小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
「忙しそうですね」
かけられたことばに、全身が震えた。
◆◆◇◆◆
「いやだっ」
どんなに藻掻こうと、大人の力にはかなわなかった。
「たすけてっ!」
どれほど叫ぼうとも、誰一人助けてくれる人は現われなかった。
「かみさまっ!」
救済者だという、神ですら、顔を背け、耳を塞いでいるのにちがいなかった。
あんなにも、祈りつづけたのに、日曜ごとの教会を休んだことなどなかったのに。
「だれか」
かすれる声が罅割れて、やがてすすりあげるしかできなくなっても、ただ痛みだけが、ぼくを唾棄したい現実に縫いとめていた。
◆◆◇◆◆
母が新たな結婚をして、ぼくは大きな屋敷のお坊ちゃまになった。
ぼくが九つになったばかりの初夏のことだ。
食べるものにも寝るところにも困らない、幸せな毎日。
新しい父はやさしい紳士で、ぼくと六つ違いの妹は、彼が大好きになっていた。
毎日は、紅茶とミルク、焼きたての菓子や薔薇の花のにおいであふれた。
けれど、すべては、まやかしでしかない。そう思えてならなかった。
なぜなら。
それは、ほんの少し前には当然のように目の前に差し出されていた、あたりまえのものだった。だけど、一度与えておいて、運命は、すべてを奪い去ったのだ。
母が新しい父と結婚する二年ほど年前のことだった。
それは暦が次の一年へと変わろうという時。貿易商をしていた父の船が嵐で全滅し、大好きだった兄も父も、船や荷物と一緒に帰らぬひとになってしまった。そうして、母とぼくと妹とは、住むところすら失ってしまったのだ。
母は母国を捨て一族を捨てて父と駆け落ち同然に結婚したため、この国には頼れるあてもなかった。
生まれてこのかた働いたことのない贅沢に親しんだ母やぼくには、どうすれば生きてゆけるのかも、霧の向こうのことのようだった。
寒さと空腹、絶望だけが、ぼくたちのすべてだった。
母が町の女に身を落とすまで、どれほどもかからなかった。
冬の最中で、寒かった。
なによりも、ひもじくてならなくて。
あてどもなく町を彷徨っていたから、すぐに男たちに袖を引かれてしまったのだ。
最初の数日は、母もきっぱりと断りつづけた。いろんな、女でもできる仕事についた。厭いさえしなければ、ささやかな食事にありつける仕事はあったのだ。ぼくも、母と一緒に掃除や洗濯水汲み皿洗いなどの下手間をした。けれど、些細な失敗を繰り返して、首になる。その繰り返しだったのだ。
その日は銅貨すらもらえず首になった。だから、母は袖をひく男たちに逆らえなかったのだ。
それほどまでに、母もぼくも、そうして妹も、寒くて寒くて餓えていたのだ。
母の絶望に投げ与えられた代価で、母とぼくと妹とは、下町の路地の裏、今にも倒れそうな木造の安宿に泊まることができた。
そうして、母は、夜の町に立つようになった。
金の薔薇と謳われるほどに美しかった母は一気に老け込んだ。艶々としていた金髪は、灰色に色褪せ、安いジンに耽溺した。その代価は、最初母の代価よりもはるかに安いものだった。しかし、母がやつれてゆくほどに、酒代のほうが高くなっていった。そうして、一日働いてもジンを買えるだけの金にならなくなったころ、母はぼくを、いくばくかの代価と引き換えに、上流の男たちのおもちゃとして貸し与えたのだ。
泣きたかった、叫びたかった。
死んでしまいそうなくらい、怖くてならなかった。
けれど、そこへと迎えにくる馬車に乗らなければ、母と三人で、冬を越せずに野垂れ死んでいたにちがいない。
ひもじいのも、寒いのも、辛い。それに、何度も想像したその果ての死は、男たちの残酷な遊びに参加させられることよりも恐ろしくてならなかった。
だから、我慢したのだ。ぼくが男たちの秘密の社交場で彼らのおもちゃになっていれば、ぼくたちは、少なくとも餓えることはない。
最低な日々をやっとのことで生き延びていたぼくたちに救済の手を差し延べてくれたのは、母の従兄弟になるというひとだった。
父の訃報を遠い異国の地で知り、あわてて駆けつけたときには、屋敷は既に人手に渡り、そうして、母とぼくの行方は知れなくなっていた。
数ヶ月の間方々探したと、そう言って母とぼくと妹とを抱きしめてくれたのは、どこか美しかったころの母に似た、蜂蜜色の髪の男性だった。
そうして、ぼくたちは、母の従兄弟に連れられて、海をわたり、山を越えた。
母のふるさとは、広大な大地に寒暖差の厳しい気候の国だった。
見晴るかす限りのオレンジ畑の中にぽつんと建つ、白い城。それが、母の生まれた家だった。母の両親は既に身罷(みまか)り、母の祖母だという高齢の女性一人が城に暮らしていた。
母はこの国の貴族の出で、富裕だが平民の父とは、生まれも育ちも、何もかもが違っていた。それでも、ふたりが本当に愛しあっていたのを、ぼくは、おぼえている。
一月も経つころには、母は以前の美しさを取り戻していた。
