小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
<BR>
<BR>
<BR>
その女性を見た瞬間、頭の中で何かが壊れた。<BR>
そんな鋭い音を聞いたような気がした。<BR>
とてもかわいらしい雰囲気の女性だった。ふんわりとした軽やかなウェーブの髪が小作りな顔を彩る。その栗色の色彩が、日の光を浴びて、きらめいていた。頬をうっすらと染めやわらかな微笑みをたたえて、上天気な空の色の瞳を輝かせていた。外からではいくら上を見ようと僕を見ることはできないが、僕からは、彼女のようすをつぶさに観察することができた。<BR>
そんな彼女を迎えるために、”彼”が歩を進めた。<BR>
こちらから見えることはない”彼”の秀麗なまでに整った顔にどんな表情がたたえられているのか。どうしようもなく気になってならなかった。<BR>
そんな自分が嫌でしかたなかったが。<BR>
重厚な内装のせいもあり照明が灯っていてさえ薄暗い室内からでは、外の明るさはまるで天上の世界のように思えた。<BR>
ずらりと並んだおびただしい使用人達の間を歩きながら、女性が”彼”にエスコートされて入ってくる。<BR>
それを、主階段の踊り場の手すりにもたれて見下ろしていた。<BR>
やがて、何段か降りた自分に気づいただろう”彼”に促され、<BR>
「ああ! あなたが、アークレーヌさまね」<BR>
満面の笑みで見上げてくる女性に、背中がそそけ立った。<BR>
嫌悪からではない。<BR>
恐怖からだった。<BR>
彼女の背後に立つ”彼”の昏い眼差しもまた、自分を見上げている。<BR>
「アークレーヌ、挨拶を」<BR>
ゆったりとした響きの良い声に突き動かされるように、<BR>
「はじめまして、義母上」<BR>
口を開いた。<BR>
差し出された手の甲を無視し、頭を軽く下げる。<BR>
そうして、僕は自分の領域に戻った。<BR>
いいや。<BR>
逃げ込んだのだ。<BR>
古い歴史を誇るアルカーデン公爵家の荘園館(マナハウス)は、たくさんのガーゴイル型の雨樋に守られたように見える四方に放射状に広がる造りの城である。口を大きく開き空を睨みつけるたくさんのガーゴイル達。それは、まるで魔王の城ででもあるかのように、この館を訪れるもの達に印象付けるものだった。<BR>
僕の領域は、この広大なマナハウスの北の尖塔を持つ区画である。<BR>
たくさんのタペストリや絨毯、陶磁器、彫刻、鎧兜に剣や槍、絵画。古めかしい時代の遺物がずらりと飾られた廊下や階段は手入れが行き届いていてさえ、どこか埃っぽく感じられる。<BR>
五階の奥が、僕が唯一力を抜くことができる部屋だった。<BR>
荒い息をこらえることもせず扉を開け、勢いを殺すことなくベッドにそのまま突っ伏す。<BR>
丸くなっていた猫が、顔を上げて迷惑そうに小さく鳴いた。<BR>
「悪い」<BR>
顔を起こしその黒い小さな塊の顎の下を指で軽く掻いてやれば、その金の目を細めてゴロゴロと喉鳴りをこぼす。<BR>
他の部屋と比していささか手狭な八角形の部屋は、いくつもある尖塔の中でも小さな尖塔のすぐ下の階にあたるためである。<BR>
高い位置にある鋭角的なドーム状にくりぬかれた窓に嵌められたステンドグラス越しの青や赤の光が、ベッド以外なにもないこの部屋を彩る。<BR>
建てられた当初であれば天上をイメージした晴れ晴れとした色彩であったろうそれも、何百年という風雨にさらされて、褪色しどこか黒ずんだ色調に見える。<BR>
態勢を変え、胎児のように丸くなる。<BR>
壁に付けて据えてあるベッドは、幼い頃から僕の唯一の逃げ場所だった。<BR>
ザリザリと音立てて僕の額を一心に舐めてくるこの黒い猫も、その頃からここにいた。<BR>
何歳になるのか、僕よりも年上であるのは、おそらく確かなことだろう。<BR>
ぼんやりと、先ほどの自分の行いを思い起こす。<BR>
大人気ない態度だったと、顔が赤くなる心地だった。<BR>
来年が来れば十七になるというのに、なぜあんな態度を取ってしまったのか。<BR>
「頭が痛い………」<BR>
