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小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
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 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しい。<BR>
 苦しくてたまらない。<BR>
 頭の中に浮かんで消える、母の記憶が、僕を責める。<BR>
 苛む。<BR>
 愛していたひとと結ばれることなく、僕を生まなければならなかったレイラ。その苦しみ。愛するひとと睦みあうことのできない苦しみは愛することのできない相手の子、自身が生んだ僕への憎悪へと変化して、そうして苛むことになった。それは彼女を慰めたのか。それともより苦しめることになったのだろうか。<BR>
 いつしか父を想うようになっていた自分に気付いた時、母は、自身の心変わりに絶望して僕を、僕と自分自身とを無に帰そうとした。<BR>
 ごめんなさい−−−と。<BR>
 僕の首に絡む白い手が、ざらりとした何かを僕の首に巻きつけて、とても優しく、力を加えてくる。<BR>
 喉に食い込む細い紐のようなものがもたらす痛み。<BR>
 息ができなくなる苦しさ。<BR>
 すぐそこに迫った死へたどり着くまでの、気が遠くなるほどの苦しさ。<BR>
 あの恐怖。<BR>
 あなたのお父様を愛してしまった−−−<BR>
 それなのに、あなたを愛することができない−−−と。<BR>
 荒れる鼓動の合間に聞こえてきた彼女の血を吐くような贖罪の音色。<BR>
 愛せない。<BR>
 でも。<BR>
 愛してしまった。<BR>
 わたしのあのひとを、裏切ってしまったの。<BR>
 この心は、永遠にあのひとのものであるはずだったのに。<BR>
 だからこそあなたを、あなたという存在を許せなかったのに。なのに。ウィロウさまを想う心は、あなたを愛することを許してくれない。あなたをこれまで散々に傷つけてきたこんな女があなたの母であることを、許してくれない。今まで苦しめつづけてきた記憶が、それを良しとはしてくれない。だから、だから、消えてちょうだい。<BR>
 一体なにがきっかけであったのか。<BR>
 僕は知らない。<BR>
 ただ、悲痛なまでの謝罪に、僕は霞む視界に母を映しているばかりだった。<BR>
<BR>
 朦朧となった意識の中で、母の独白が、悲鳴へと変わる。<BR>
 周囲が騒々しくなった。<BR>
 誰かが僕を抱え上げ、僕の全身が揺れる。<BR>
 誰かが母を鋭く呼ぶ声が耳を貫いたと思った。<BR>
 けれど、それはもう僕にはどうでもいいことで。<BR>
 もう僕は死ぬのだと。<BR>
 それほど、母は僕を嫌っているのだと。<BR>
 絶望が静かに僕の意識を絶ったのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 あの後、父の後妻に振り払われ情けなくも気を失った後、僕が気づいたのは寝室のベッドの上だった。<BR>
 まだ空は明るく、昼前であることを僕に問わず語りに教えてくれる。<BR>
 夢の中で散々思考を空転させた後の嫌な気分のまま、僕は上半身を静かに起こした。<BR>
 ぐるぐると止まることなく僕を苛む嫌な出来事の数々と、嫌な思考の数々。<BR>
 吐き気がする。<BR>
 こんなにも情けなく、醜い生き物であることに。<BR>
「御曹司」<BR>
 水を差し出してくる忠実なヴァレットに反応を見せることさえも億劫でならなくて、そのまま僕は髪をかきあげた。<BR>
「………義母上には、お子が出来ていたのだな」<BR>
 お前は知っていたのか?<BR>
