小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
<BR>
<BR>
夜。<BR>
ハロルドでさえも寝入っただろうに違いない深夜遅く。<BR>
何もない夜に、不意に僕は目覚めた。<BR>
誰かに頬を張られたかのような突然の覚醒だった。<BR>
おそらく、その感覚は正解だったのだろう。<BR>
心臓が止まるような恐怖に、僕は目を閉じる術さえも忘れてそこを凝視していた。<BR>
間違いなく暗い闇の中に。<BR>
ろうそくの灯りひとつ、電灯の灯りひとつない室内に、ぼんやりと浮かび上がるそれ。<BR>
それ自体が光を放つのか、ぼんやりとうっすらと靄のような霧のような光のようなものをまとい浮かび上がるのは、間違いなく、母だった。<BR>
いつか見た悪夢の中で首を吊って死んでいた母そのままの姿には、記憶の底にある貴族の令夫人の美しさなどどこにも見当たらず、ただ、常ならぬものを見ているという恐怖に襲われる。<BR>
起き上がろうにも逃げようにも動かぬ全身に、おぞましい存在が身近に存在するということに、冷たい脂汗がにじみ出る。<BR>
「ははうえ………」<BR>
と。<BR>
乾いた口でそう呟いたはずだった。<BR>
けれど、声は出ない。<BR>
くちびるは動かない。<BR>
惚けたように開いていた口から、空気が漏れるかのようにかすかすと音が溢れるだけだった。<BR>
全身を小刻みに震わせながら、それでいて目を瞑ることさえも忘れたような僕の目と鼻の先に、ついと、迫ってきたのは、母の顔だった。<BR>
くちびるからだらしなくぞろりと伸びた長い舌が、僕の顔に触れる。<BR>
青みを帯びて紫に変色したそれがやけに生々しく感じられて、<BR>
ヒッ−−−と、息を呑むような短い叫びが喉の奥から漏れたような気がした。<BR>
実際には、それさえもできないほどにきつい超自然の拘束に、悲鳴さえあげることはできなかったのだけれど。<BR>
乱れた髪の間から覗く白眼の割合の高い目が、僕を凝視してくる。<BR>
その目にあるのは、当然のこと慈愛や懐かしさなどではなく、ただただ恨めしいと、憎たらしいと、そういった嫉妬めいたものばかりで。それが、僕をいっそうのこと震え上がらせるのだ。<BR>
眼球を覆うことなく溢れてこぼれ落ちる涙がこめかみを滑り落ちる感触に、これが間違いなくリアルなのだと、ただの悪夢なのじゃないのだと、思い知らせてくる。<BR>
首筋に触れてくる尖った爪先の感触に、あの遠く幼い日に絡みついてきた母の手を思い出す。<BR>
僕を殺そうとした、母。<BR>
それまでも、間違いなく、僕を甚振りつづけた、母のたおやかな手。<BR>
震えは止まらない。<BR>
涙は止むことなく、視界を遮る。<BR>
それだえもが怖かった。<BR>
次に何が起きるのか、目で見ることができないことが。<BR>
怖くて、怖くてたまらなくて。<BR>
悲鳴をあげることさえできない自分が情けなくてならなくて。<BR>
ぞろりと湿った何かが僕の頬に触れた。<BR>
それが何なのか考えるまでもなく。<BR>
それと同時に、僕の首をきつくきつく締め上げてくる。<BR>
綺麗に整えられたピンク色の爪が、僕の喉頸を突き破る。<BR>
そんな怖気さえ覚える情景が、脳裏をよぎって、そうして僕は意識を失ったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
「横になられませんか」<BR>
トーマスの言葉に、僕は僕がいつの間にかカウチに座ったままで眠っていたことに気づかされた。<BR>
「いや、いい」<BR>
少し身じろいだはずみで膝に開いた画集が音を立てて床に落ちる。<BR>