脈動と同じリズムを刻む痛みが、次第に無視できない大きさへと変化してゆくのに、目をきつくつむり、堪える。<BR>
吐き気がする。<BR>
ちらちらと脳裏をよぎるのは、あの晴れ晴れとした空の青にも似た瞳の色だった。<BR>
僕よりも幾つか年上だろうか。<BR>
頬を染めた、初々しい花嫁。<BR>
新大陸から来た富豪の令嬢だったと記憶している。<BR>
”彼”−−−僕の父の後妻となるべくやってきた、女性。<BR>
名は………。<BR>
「何といったか」<BR>
つい昨夜、父に聞いた名を、思い出すことができなかった。<BR>
ありふれた名前だったような気がする。<BR>
まぁいい。<BR>
義理の母を名前で呼ぶこともない。<BR>
僕はぼんやりと天井の梁を見上げていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
食堂や居間、応接室、大小の広間や客間などが備わる、中央の塔の領域に僕はいた。<BR>
長いテーブルの一角についていた。<BR>
カトラリーがかすかな音を立てる。<BR>
いつもより豪華な晩餐のメニューはやはり父の新たな妻のためなのだろう。ここに着いた時点で、彼女は父の正式な妻となっているはずだった。<BR>
牛の頬肉の赤ワイン煮込みをナイフとフォークで切り分けていた手を、止める。<BR>
原因は、義理の母となる女性の軽やかなさえずりだった。<BR>
彼女のことばに、父が短く答える。その繰り返しが、空虚さを際立たせているかのように感じた。<BR>
頭痛は治まっていた。<BR>
軽い吐き気はあったが、自律神経が不調なのはいつものことだ。<BR>
このせいではないが、僕はまともに学校生活を送ることができなかった。今は、ここで静養という名目で時間を潰しているだけの人間にすぎない。<BR>
情けない。<BR>
「アークレーヌさま。ご気分がすぐれませんの?」<BR>
女性の愛らしい声。<BR>
気遣わしげなそれに、僕は顔を上げた。<BR>
かすかに眉根の寄せられた顔がそこにあった。<BR>
「だいじょうぶです」<BR>
応えながら、父の射るような視線を片方の頬に感じていた。<BR>
何が大丈夫なのか、自分でもわからなかったが、メインディッシュを切り分ける途中だったカトラリーを動かす。<BR>
湯気の散ったそれに、自分がかなり長い間ぼんやりとしていたことを思い知る。<BR>
小さく切ったそれを一口。<BR>
散ってなお鼻に抜けるふくよかな匂いを歯に感じる肉の感触を、舌に感じる旨味を味わう余裕はなかった。飲み込み、次に人参と玉ねぎを食べる。パンをちぎり、頬張る。ワインの代わりに運ばせたミネラルウォーターを一口飲むと、食欲は失せていた。<BR>
ともあれ、これでサリチル酸(柳から分離。アスピリンの前身。胃腸障害が出やすいらしい)を飲むことができる。<BR>
<BR>
晩餐をどうにかやり過ごし、自分の領分に戻ろうと席を立とうとした耳に、<BR>
「後で話がある」<BR>
父の声が聞こえてきた。<BR>
全身が震えそうになるのをかろうじて堪える。<BR>
ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく笑みをたたえて、<BR>
「わかりました」<BR>
答えるのが精一杯だった。<BR>
<BR>
「ご入浴の準備は整えてございます」<BR>
家令が僕の部屋で待ち構えていた。<BR>
三階にある僕の部屋だった。<BR>
そういえば今日の給仕は執事だったと思い出す。<BR>
「そんなこと、僕の執事か近侍(ヴァレット)の誰かに任せておけばいいだろう」<BR>
家令(ハウス・スチュワード)の仕事ではない。<BR>
「ご主人様のご命令です」<BR>
「そうか」<BR>
ジャケットをタイを、家令が脱がせてくる。<BR>
身を任せながら、溜息が出そうになるのをかろうじて堪えていた。<BR>
溜息をひとつでも吐けば、堰が切れてしまうだろう。そうなれば最後、泣き喚いてしまいそうだったからだ。<BR>
<BR>
なぜ。<BR>
<BR>
入浴後にバスローブをまとっただけで暖炉の前のソファに座った僕の背後に立つ家令が髪を拭ってくる。<BR>