 掠れた声が喉を痛めつける。<BR>
「はい」<BR>
と、ヴァレットが静かに答えた。<BR>
「御曹司におかれましては、興味がおありになられないだろうという判断をいたしておりました」<BR>
 −−−それは、半分は正しく、半分は誤っている。<BR>
 しかし、どうしてそれを彼が知るだろう。<BR>
 彼は、僕が母に囚われていることを知らない。<BR>
 いや。<BR>
 それとも。<BR>
 知っているのだろうか?<BR>
 じっとりと、彼の顔を見返した。<BR>
 知っているからこそ、興味がないと判断をしたのだろうか。<BR>
 僕と父の、おぞましい関係を。<BR>
 いったいどっちだろう?<BR>
 おそらくは、次のハウス・スチュワードとハロルドから目されているだろう、このよく気の回るヴァレットの灰色の目の奥を覗き込む。<BR>
 油照りの日の海のような瞳が、僕を見返してくる。<BR>
 それに気づいて、心臓が大きく跳ねた。<BR>
 とっさに、顔を背けていた。<BR>
 ぞわりと背中を駆け上り後頭部を逆毛立たせたのは、恐怖だった。<BR>
 最近では忘れがちになっていた、見られていることに対する恐怖が、蘇る。<BR>
 しかし、それを、従者に見せるわけにはいかない。<BR>
 知られていても、己からそうと見せるわけにはいかない。<BR>
 たとえ、これまでにおびただしいほどの醜態を晒してきていても−−−だ。<BR>
 顔を枕に伏せた。<BR>
「ひとりにしてくれ」<BR>
 くぐもった声が出る。<BR>
「承知いたしました」<BR>
 静かに諾い出て行く気配があった。<BR>
 独りになったと理解して、ぐるりと寝返りを打つ。<BR>
 額に手を乗せる。<BR>
 天蓋の裏側が霞んで見えた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 ***** <BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「こちらに新たな子供部屋を設えるおつもりですか?」<BR>
「まだ犯人もわかっていないというのに、南の領域に戻れとおっしゃるのですか?」<BR>
 ハロルドにエドナが食ってかかるのを横目に、わたしは居間のソファに腰を下ろしていた。<BR>
 なんてことを−−−反省ばかりが頭の中を乱していた。<BR>
 なにをしてしまったのだろう−−−。<BR>
 手を差し伸べてくれた相手を。<BR>
 お礼すら口にせず、罵ってしまうなど。<BR>
 けれど。<BR>
 あの時、襲い掛かってきたのは、間違いなく、嫌悪感だったのだ。<BR>
 どうしようもないくらいの、生理的な嫌悪だった。<BR>
 証拠などはない。<BR>
 それなのに、あの疑惑は、どうしようもなくわたしの心に根付いてしまっていたのだ。<BR>
 同性なのに。<BR>
 親子なのに。<BR>
 そんなことがあるはずがないと思えば思うだけ、あの朝の廊下でのやりとりが頭の中で鮮やかなものへと変化を遂げてゆく。<BR>
 義理の息子、アークレーヌさまの前髪の下に隠されていたとても綺麗な顔。<BR>
 女性とは言いきれず、かといって、男性とも言いきれない。そんな、中性的な印象の顔が、媚びるような艶やかな色を帯びる。<BR>
 うっすらと白桃色に染まった頬が、首が、鎖骨が。<BR>
 露わになった胸元が。<BR>
 そこにくちびるを寄せるのは、ほかならぬウィロウさまだ。<BR>
 ああ!<BR>
 両手に顔を埋めた。<BR>
「奥さまっ?」<BR>
 エドナの声が耳を射抜くほどの激しさだった。<BR>
 おかしい。<BR>
 わたしは、きっとおかしくなっている。<BR>
 こんな、あるはずもない、いやらしい想像をしてしまうなんて。<BR>
 それも、わたしの夫と、夫の実の息子とで。<BR>
