどうして。<BR>
 叶ってしまったのだろう。<BR>
 何もない者に、なってしまった。<BR>
 何もない。<BR>
 家も家族も、熱も。<BR>
 なにもありはしないのだ。<BR>
 自己憐憫の涙が郁也の頬を濡らした。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 痩せて汚れた男が声もなく涙を流す。<BR>
 鷺沢柊悟はそれを見上げていた。<BR>
 ひとではないかのような力だった。痩せた手からは考えられないほどの力で引き寄せられ、引き倒された。そうして、発達した犬歯が剣呑な光を宿したと思った。<BR>
 手を押さえ、首筋に触れたくちびるは、恐ろしいほどに冷たかった。<BR>
 まるで、死人ででもあるかのように。<BR> 
 犬歯が当てられた箇所がいっそ熱いほどだった。<BR>
 若い男の唇が触れた箇所をするりと撫でた。<BR>
 鷺沢は、若い男から視線を外して己の掌を見た。<BR>
 どうもなっていないようだった。<BR>
 鷺沢は何故だか判らないままで、ほっと安堵した。<BR>
<BR>
 気分転換に別荘を抜け出した先で、彼はそれを見つけた。<BR>
 薄汚れた若い男だ。<BR>
 苦しそうに呻き、意識もそぞろのようだった。<BR>
 触れた額の熱は恐ろしいほど低かった。<BR>
 このままでは死ぬか。<BR>
 そう考えて、鷺沢は若い男を別荘へと連れ帰ったのだ。<BR>
<BR>
 荒い息は獣じみている。<BR>
 ぼさぼさの前髪の下の目もまた、飢え餓えた獣のようだ。<BR>
 赤く輝き、渇望しつつ、怯えている。<BR>
 何に怯えているのか。<BR>
 思うのはただ、哀れなというそれだけだった。<BR>
「大丈夫だ」<BR>
 ひそやかに、相手をあれ以上怯えさせないように、鷺沢はささやくように告げる。<BR>
 落ち着くのだと。<BR>
 そんなに涙を流すなと。<BR>
 そんなに怯えないでくれと。<BR>
<BR>
 薄汚れた、おそらくはひとではないだろう相手にだ。<BR>
<BR>
 それは、鷺沢の芸術家としての直感だったのかもしれない。<BR>
<BR>
「血を、飲みたいのか」<BR>
 問いかけに、若い男の肩が跳ねた。<BR>
 動きを止めて、赤い目が鷺沢を見返す。<BR>
 不安げに揺れる赤いまなざしに、<BR>
「ちょっと待て」<BR>
 鷺沢は笑んで見せた。<BR>
 テーブル上のナイフを取る。<BR>
 怯む男に目交ぜをして、掌に刃をすべらせた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 渇望した赤が目の前にある。<BR>
 目の前が大きく回る。<BR>
 視界はただ深紅に染まった。<BR>
 大きく呻くや、郁也は男の掌に顔を近づける。<BR>
 甘い匂いだ。<BR>
 求めつつ忌避した匂いだ。<BR>
 飲みたい。<BR>
 駄目だ。<BR>
 駄目なんだ。<BR>
 けど!<BR>
 限界だ。<BR>
 もう、限界なんだ。<BR>
「遠慮は要らん」<BR>
 男の落ち着いた声が、郁也の葛藤に決着を付けた。<BR>
 くらくらとくらむ視界のその中に、郁也は男の顔を見出した。<BR>
 三十くらいだろう、育ちの良さそうな美丈夫だった。<BR>
 その掌に血をたたえて、男は郁也に笑みかけていた。<BR>
「ありがとう」<BR>
 掠れた声が、郁也の喉から押し出された。<BR>
 結局郁也は鷺沢の掌の血を飲むことはなかった。<BR>
 冗談めかして「もったいない」と言われたものの、できなかったのだ。<BR>
<BR>
 目ばかりが目立つ。<BR>
 いつの間に赤くなってしまっていたのか、鏡の中から己を見返す目に、怖気が出た。<BR>
 痩けた頬。<BR>
 色艶の悪い肌。<BR>
 バサバサに伸びた、髪。<BR>
 鏡にまだ自分が映るのだと、どこかでほっとしている自分がいる。<BR>
 それで言うなら、水も飲めないところだろうが。<BR>
 ならファンタジーの何処までが真実なのか、虚偽なのか。<BR>
 郁也はぼんやりとただ湯に浸かっていた。<BR>
 血を飲んだわけでもないというのに、なぜか飢渇は薄れていた。<BR>
 あれほどまでに自分を苛んでいたというのにだ。<BR>
 一体何が起きたのか。<BR>
 何故こんなにも心穏やかになれたのか。<BR>
 からだを拭き、鷺沢のものだろうサイズの違うパジャマを身に着ける。<BR>
 それだけで、なんだかひとに戻れたような錯覚があった。<BR>
「ふ」<BR>
と、笑う。<BR>
 不思議なひとだ。<BR>
『使うといい』<BR>
 鷺沢は、何も聞かずそう言ってこの部屋を貸してくれた。<BR>
「襲ったんだけどな」<BR>
 失敗したが。<BR>
 おそらくは、失敗してよかったのだろう。<BR>