青ざめた自分の顔が暖炉の上の鏡の奥から見返してくる。<BR>
血の気のない紙のような顔。それを彩るのは老人めいて艶のない白糸のような色のリボンを解かれて流れ落ちる長い髪。<BR>
切りたくないと伸ばしっぱなしの長い前髪の奥に隠れた覇気のない虚ろな目はアルカーディ一族の特徴でもある黒と見まがうような濃紺ではなく、やけに赤味の目立つ褐色で、見るたびにゾッとする。<BR>
高くもなく低くもない鼻。これだけがやけに目立つ血を啜った後のような色をしたくちびるは、薄く頑固そうに引き結ばれている。<BR>
その実、少しも意志が強くはないというのに。<BR>
ただ、いつも、叫び出さないようにと必死に食いしばっているのにすぎない。<BR>
叫び出したい。<BR>
泣きわめいて、何もかもをめちゃくちゃに打ち壊してしまいたかった。<BR>
できもしないくせに。<BR>
それなのに。<BR>
「ご主人様からはこちらをと」<BR>
梳(くしけず)られた髪の毛を束ねるために取り出された深紅のリボンを見た途端、心臓が痛いくらいに縮んだような錯覚に襲われる。<BR>
「御曹司?」<BR>
少しばかりうろたえたような家令の語調に、口角が皮肉に持ち上がった気がした。<BR>
僕の意識は朦朧となってゆく。<BR>
くらりと目まいがする。<BR>
いつものとは違う深紅のリボンは、僕の心を縛る。<BR>
それは呪いだった。<BR>
亡き母が望み、父が実行する、呪いだった。<BR>
両親の確固たる意志の前では、僕はただの贄でしかなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
アルカーデン公爵家のマナハウスに着いたのは、植民地を発って二月が過ぎようとするまだ寒さの残る春先のことだった。<BR>
わたし、ケイティ・マクブライトがウィロウ・アルカーディさまの後妻になることが決まって半年になろうとしていた。<BR>
宝石の鉱山を多数持つ大富豪マクブライト家の娘とはいえ末子であるわたしが、まさか旧大陸の公爵、金銭的に困窮しているわけでもない、そんな相手の妻になることができるなどと、考えたことはなかった。<BR>
十九になろうという私が後妻とはいえ、正妻なのだ。<BR>
マクブライトの娘ではあれ父親と血の繋がってはいない後妻の連れ子であるわたしには、信じられないほどの幸運だった。<BR>
実際、年の近い姉にはかなり妬まれた。<BR>
去年、本場の社交界を経験しておくようにと云われ旧大陸に旅行に出かけた際、招待された夜会で偶然出会った魅力的な男性。それが、アルカーデン公爵ウィロウ・アルカーディさまだった。<BR>
古くは王家の血を引く、まぎれもない青い血を連綿と今に伝える公爵。<BR>
お歳はわたしよりも二十近くも上だけれど、どこか物憂げな雰囲気をたたえた青白く高貴なお顔に、はしたないけれど一目で憧れた。<BR>
綺麗に整えられた艶めく黒髪が一筋その秀麗な額に落ちかかる。そのさまさえもが匂い立つようで、親しくなった令嬢たちと同じくわたしの視線も、彼から離れることはなかった。その物思わしげな夜の空のような濃紺の眼差しに映されてみたいなどと、夢物語を思い描かずにはいられなかった。<BR>
物知りな令嬢が、あれがアルカーデン公爵であると得意げに説明してくれるまで、夢物語は続いた。<BR>
公爵さまと聞いて、砕け散ったけれど。<BR>
ただの富裕層の娘と、高貴な血を受け継ぐ公爵さまとでは、逆立ちしても、ロマンスなど生まれるはずがない。<BR>
夢物語は夢物語なのだ。<BR>
<BR>
それが婚約などとなったのは、何度かの偶然の巡り合わせのおかげだった。<BR>
<BR>
植民地に戻った後に、なんと、公爵さまから突然の打診が父のもとに届けられたのだそうで、聞かされたわたしはあまりのことに気を失ってしまったほどだった。<BR>
思慮深げで穏やかそうな、そんなウィロウさまの元に嫁ぐ日を、わたしはゆびおり数えて待ちわびる日々を楽しんだ。<BR>
<BR>
そうして、もうじき、それが現実となるのだ。<BR>
一月半にもわたる船旅を無事に終え、港に迎えに来ていた馬車に乗り半月。<BR>