「奥様」<BR>
 ハロルドの落ち着いた声が、まるで外国産の張りのあるコットンにも似てわたしの動揺した心を落ち着けてくれるような心地がした。<BR>
「お部屋を乱した不心得者が見つかるまで、新しく設えられるのはおやめになられた方がよろしいのではと」<BR>
「………それは、旦那さまのご提案なの?」<BR>
「はい」<BR>
「それならば、早く犯人を見つけてちょうだい」<BR>
 ハロルドが腰を深く折る。<BR>
 そのまま踵を返して部屋を出て行った。<BR>
「奥さま」<BR>
 今日はエドナの声がどうしてだか鑢のように癇に触る。<BR>
「少しひとりにしてくれる?」<BR>
 エドナの榛色の瞳がどこか不満そうに揺れた。<BR>
「今の奥さまをひとりになど!」<BR>
「そう。ありがとう」<BR>
 どう伝えよう。<BR>
 対面のソファに座ったままのエドナに、<BR>
「さっき、外でのことだけれど。あれは、言い過ぎだったわ」<BR>
 口調に、エドナの表情が紙のようになった。<BR>
「けれどっ!」<BR>
「ええ。ありがとう。わたしを慮ってくれたのよね。わかっているわ。それに、わたしの行動も悪かったのだと理解しているわ」<BR>
 けれどね。<BR>
「エドナ。あなたが知っていたのかどうかはわからないけれど、あなたが咎めたのは、アークレーヌさまなのよ」<BR>
「アークレーヌさま?」<BR>
 ぽっかりと、エドナにしては間抜けな表情で繰り返す。<BR>
「そう。アークレーヌ・アルカーディ、次期アルカーデン公爵よ」<BR>
「そんなっ」<BR>
 悲鳴をあげる。<BR>
 エドナはアークレーヌさまのお顔を知らなかったのか。<BR>
 そんなエドナを見ながら、わたしはアークレーヌさまに謝らなければと、考えていた。<BR> 
 嫌悪は嫌悪として。<BR>
 疑惑は疑惑として。<BR>
 謝罪はしなければ。<BR>
 手を振り払ってしまった。<BR>
 罵ってしまった。<BR>
 それに。エドナも、わたしを思えばこそではあったのだろうけど、あの態度はいただけない。アークレーヌさまは次代の公爵さまなのだ。<BR>
「着替えます」<BR>
 控える侍女に命じる。<BR>
「はい」<BR>
 ドレスルームのドアを開ける侍女を見ながら、<BR>
「エドナ。少し待っていて」<BR>
 着替えてなにをするとは告げず、ドレスルームに入った。<BR>
 薄い緑色のドレスを選ぶ。白いレースのブラウスに襟元からウェストラインにかけて深いV字に切れ込んだそれを合わせる。<BR>
 髪は編み込み、シンプルな髪飾りをつける。<BR>
 靴は部屋履きの楽なものに履き替えて、扇とハンカチのどちらを手に持つかしばし悩む。<BR>
 まだ呆然としているエドナを、<BR>
「さあ。北の領域に行きましょう」<BR>
 促す。<BR>
「なにをするために?」<BR>
 返された反応に、え? と思った。<BR>
「なにって、アークレーヌさまに無礼を謝らなければいけないでしょう」<BR>
「え? あ………ぶれい………無礼」<BR>
 ぶつぶつと呟きながらわたしを見上げてくるその瞳に、なぜだかゾッとした。<BR>
「エドナ。あなた、今日はおかしいわよ」<BR>
 そうとしか言えなかった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 アークレーヌさまの従者がわたしたちを客間に通し奥へと消えてゆく。<BR>
 控えていた執事がすぐさま紅茶とケーキを説明とともに供してくれた。<BR>
 良質の紅茶の香りが空気に広がり消えてゆくのを楽しみながら、周囲を見やる。<BR>
 シンプルな部屋だった。<BR>
 あっさりしすぎていると言ってもいいだろう。<BR>
 あるのはソファとテーブル、後はライト。装飾品と呼べるものは、マントルピースの上や脇の壁に掛けられた大小数点の絵画だった。<BR>
