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小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
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 *****<BR>
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 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドから聞いていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、腱を傷つけられて力の入り辛い左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に指を開いて、鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのさいのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。右手からも徐々に力が抜けて行く。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 けれど、ピアノをしまいこむのは切なくて。<BR>
 だから、居間から動かす事ができないでいた。<BR>
 その思いに区切りをつけてくれたことに感謝していた。僕の代わりに弾いてくれるひとがいるのだと思えば、ピアノが埃をかぶることもないのだと思えば、嬉しかった。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
 黒光りのする艶やかな塗料がささくれて、下の木肌までもが傷んでいる。<BR>
 ざらりと肌をこする感触を指先で辿っていた。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 声量を抑えていながらも鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 いつの間にか右手に持っていたペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。それをトーマスが取り上げたのを、目の隅で捉えていた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 僕のものであったピアノに刻まれた無残な傷跡。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたのだと彼が思っているのだと、けれどそれが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「僕じゃない………」<BR>
 信じてもらえるかどうかはわからない。<BR>
 けれど、あんなこと、どうしてするだろう。<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせられる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるように先導されるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、寸胴のマグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったカップを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 どうして、ピアノが傷つけられていたのか。<BR>
 もしかして。<BR>
 本当に、僕が傷つけたのだろうか?<BR>
 ようようのことで僕の耳に入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれは僕じゃない。ピアノを傷つけるなんて、僕がするわけがない! けれど義母上の部屋に無断で侵入していたことは事実だ………………。もしかして、ならば、あれもこれも………記憶にないだけで僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に両膝をついた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれらは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
 彼の手が、お仕着せのジャケットの隠しポケットから何物かを取り出す。<BR>
「それ………は」<BR>
 プラチナの持ち手にサファイヤが象嵌されたそれは、確かパブリック・スクール入学の祝いにと父が僕に送ってくれたペーパーナイフだった。<BR>
 無意識に伸ばした掌に、トーマスが静かに乗せてくる。<BR>
「………覚えておられませんか? このペーパーナイフが見当たらないと御曹司が私に伝えてきたのが昨日の午前中のことでございました。あれから私どもが探しておりましたが、力が足りず見つけられずにおりました」
 そういえば。<BR>
 取り寄せた書籍を読もうとしてペーパーナイフがいつもの場所にないことに気づいたのだった。居間のカードテーブルの上にいつも置いていたのだ。そこなら、暖炉にもソファにも近い。書斎を使うことのない自堕落な生活をしている僕にはちょうどいい場所だった。それが見当たらず、結局トーマスに探しておくよう言いつけて代わりのペーパーナイフを使ったのだった。<BR>
「失礼いたします」<BR>
 掌の上から取り上げて、定位置に戻す。<BR>
「それにもう一つ。おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 ひそめた声に、頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれらは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことに対する罪悪感は消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 一通の手紙がわたしの手から落ちた。<BR>
「ピアノが………」<BR>