屋敷に着いた時点で、わたしはウィロウさまの妻となる。<BR>
披露宴も式もないことが残念で仕方なかったけれど、後妻なのだから仕方ないのかもしれない。シーズンと呼ばれる社交期がくれば王都の夜会で紹介されることになるだろう。<BR>
馬車が荘園館(マナハウス)の門扉をくぐると、そこに広がるのは鬱蒼として薄暗い森だった。<BR>
どこまでも続くと思えた馬車道の果てに、アルカーディ家のマナハウスが現れたのを見た瞬間、わたしは冷水を浴びせかけられたような心地を味わった。<BR>
「ミスルトゥ館と申しますよ」<BR>
話し相手として共に旅をしてきたコンパニオンがそっと教えてくれた。<BR>
けれど、その威容は、決して館などではない。<BR>
それは、城だった。<BR>
それも、異形の。<BR>
空にそびえる灰色の城には、壁一面に口を大きく開いて天を呪うかのようなガーゴイルの群れが取り付いていたのだ。<BR>
古めかしい飴色に黒い錬鉄の鋲や横木の渡った両開きの木の扉が内側から開かれる。軋む音がしないのが不思議だった。扉の奥に現れた闇を見て、わたしは帰りたいととっさに思った。<BR>
あれほど嫁ぐ日を心待ちにしていたというのに。<BR>
お会いできる日を指折り数えていたというのに。<BR>
ウィロウさまは迎えに出てきてくださらない。<BR>
公爵家の遠い血筋に当たるという港からここまでの旅程に付き添ってくれたシャペロンにどうぞと手で促されて、馬車を降りたわたしはひとりでマナハウスの扉に向かわなければならなかった。<BR>
開かれた扉をくぐると、ずらりと並ぶお仕着せの使用人たち。百人以上いるのではないだろうか。<BR>
「おかえりなさいませ、奥様」<BR>
思いもよらないことばで声さえも揃えて歓迎され、奥から現れたウィロウさまに、ようやくわたしの心細さは押しやられた。<BR>
「レディ・アルカーディ」<BR>
穏やかな声で、いささか他人行儀に呼ばれて、少しがっかりしたけれど。<BR>
けれど、ここはわたしがこれまで暮らしてきた植民地ではないのだと、気を取り直す。<BR>
ここは因習深い、旧大陸なのだから。<BR>
手を取られて、甲にくちづけられる。<BR>
それだけで、陶然となった。<BR>
「今日からここがあなたの家になる。ゆっくりとでいいので馴染んでいってほしい」<BR>
そう言いながら、わたしの肩に手を回した。その瞬間にほのかに立ちのぼったウッディな香水の匂いに、ああ、ウィロウさまのところに嫁いだのだわと、感動に心臓が震えた。<BR>
「こちらへ」<BR>
照明を灯してなおも薄暗いホールを主階段へと促された。<BR>
そうして、わたしは、その少年に気づいたのだ。<BR>
少年というには少し大人びて見えたが、今年二十歳になるわたしよりは、年下に見受けられた。<BR>
階段の踊り場に立つそのひとの印象は、白だった。<BR>
引き結ばれたくちびるの朱はけざやかに目を惹いたけれど、それでも、白だった。<BR>
立ち止まったわたしの視線の先を確認したウィロウさまが、<BR>
「………アークレーヌ。息子だ」<BR>
と、教えてくださった。<BR>
息子がいるということは知っていた。<BR>
けれど、その相手がわたしと幾ばくも歳が変わらないということを、わたしは愚かにも深く考えてはいなかった。<BR>
それでも。<BR>
彼は、わたしの義理とはいえ息子になるのだ。<BR>
「ああ。あなたが」<BR>
「アークレーヌ。挨拶を」<BR>
階段を降りてきた少年、アークレーヌに手を差し出す。<BR>
しかし彼は、<BR>
「はじめまして。義母上」<BR>
わたしの手をとることもなく、そういうと頭を下げて、引き返していったのだ。<BR>
あまりといえば、あまりの態度に、わたしはあっけにとられていたのだろう。<BR>
「しかたのない。照れているのだろう」<BR>
ウィロウさまの言葉に我に返ったわたしは、<BR>
「これからあなたが生活をする領域に案内しよう。あなたは南の塔のある区域で暮らすことになる。ハロルド」<BR>
「はい。ご主人様」<BR>
「彼はこの館の家令だ。名をハロルド。ハロルド、レディを部屋へ案内してくれ」<BR>