 カーペットさえ敷かれてはいない。<BR>
「殺風景ですね」<BR>
 思わずといった態でエドナがつぶやいた。<BR>
 小さなそれを拾ったかもしれない執事は、壁際に佇み微動だにしない。<BR>
「エドナ………」<BR>
 今日のエドナは本当におかしい。<BR>
 いつもと違う雰囲気に、わたしもおかしくなりそうだった。<BR>
 まだアークレーヌさまは現れない。<BR>
 手持ち無沙汰も手伝って、ソファから立ち上がり絵に近づいた。<BR>
 五十号はあるだろう穏やかな春の風景が描かれたそれを鑑賞する。この国の田舎には珍しくないだろう、緩急のある丘陵地帯の放牧地に点々と散る羊の群れ。うっすらと靄がかったような空の色はぼんやりと琥珀色を宿したような光を宿す。<BR>
 のどかな風景画にアークレーヌさまはこういう絵画を好まれるのかと、心が穏やかになるような気がした。<BR>
 しかし、それも、逸らした視線が近くに飾られていた五点の一号ほどの素描画を捉えて、霧散した。<BR>
 風景画との不均衡さに、顔が引きつるのがわかった。<BR>
「これは………」<BR>
 暗い。<BR>
 偏執的なまでの執拗さで紙を引っかいたような細い描線が描き出すのは、この館を取り囲むガーゴイルたちの姿だった。<BR>
「なぜ、こんなものをモデルに」<BR>
 悪趣味としか思えなかった。<BR>
 まるで今にも紙から飛び出してきそうな、生々しい異形の鬼たち。<BR>
 嘆き、怒り、戸惑い、悲しみ、絶望にとらわれたものたちの心の底からの嘆きが聞こえてくるかのようで、わずかの”喜”を見出すことすらできなかった。<BR>
 鉛筆の黒と紙の白とのコントラストが、これほどまでに画家の内面を表すことができるのだと、わたしの背中が逆毛立つ。<BR>
 画家の名は? と、走らせた視線が、紙の片隅にあるサインを捉えた。<BR>
 そこには、<BR>
「アークレーヌさま?」の名が記されていた。<BR>
 ああ、そういえば。<BR>
 今朝のあの時も、従者はスケッチブックを手にしていたような気がする。<BR>
「気持ち悪いですね」<BR>
 失言が多い気がするエドナがそうささやいた時、ようやく、<BR>
「待たせてしまいました。申し訳ありません」<BR>
と、聞き覚えのある声が聞こえてきた。<BR>
 振り返った先では、長い白髪で顔の半ばまでを隠したアークレーヌさまがソファまでやってくるところだった。後頭部で髪をくくり、ありふれた白いシャツと髪をくくるリボンと同色のジャケットとズボンといういでたちは、朝とは違っていた。<BR>
「いいえ」<BR>
 慌てて応え、ふたりしてソファへと引き返す。<BR>
 わたしたちが腰かけたのを確認して、アークレーヌさまがゆっくりと腰を下ろした。<BR>
 すかさず執事が紅茶を差し出す。<BR>
 ひとくち含み、<BR>
「それで、ご用件は?」<BR>
 ささやかな大きさの声が問いかけてきた。<BR>
「今朝のことです」<BR>
「………今朝?」<BR>
 長い前髪の奥、表情は判らない。<BR>
「はい。助け起こそうとしてくださったのに、あらぬことを口走った上に手を払いのけてしまって申し訳ありませんでした」<BR>
 頭をさげる。<BR>
 隣では、エドナもまた、<BR>
「わたくしも、まさかアークレーヌさまだとは存じあげなくてあんな暴言を叫んでしまいました。申し訳ありません」<BR>
 頭を下げた。<BR>
「謝罪など必要ありませんでしたよ。あのタイミングでは、仕方のなかったことです。僕の方こそ醜態をさらしてしまい、お恥ずかしい」<BR>
「では」<BR>
「赦してくださるのですか」<BR>
「許すもなにも、単にタイミングが悪かっただけのことでしょう。義母上も今は大切な時期でしょうから、おからだをお厭(いと)いください」<BR>