それを拾い上げるトーマスのつむじを通り越して、窓の外を僕は眺めた。ピンクや白の花をつけ始めた沈丁花や椿などが見える。灰色の空の下、花々の彩りだけがとても優しく感じられた。カウチから立ち上がった僕は窓辺のカードテーブルの上のスケッチブックを取り上げて、新しいページを開いていた。<BR>
クリーム色の紙の上に、鉛筆で線を描いてゆく。<BR>
そう。<BR>
花を描いていたはずなのだ。<BR>
部屋の窓から見える沈丁花や椿を。<BR>
それなのに、ここは。<BR>
足元にコツンと触れてくる感触に視線を向けると、そこには黒猫がいた。<BR>
「おまえ、僕はここで何をしているんだろう」<BR>
猫を抱き上げ、金の目を見やりながら呟く。<BR>
記憶は、ない。<BR>
「ここは、北の領域だろうか?」<BR>
問わず語りに、独り言散る。<BR>
薄暗く埃っぽい廊下は屋根裏だろうと見当をつける。人の気配がないところから鑑みるに、北の領域に間違いないだろう。北の屋根裏は基本的に物置に使われているはずだった。<BR>
くたびれて薄っぺらい絨毯を踏みながら、まっすぐに伸びる廊下を歩いた。<BR>
暗い。<BR>
以前はここに来れば落ち着いたというのに。<BR>
今では、背筋を撫で上げてくるのは、ひりひりとする緊張感だった。<BR>
僕の足音に混じって、心臓の音が大きく聞こえる。<BR>
少しでも何かにすがりたくて、腕の中の猫を意識した。<BR>
喉鳴りが聞こえる。<BR>
三つの音にだけ意識を集中させて、光を求めて僕は主階段を目指した。<BR>
<BR>
<BR>
「父上、リボンを下さい」<BR>
震える声で、そう懇願する。<BR>
両手首さえ自分で父の目の前に差し出した。<BR>
背筋が冷たい。<BR>
全身が震える。<BR>
父の、僕を見下ろしてくる眼差しが、訝しげなものになる。<BR>
僕の部屋で、僕の寝台の上で何がこれから行われるのか、知らないわけもない。<BR>
ただ、どうしてか、父はリボンを使おうとしなくなった。<BR>
「なぜだ」<BR>
父の黒い髪が、その動きにかすかに乱れる。<BR>
「そういうのが好きになったのか」<BR>
カッと全身に朱が走った。<BR>
父の黒紺色の目を見ることができなくなる。<BR>
なぜ、父は………。<BR>
「お願いですから」<BR>
母が見ているのだ。<BR>
見ていて、どうしてリボンを使わないと、後で僕を責める。<BR>
リボンがなければ、僕になり代わることができないのだからと。<BR>
その身を明け渡せと。<BR>
父は、母のものなのだから、と。<BR>
そのあまりに当然の理を僕が破ったと。<BR>
死んだ母が、死んだ時の姿で、僕を責める。<BR>
何度首を絞められただろう。<BR>
母の尖った爪が肉を破る感触さえリアルなのに、朝が来れば、後形など露ほども残ってはいない。<BR>
だから、誰も、気づかない。<BR>
僕以外、母の執着に、未練に、気づくものはいない。<BR>
「わかった。ハロルド」<BR>
え? と、思った。どうしようもなく昂った熱が一気に冷めてゆく。<BR>
「何をいまさら」<BR>
平然と差し伸べた父の掌の上に、あの赤いレースのリボンが載せられる。<BR>
この関係は罪以外のなにものでもないのに。本来なら、あってはならないことなのに。<BR>
なぜ、そんなに平然と他人を−−−と。<BR>
「ハロルドたちが把握していないはずがないだろう」<BR>
”たち”と敢えて言うからには、執事たちはみんな知っているということになるのだろう。<BR>
「把握した上ですべてを取り仕切るのが仕事だ」<BR>
さあ、手を出しなさい−−−と。<BR>
ドルイドベルを鳴らしながら、父が僕に命じる。<BR>
「これは、お前の望んだことだ」<BR>
と。<BR>
僕の手首に絡みつく赤いリボンの先で鳴り響くかすかな音色が、母の歓喜の笑い声に思えて僕は目をつむった。<BR>
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