「では、晩餐までからだをやすめてくれ」<BR>
わたしは物足りなさを感じながらも、ウィロウさまの指示に従った。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「レィヌ」<BR>
熱をはらんだ声が、耳を犯してくる。<BR>
レィヌと呼ばれることで、己が誰の代わりを果たしているのかを自覚させられた。<BR>
耳腔をなぶられ、耳朶を食まれ、背筋に戦慄が走る。<BR>
刹那冷えた汗に寒いと思った。しかし、すぐさま消え去る。<BR>
目の端に深紅のリボンが見えた。<BR>
解けたそれが呪縛は解けたと、問わず語りに伝えてくる。<BR>
しかし、それがどうだというのだろう。<BR>
この身はすでに相手の腕の中なのだ。<BR>
この身はすでに熱に侵されている。<BR>
深く密着したからだが、己の欲が目覚めていることを相手に伝える。<BR>
喉の奥で小さく笑われて、全身が羞恥で焼けつくような熱を感じた。<BR>
それだけで。<BR>
たったそれだけのことで、疾うに慣らされきっているからだは容易いほどに。<BR>
からだはこれから起きるだろうことに期待を隠さない。<BR>
隠すことができない。<BR>
その羞恥。<BR>
その屈辱。<BR>
その背徳感。<BR>
ふるふると小刻みに震える全身に、嫌悪が湧き上がる。<BR>
呪いの小道具が解けた今、全ては唾棄したいものでしかなかったからだ。<BR>
目をきつくつむり、眉根を寄せる。<BR>
くちびるをかみしめた途端、<BR>
「傷がつく」<BR>
軽く、戒めるかのように頬を張られた。<BR>
痛くはないが、衝撃に我に返った。<BR>
そのせいで、己の有様をより生々しく思い知らされる。<BR>
何をしているのだと。<BR>
まざまざと、理解してしまう。<BR>
己を見下ろしてくる端正な顔が、恐ろしくてならなかった。<BR>
「レィヌ」<BR>
甘くとろけるような囁きに、その深い色のまなざしに、狂気を感じて、絶望を覚える。<BR>
「どうしてっ」<BR>
熱を煽ろうと弱い箇所をまさぐってくる手に、悲鳴のような声が出た。<BR>
「なにがだ」<BR>
「………………………義母上がっ」<BR>
そんなことを問いたいのではなかったが、己の真に問い詰めたい疑問に対する答えはわかりきっていた。返されてくる答えは、いつも決まっているのだから。<BR>
追い詰められた脳が、問いをどうにか形にするのに、少し、かなり、時間が必要だったけれど。<BR>
「ああ。あれは、うるさいものどもを黙らせるために必要だったのだ」<BR>
面倒臭い。<BR>
呟く声に苛立ちが潜み、手の動きがやわらかなものから激しいものへと変わる。<BR>
「柵(しがらみ)は少なければ少ないほうがいい。だからこその選択だ」<BR>
後添いをとうるさい声を黙らせるには、新たな妻を迎える必要があったのだろう。しかし、新たな妻には新たな親族がついてくる。貴族の出であれば旧弊な諸々が”彼”を煩わせるだけでしかなく。ならばと遠隔の植民地の富豪の娘、しかも、血の繋がらない後妻の連れ子を選んだのだと、淡々と告げてくる。<BR>
しかし、その内心は苛立ちが募っているのだろう。<BR>
「お前以外を抱く気はないというのに。アークレーヌ」<BR>
獰猛なうなり声のような言葉に、前身が恐怖にすくみあがった。<BR>
まさぐってくる手は、激しさを増すいっぽうだった。<BR>
自由になっていた両手に気づいて、怠いそれでできるだけ声を潜めるべく口を覆う。<BR>
くちびるを噛んでしまえばまた頬を張られるだろう。痛みはなくても、性感を昂められた今そんなことをされては、たまらない。<BR>
なのに。<BR>
「声を抑えるな」<BR>
無情な声に、首を左右に振った。<BR>
髪がシーツにあたり、いつの間にかながれていた涙が、シーツを濡らす。<BR>
嫌だというのに。<BR>
嬌声よりも拒絶の声をこそ噛んでいる事実を、おそらく”彼”は知っている。<BR>
ほどけたリボンが、この夜にかけられた呪いが解けたことを現しているのだから。<BR>
「おまえの、真の声を聞きたい」<BR>