 立ち上がり、<BR>
「それでは、僕はこれで。トーマス、義母上とレディをお送りして」<BR>
 そう言って、客間を出て行った。<BR>
 アークレーヌさまがこちらを振り返ることはなかった。<BR>
 実際にアークレーヌさまと相対してみて、不思議なことに嫌悪感を抱くことはなかった。私たちに対する態度も普通のものだったと感じられた。あんな素描画を描くとは到底思いもよらない。その現実に、わたしはわたしのなかに根付いてしまった妄想があまりにも悍ましすぎたのだと痛いくらいに感じた。あんなこと、あるわけがないのだ−−−と。<BR>
 そんな風にいろいろなことに拍子ぬけして、しばらくソファから立ち上がることさえできなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 *****<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 前髪を伸ばしていて良かったと、そう思った。<BR>
 目は腫れていることだろう。<BR>
 鏡を確認するまでもない。<BR>
 まぶたが重い。<BR>
 このまま来訪者の相手をしなければならないのかと思えば、気が重かった。<BR>
 しかも、相手は、義母上なのだ。<BR>
 僕の手を振り払った時の、彼女の言葉が耳に蘇る。<BR>
 感じ取ったのは、嫌悪だった。<BR>
 なぜ。<BR>
 彼女に嫌悪されるような態度をとっただろうか。<BR>
 約束通り、ピアノも届けさせた。<BR>
 あの時の義母上の感謝のことばは、春めいた若草色のカードに認められて届いた。<BR>
 直接会おうとしなかった僕への配慮だったのだろう。<BR>
 毎日、義母上はピアノに触れているとハロルドが言っていた。<BR>
 もちろん、ここまで聞こえてくるはずはない。ただ、僕のピアノを弾いてくれているのだと思えば、嬉しかったのだ。<BR>
 埃を払うためだけに蓋を開けて鍵盤を押さえる。主旋律だけの音の連なりに、力をなくした左手が鍵盤のなめらかな感触を求める。最初のコードの幅に手を開いて、指で鍵盤に触れる。ピアニシシシモ(pppp)ていどのささやかな音を出して、ずるりと外れる手指。そのだらしのない音色に、僕の頬が強張りつく。それでもと左手で次のコードをと求めるも、素早く形作ることができない。右手はすでに何小節も先のメロディを奏でているというのに。その甲斐のない切なさにどうしようもない喪失感が襲いかかる。もう、この手指ではメロディを奏でられないのだ−−−と。<BR>
 そんな思いから逃れたかったのだ。<BR>
 それなのに。<BR>
 これは、なぜ。<BR>
「御曹司っ」<BR>
 鋭い声が、僕の耳を射抜き、物思いを破る。<BR>
 右手に持ったペーパーナイフがかすかな音を立てて絨毯の上に転がり落ちた。<BR>
「こちらへ」<BR>
「え?」<BR>
「お早く」<BR>
 ヴァレットが僕の腕を掴み引っ張った。<BR>
「いつ?」<BR>
 どうして?<BR>
 僕は義母上とそのレディース・コンパニオンだという女性の訪問を受けていたのではなかったか? それなのに、いつの間に………。<BR>
 気がつけば、僕は召使用の通路にいた。<BR>
 それでも、忘れられなかった。<BR>
 たった今、ほかならぬ己がしでかしたことなのだ。<BR>
「ピアノ………」<BR>
「はい。ピアノです。大丈夫です。ピアノなのですから」<BR>
 ヴァレットのことばからは、僕が傷つけたものが無機物でしかなかったのだから−−−という慰めが感じられた。<BR>
 それでも。<BR>
 全身が震える。<BR>
 震えが止まらなかった。<BR>
「なんてことを」<BR>
 その場に膝をついた僕の二の腕を、<BR>
「失礼いたします」<BR>