 どうして。<BR>
 滑らかな光沢を宿す黒いボディの所々に傷が刻まれている。<BR>
 無残な傷跡からは、地の黄土色の地肌までもが顔を覗かせている。<BR>
 ブランド名を確認するまでもなく、鍵盤をポンと叩くことで飛び出してくる音色で、とても高価なピアノだとわかった。<BR>
 おそらく、これ一台売れば、立派な家を建てることができるだろうほどに高価な。<BR>
 そんな途方も無いものを−−−と、息を呑んだ。<BR>
 それ以来、アークレーヌさまから譲り受けて以来、日に最低一時間は触れていたピアノだった。<BR>
 侍女が言うにはアークレーヌさまのピアノの腕前はとても素晴らしいものだったらしい。<BR>
 直接耳にするのはウィロウさまやバレットや側近たちぐらいだっただろうという話だけれど。時折り居間で弾いていらっしゃる音色が開いた窓から庭に漏れ聞こえることがあったそうで、その時には誰もが仕事の手を止めてしまうほどの美しい音色を奏でられていたという。<BR>
 それは決して、ピアノの性能のせいばかりではなかったのだと。<BR>
 そんなに上手な方と比べられるのは恥ずかしかったけれど、大切な手を傷つけてピアノを弾くことができなくなってしまったアークレーヌさまから譲り受けたのだからせめて一日一度は触れるようにと心がけていたのだ。<BR>
「痛い………」<BR>
 無意識に撫でていた天板のささくれ立った棘が、指の先に刺さる。<BR>
 エドナがいなくてよかった。<BR>
 そんなことを思う自分にハッとする。<BR>
<BR>
 どうも今日はようすのおかしいエドナに部屋で休むように言って別れたのは二時間ほど前のことだった。<BR>
<BR>
 アークレーヌさまのお部屋を後にして、でもでもと繰り返すエドナを南の領域の一階にある彼女の部屋へと送って行った。そうでもしなければ、頑としてわたしの部屋に来るような、そんな表情をしていたからだ。<BR>
「ね。今日はゆっくりお休みなさい。たまにはわたしの相手をしなくてもいいのよ。毎日べったりひっついていたりしたら、誰だってちょっとくたびれちゃうでしょ?」<BR>
 そう笑って見せたわたしに、<BR>
「でも。それが、わたしの仕事で存在意義ですから」<BR>
と、尚もついてこようとする彼女の肩を押しとどめたわたしの頬が引きつっているだろうことが感じ取れた。<BR>
 そう。<BR>
 仕事なのよね。<BR>
 お友達でいる仕事。<BR>
 それが、レディース・コンパニオンの存在意義だとはわかっている。<BR>
 けれど、面と向かって断じられてショックを受けないほどわたしの心は強くは無い。<BR>
 エドナの部屋のドアの外で立ち尽くして、動けなくなる。<BR>
 どうしよう。<BR>
 こういう時どこにも行くことができない自分に気づいた。<BR>
 ウィロウさまにお会いしたい−−−と強く思った。<BR>
 その思いがだんだんと強くなってゆく。<BR>
 お会いできなくなってどれくらいになるのだろう。<BR>
 同じ敷地で暮らしているというのに。<BR>
 今暮らしている同じ領域の奥にウィロウさまのお部屋はあるというのに。<BR>
 お会いしたくて。<BR>
 せめて、お顔を見たくて。<BR>
 お声をお聞きするだけでもいいのに。<BR>
 こみ上げてくる切なさに、足が惑う。<BR>
 行こうかどうしようかと。<BR>
 冷静に考えれば、きっとウィロウさまは西の領域にいらっしゃるのに違いないのだけど。この時のわたしは、東の領域にいらっしゃるに違いないと勘違いしていたのだ。<BR>
 グラウンドフロアには下りず、緩やかにカーブを描く大階段をゆっくりと上る。<BR>
 天窓から降り注ぐステンドグラスに染まった陽光がとても美しかった。<BR>
 ゆっくりと、一段一段登って行く。<BR>
 ウィロウさまにお目にかかろう。<BR>
 わたしはそのことしか考えていなかったのだ。<BR>
 そうして、それは、たやすく叶えられた。<BR>
 あまりにも拍子抜けするほどに、あっさりとお会いすることができた現実に、わたしはすこしだけあっけにとられていたのに違いない。<BR>
<BR>
 規則正しい靴音に足を止め、振り返った。<BR>
 そこには、見覚えのある男性がいた。<BR>
 男性の容姿をどうこう言うなどはしたないことなのだけれどあえて言うなら、わたしがミスルトゥ館で見かける男性使用人は庭師や馬丁以外を除けば上級使用人だけなのだけれど、総じて整った顔をしている。その中でも一二を争う美男子がハーマンとハロルドだろうと思う。ハロルドの一見穏やかなようでいて芯の通った厳しい美しさに侍女たちは気後れする様子を見せていたが、ハーマンはまだ二十代前半ということもあってかストイックなお仕着せに身を包んだせいで逆にその色香が増して見えるらしく逆に侍女たちの憧れを掻き立ているようだった。しかし、それはあくまでも水面下のことで。アルカーディ家の分家にあたるらしい男爵家子爵家をはじめとした下級貴族や郷士、商人、豪農の家から行儀見習いに来ている彼女たちは密やかに色めき立ちはするものの、あえて色恋へと行動を移すことはなかった。そうだろう。身を謹んで勤めていれば、侍女長や家令が当主に相応の縁組を進言してくれることさえもあるのだ。公爵の許可した縁組は、彼女彼らにとっては将来を約束されたようなものなのだから。下手なアバンチュールは身を持ち崩す原因にしかならない。少なくとも、ここ、アルカーデン公爵家ではそう考えられているらしかった。<BR>
 ともあれ、後ろから銀の盆に茶器を乗せて階段を上ってきたのは、ハーマンだった。<BR>
 わたしが途中で足を止めたことにハーマンがほんの少し首をかしげたように見えた。<BR>
「奥方さま、どうかなさいましたか」<BR>
 スラリと背筋の伸びたとても美しい立ち姿で、ハーマンが声をかけてくる。その声の甘やかなこと。侍女たちが色めき立つのがわかるような気がした。<BR>
「奥方さま?」<BR>
 訝しげな声に、<BR>
「ウィロウさまにお会いしたいのです」<BR>
 我に返った。<BR>
「それでございましたら、西の領域二階の奥までご案内いたしましょう」<BR>
 どうぞ。<BR>
 そう先導してくれるハーマンの後に続きながら、ああそうだったと、自分の思い違いを少しだけ恥ずかしく思ったのだった。<BR>
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