無理やり外された手がシーツに縫いとめられる。<BR>
おそらくは執拗な蹂躙を受けただろうそこは”彼”を拒絶することはできず、当てられた切っ先に僕の意思を無視した喜びをあらわにする。<BR>
そうなると、出るのは、ただ、<BR>
「いやだっ」<BR>
堪えきることができない拒絶だけだった。<BR>
「アークレーヌ」<BR>
目を細めた”彼”、父の表情が、遠い東洋の不気味な面めいて僕を見下ろしていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「ウィロウさま」<BR>
椅子から立ち上がる。<BR>
「おはようケイティ」<BR>
物憂げな表情はそのままに、わたしの手をとり、くちづけてくる。<BR>
声を弾ませてしまって、少し、はしたなかったかしらと反省する。<BR>
「おはようございます」<BR>
「よく眠れたかな」<BR>
椅子に座り直し、くちをつけていた果実水の入ったグラスを手に取った。<BR>
「はい。とても」<BR>
マナハウス内にあるグラスハウスで採れるという南国の果実の果汁はとても甘酸っぱくて美味しかった。<BR>
朝専用のダイニングの昨夜のとは違う小ぶりのテーブルの対面に座ったウィロウさまの前に、朝食が運ばれてくる。<BR>
メニューは黄色の鮮やかなオムレツとマッシュルームとベーコン、サラダ。あとはよく焼かれた薄切りトーストが数枚。ミルクと果実水というたっぷりとしたものだ。<BR>
コーヒーか紅茶を嗜むのは食後らしい。<BR>
朝は慌ただしくコーヒーしか口にしなかった義父や義兄しか知らなかったわたしには、朝食をゆっくりと召し上がられるウィロウさまの姿はとても新鮮なものと映った。<BR>
「今日は、この館を案内しよう」<BR>
目が合ったと思えば、しばらく何か考えたあと、ウィロウさまが仰ってくださった。<BR>
「嬉しいです」<BR>
ゆっくりと、ウィロウさまは歩いてくださる。<BR>
そんなウィロウさまにわたしは遅れないようについて行く。<BR>
どうして手をつないでくださらないのだろうと疑問に思いはしたものの、家の中だからかもしれない。<BR>
昨日は何かと慌ただしくて、南の塔の領域と呼ばれているらしい公爵夫人のエリアも自室以外は見ることはなかったのだ。なんとはなく夫婦の寝室は隣り合ってるというイメージがあったので、館ひとつぶんはゆうにありそうな部分が全部自分だけのものだという説明に、びっくりせざるを得なかった。上から下まで、南の部分の端から端まで、全部自分の好きに使っていいというのだから。ちなみに、受けた説明では、ウィロウさまのプライベートは東側の領域全て。アークレーヌさまの領域は北側全てなのだそうだ。中央から西側は、パブリックスペースになるらしい。<BR>
「じゃ、では、もし子どもが生まれたりしたら、どこになるのでしょう」<BR>
何気ない疑問だった。<BR>
少し恥ずかしかったけれど、結婚したのだから、いずれ子どもができることもあるだろうと。<BR>
そんなわたしの言葉に、ウィロウさまの足がぴたりと止まった。<BR>
見下ろしてくる濃紺の瞳に、背筋が粟立つような心地を覚えた。<BR>
すぐさまに消えた、恐怖にも似た何かを、わたしは錯覚だと打ち消す。<BR>
クスリと、口角に笑いをたたえ、<BR>
「もし、あなたに子ができたなら、あなたの領域で育てましょう」<BR>
あなたにとってはその方が望ましいでしょう?<BR>
そうおっしゃってくださった。<BR>
「ええ! はい。もちろんです」<BR>
その優しいトーンの声に、わたしは先ほどの恐ろしさを忘れてしまったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
そうして、その日一日は、わたしにとってとても幸せな一日になった。<BR>
そう。<BR>
夜もウィロウさまと共に過ごすことができて、わたしは天にも昇る心地だったのだ。<BR>
***** 本文が長いと注意が出たので、一旦切り。
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