 言いざま掴み、立ち上がらせる。<BR>
「いつまでもここにおいででは、ほかの使用人達に見られてしまいます」<BR>
 引き摺られるままどこをどう歩いたのか、<BR>
「どうか、心安らかに落ち着かれてください」<BR>
 いつの間にか、僕の領域の僕の部屋に戻っていた。<BR>
 僕の居間の、窓辺の寝椅子に腰を下ろしていた。<BR>
 鼻腔をくすぐるのは甘いハチミツの溶けたミルクの匂い。<BR>
 僕の震える手をそっと取って、マグカップを握らせてくる。<BR>
 両手で包むように持ったマグを口元へと持って行く。<BR>
 歯が陶器に当たり、しつこいほど硬い音をたてる。<BR>
「大丈夫です。大丈夫ですから」<BR>
 促されるかのように、ひとくち、口に含んだ。<BR>
 飲み下す。<BR>
 甘くまろやかなハチミツとミルクの香りと味が、口内を潤し、喉の奥へと消えてゆく。<BR>
 全身から力が抜けマグカップを取り落としそうになるのを見越していたのか、ヴァレットがそっとカップを受け取り、テーブルへと乗せた。<BR>
 背もたれに倒れこむように上半身を預け、丈の短い背もたれに自然頭が仰のく。<BR>
 全身の震えに、荒い息が取って代わる。<BR>
 それでも、己のしでかしたことがなかったことになるはずがない。<BR>
 どうして。<BR>
 なぜ。<BR>
 義母上の部屋に入り込んでしまったのか。<BR>
 その上、ピアノを傷つけてしまうなど。<BR>
 もしかして。<BR>
 いつしか僕の耳にも入ってきていた、南の領域で起きたあの事件も。<BR>
「トーマス………あれも、僕がしでかしたことなのかもしれない」<BR>
 ヴァレットにすがるなどと、己を罵りながら、それでも、何かに、誰かにすがりたかった。そうして、今ここにいるのは、僕とヴァレットのトーマスだけなのだ。<BR>
「そう。義母上を、義母上のお子の誕生を忌まわしく思って、そうして、僕がこの手でっ」<BR>
 感情の昂りのままに、体勢を変えて正面を見る。<BR>
 油照りの海のような波立つことのない灰色の目が、そこにはあった。<BR>
 床に膝間付いた姿勢で、トーマスが僕の手を包み込むかのようにそっと触れてくる。<BR>
「あれは決して、御曹司ではございません。どうぞお心安らかになさっておいでください」<BR>
 大きな声ではないけれど力強いその響きに、<BR>
「なぜ」<BR>
 そんなことばが転がり落ちていた。<BR>
「なぜ断言できる」<BR>
 視線に対する恐怖さえも忘れて、僕はトーマスを凝視していた。<BR>
 やがてトーマスの灰色の目がそっと僕から逸らされて、穏やかな声が僕の耳に届いた。<BR>
「………おそれながら。あの日、御曹司におかれては旦那さまと御一緒されておられましたので」<BR>
 頭から冷水をかけられたような心地だった。<BR>
 ああ。<BR>
 ああ。<BR>
 そうなのか、と。<BR>
 遠回しなそのことばに、知っているのだ、と。<BR>
 彼のことばを理解した途端、それまでの昂りが消えてゆく。<BR>
「………」<BR>
「御曹司?」<BR>
 沈黙に顔を上げたトーマスに、<BR>
「ならばあれは、僕ではないと、信じていいのだな」<BR>
「御意」<BR>
 ほかに何が言えただろう。<BR>
「わかった。下がっていい」<BR>
 軽く頭を下げて、トーマスが控えの間に下がってゆく。<BR>
 それを見ることもなく、僕は、窓の外に目をやった。<BR>
 不思議なことに、義母上の部屋に侵入したことやピアノを傷つけたことに対する罪悪感が消えていた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
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