「殺さなくてよかった」<BR>
 
 
2011/12/10 20:25
2011/12/11 11:13
 <BR>
<BR>
<BR>
 まだかすかに幼さの残る肢体を背中から抱きしめる。<BR>
 既に滾る情熱を受け入れている箇所が、その刺激にきつく引き攣れるように震えた。<BR>
 それに、思わず出そうになった声を殺す。<BR>
 逃げようと伸ばされる腕を、引き止めるように鷲掴んだ。<BR>
 逃がすわけが無い。<BR>
 許せるはずも無い。<BR>
「オイジュス。我が王子よ」<BR>
 熱くささやけども、オイジュスは王を見ようとはしない。<BR>
 ただ頑に、ひたすらに、王を拒絶する。<BR>
 悲鳴を上げて泣き叫ぶオイジュスは、決して王を見ることはない。<BR>
 それは、己たちが犯す罪の深さゆえか、それとも、自らを蹂躙する王をそこまで嫌い抜いているからなのか。<BR>
 知る術は、もはや無いのだろう。<BR>
 なぜなら、王がその手で、自らオイジュスを殺し、心を打ち砕いたからだ。<BR>
 オイジュス。<BR>
 彼の王子。<BR>
 愛しい、その息子を。<BR>
<BR>
 吹きすさぶ風雪が塔の窓を打ち据える。<BR>
 燃え盛る暖炉の炎が床に敷き詰めた白い毛皮を暖色に染め上げる。<BR>
 心砕けた息子を腕の中に捉え淫らな戯れを仕掛けながら、王は炉の中で踊る炎を眺めた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ユウフェミア。<BR>
 王が愛した唯一の后が、かすかな微笑みをたたえて、彼を見た。<BR>
 細い手を取り、心の底からの感謝を込めて、その白く儚い手の甲へとくちづける。<BR>
 ユウフェミアの横たわる褥の横には小さなゆりかごがある。そこに眠る生まれたばかりのいのちに、王の心は沸き立っていた。<BR>
 心の底から愛する后が生んだ、初めての子。<BR>
 おそらくは、妃の最後の子でもあるだろう王子を見て、王は親指に嵌っていた指輪を抜いた。それを后に贈るつもりで運ばせていた繊細な細工の首飾りに通して王子の首にかける。<BR>
 シャラリとかすかな音をたてた金の鎖に通された赤い石の嵌った指輪が、きらりと光を弾いた。<BR>
「我が子オイジュスよ。そなたに王太子の位を授けよう」<BR>
 我のすべてを、いずれそなたに譲り渡すべく。<BR>
 それは、本心からの誓であったのだ。<BR>
 まさか、その数日後、王太子の披露目の式典で、王子が攫われるなどという奇禍が起こるなど、誰が想像し得ただろう。<BR>
 元来丈夫な質では無かった后が命を危険に曝してまで生んだ王子であった。<BR>
 ユウフェミアの嘆きは、王の心を締め付けた。<BR>
 わずか数日とはいえ、この腕に抱いた王太子のあたたかさも重みも、すっかり彼を虜にしていた。<BR>
 このいとけない存在がユウフェミアが命をかけて生んだ自らのこどもなのだと思えば、その奇跡にも等しいものに、王の心が感動に震えた。<BR>
 だというのに。<BR>
 国中をくまなく探させた。<BR>
 犯人の探索もぬかりなく行わせた。<BR>
 それでも。<BR>
 彼の王子の行方は、杳として知れなかったのだ。<BR>
 王子はどこに。<BR>
 生きているのか死んでいるのか。<BR>
 それすらも判らぬままに、徒にただ日々は流れ去ってゆく。<BR>
 ユウフェミアにはもう子を生むことは適わなかった。<BR>
 無情な侍医の宣告に、周囲は、王に妃を持つようにと進言した。<BR>
 王には逆らう術も在りはしなかった。<BR>
 王の第一の義務として、国のために跡取りを持たなければならないのだ。<BR>
 それでも。<BR>
 王が心から愛するのは、ただユウフェミアと行方の知れないままの王太子オイジュスだけなのだった。<BR>
 有力な貴族の娘が選ばれ、妃の舘に招き入れられた。<BR>
 嘆き疲れたユフェミアを残し、妃の元へと通うことに、心が晴れるはずもなかった。<BR>
 心は常に后と王太子のもとにあった。<BR>
 それ故に、妃の生んだ子に王太子の地位を授けることだけは、どうしても諾うことができなかった。<BR>
 もしも、オイジュスが戻ってきた時に、王太子の地位が既に塞がっていたとすれば、オイジュスは絶望するのではないか。<BR>
 そう思えば、宰相がなんと進言して来ようと、首を縦に振ることはできなかった。<BR>
 そうして、オイジュスが奪われて三年目のあの日、ユウフェミアもまた、帰らぬものとなったのだ。<BR>
 冬だった。<BR>
 あたたかな室内から薄着のままに外に出て、ユウフェミアは王の元から去っていった。<BR>
 あれ以来、王の心の中には、吹雪の音が鳴り響いている。<BR>
 ユウフェミアの命を奪った吹雪の音が、鳴り止まぬままに心を凍らせているのだった。<BR>
<BR>
 そうして、尚も十年の歳月が流れた。<BR>
<BR>
<BR>
 あの日。<BR>
 あの春まだ浅い辺境の大地で。<BR>
 土にまみれた幼い少年を刺客かと騒ぎ立てた臣下をおさめるためにも、狩猟用の天幕に連れ戻った。<BR>
 それだけに過ぎなかった。<BR>
 もはや、王太子に対する諦めが彼の心のほとんどを占めていたのだ。<BR>
 王太子、オイジュスは死んだのだ。<BR>
 しかし、それでも。<BR>
 第二王子に王太子の位を授ける踏ん切りだけはつかなかった。<BR>
 どれだけ、第二王子に王の資質がほの見えようとも、妃や宰相に詰め寄られようとも、諦める心の反対側に、かすかにまだ王太子に対する希望の欠片が残っていたのだ。<BR>
 無事に生きているとするなら、どんな少年に育っているだろう。<BR>
 想像の中の王太子が実の父に見捨てられたと知った時に見せるかもしれない絶望の表情が、あの運命の日のユウフェミアの絶望の表情に重なるような気がしてならないのだった。<BR>
 テオと名乗った幼い少年の首から下げた革袋を、臣下が取り上げ、逆しまに振った。<BR>
 そこから光を弾き転がり出してきたもの。<BR>
 それを見た瞬間、王の心臓は、確かに鼓動を止めた。<BR>
 他の誰でもない、王自身が手ずから王太子の首にかけた、金の鎖と紅玉の指輪。<BR>
 忘れるはずもない。<BR>
 指輪は代々の王に伝えられてきた、少し無骨な装飾が施されたものだった。<BR>
 テオ……と、名乗った少年から、視線を外すことができなかった。<BR>
 その場ですぐに、オイジュスと、名を呼びたかった。<BR>
 それをしなかったのは、少しだけ頭を冷やしたかったからだろう。<BR>
 心は、その少年がまぎれもなく自分の息子だと、告げていた。<BR>
 しかし。<BR>
 違っていたとしたら。<BR>
 だから、腹心の部下に少年の身元を調べるように命じた。<BR>
 結果が伝えられるまでの間、もはや狩りなどつづけていられる気分ではなかった。<BR>
 王は、領主の舘に撤収を命じたのだった。<BR>
<BR>
 まぎれもない我が子だと。<BR>
 王の心は、快哉をあげていた。<BR>
 何があったのか。<BR>
 その場には争いの跡と、流された血、それに、湖に浮かぶ死体が二つあったのだという。<BR>
 かかわり合いになった流れの民はすぐに犯人に仕立て上げられかねない。<BR>
 そう考えて、彼らは、泣きつづける赤ん坊を拾い上げ、そうして、その場から逃げるように立ち去ったのだ。<BR>
 赤ん坊を包んでいた布に、アルシード王家の紋章が刺繍されていることに気づいたのは、既に国境を越えた後のことだったと言う。<BR>
 部下が差し出す古びた布を手に取り、王の目からは、涙があふれだした。<BR>
 よくぞ。<BR>
 よくぞ、その赤子を見捨てずに育ててくれた。<BR>
 森の奥、深い湖のほとりで、心細い泣き声を上げていた赤ん坊を拾い上げ育ててくれた流れの民に、王は、心の底からの感謝を伝えたのだった。<BR>
 運命の悪戯に翻弄されたあげくようやく戻って来たオイジュスに、王は、心を奪われた。<BR>
<BR>
<BR>
 陽によく灼けた健康的な少年だったが、その発育の遅さがどこか既に亡い彼の后を彷彿とさせた。<BR>
 テオと長年呼ばれて貧しい生活をしてきた少年が、オイジュスという名と王太子という地位に馴染めずに困惑していることを、感じてはいたがそれは時が解決してくれるだろうと楽観視していた。<BR>
 なによりも、王の元へと戻ってきたのだ。<BR>
 それで、充分だった。<BR>
 十三年間の空白を、どうやって取り戻そう。<BR>
 そればかりが、王の頭の中を占めていた。<BR>
 
 
 
15:26 2011/02/13
カレンダー
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
フリーエリア
最新コメント
[09/14 水無月]
[09/09 NONAME]
最新トラックバック
プロフィール
HN:
工藤るう子
性別:
非公開
バーコード
ブログ内検索
最古記事
(11/29)
(12/01)
(12/01)
(12/01)
(12/02)
(12/02)
(12/02)
(12/12)
(12/12)
(12/12)
(12/12)
(12/15)
(12/15)
(12/15)
(12/15)
(12/15)
(12/15)
(01/31)
(01/31)
(01/31)
(01/31)
(01/31)
(02/01)
(02/01)
(02/01)
P R
Powered by Ninja Blog Photo by COQU118 Template by CHELLCY / 忍者ブログ / [PR]