母とぼくたちをあたたかく迎えてくれた母の祖母の提案で、父と兄の喪が明けるのを待って――ぼくたちの地獄のような日々は、父と兄の死から、ほんの数ヶ月しかたっていなかった間のできごとにすぎなかったのだ。――、母は従兄弟と結婚した。
それを見届けると曾祖母は満足したのか、ほどなくして神の身元に召されていった。
曾祖母の死から一月後、ぼくたちは家族四人でこの国の都へと移動した。
領地は管財人にまかせ、都にある屋敷のほうへと、引っ越したのだ。
そこでの母は、水を得た魚のように生き生きと楽しそうだった。
毎日の夜会、我が家で催すパーティー。木々にぶら下げられた、異国のランタンに灯されたたくさんの明かりの下を、着飾った男女がさんざめき、オーケストラが奏でる音楽にあわせてダンスに興じる。時折り、大きな音とともに花火が夜空で爆ぜて、きらきらと火の粉を撒き散らす。
もちろん、こどもは参加できない。けれど、差し入れしてくれるご馳走やデザートは楽しみだった。それに、こっそりと部屋からのぞき見たりすることはできた。だから、妹とふたり、バルコニーまで出て眺めた。
風にのって届く、花や香水、食べ物の匂い。
幸せだった。
まだ、過去の悪夢に魘されることはあったけれど、それでもいつしか、あの地獄の日々は単なる悪夢に過ぎなかったのだと、記憶の底に沈んでいったのだ。
それは、母にしてもおなじだったのにちがいない。
幸せを当然と、あたりまえの日常と感じるようになった心の隙に魔がさした。
そういうことだったに違いない。
突然のスキャンダルだった。
貴族の夫婦に愛人がいても、それは、公然の秘密でしかない。しかし、愛人と駆け落ちしてしまっては、しゃれにならないということだ。
母に愛人がいたことを、ぼくは知らなかった。だから、青褪めた義父に詰め寄られ問い詰められても、答えられるはずがなかった。
義父が母を愛していたことは知っていた。
義父と母とがもともと婚約者だったということも、領地の城の使用人達がささやきあっていたことを耳に入れて知っていた。
それでも、ぼくは、母に愛人がいることすら知らなかったのだ。
母は、その生涯で、二度、自分を熱愛する婚約者を裏切ったことになる。
飛び出していった義父がひとりぎりで帰ってきたのは、その三日後だった。
やつれ、血の気の失せた義父の顔の中、爛々と光る一対の目が、妹と一緒に彼を出迎えたぼくに向けられた。
その視線。
ぞっと、背筋を駆け抜けたのは、記憶の底から這い上がろうとする、封印したはずの悪い記憶だった。
頭を振って打ち消したぼくの前を、義父はよろめきながら通り過ぎた。
そうして、ぼくは、悪夢がよみがえるのを、体験した。
◆◆◇◆◆
逃げるようにして領地の城に戻った最初の夜だった。
アルコールのにおいに、目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む月の光に、自分の上にのしかかっている影が、まぎれもない義父なのだと、思い知る。
出迎えた時とおなじ、爛々と光る目が、ぼくに向けられていた。
アルコールのにおいの混じる荒い息が、顔にかかる。
逃げようと、本能的に身じろいだ瞬間、夜着を引き裂かれた。
怖かった。
疾うに捨ててしまった神の名に縋りつくほどに。
悲鳴も凍りつくほど怖くてならなくて。
封印した過去が、男たちにおもちゃにされた、おぞましい記憶が、全身を呪縛していた。
母の残したツケだと、義父は、言った。
ツケを払うのは、息子のおまえしかいないと。
逃げたぼくを捕まえて、もみくちゃにしながら、狂った男の声が、言う。
この次おまえが逃げれば、妹をおまえの代わりにしようか―――と、憎々しげに、楽しげに、歌うようにさえ、ささやいた。
疾うに打ち捨てた神の御使い(みつかい)――天使のように愛らしい妹が、まるで当然だというかのように、ぼくの枷となった。
どうすればいいのかわからなかった。
夜毎訪れる義父に抱かれ、ぼくは、泣くすべすら忘れていた。
そうして、ぼくを慕ってくる無邪気な妹を憎んでしまいそうな自分に気づいた。
妹さえいなければ。
母に似た金の巻き毛の妹が、母とおなじ褐色の瞳で笑いかけてくる。
妹を残して、逃げられるはずもない。
ならば。
それは、咄嗟の衝動だった。
ひとりで逃げられないのなら、ふたりで逃げればいい。
捕まるかもしれない。そんな考えなど、微塵も浮かんではこなかった。
逃げた後のことも、なにも考えられなかった。
ただ、逃げよう、妹と一緒に逃げればいい――その考えだけに魅せられていたのだ。
ぼくは、新月の夜を待った。
義父に抱かれながら、狂った呪いをささやきかけられながら、ただ、闇を待ち焦がれていた。
義父が訪れるのは、深夜、家人がすべて寝静まった後のこと。
だから、その前に家を出なければならない。早すぎると、すぐに見つかってしまう。
けれど、今日はさいわいなことに、来訪者があった。
義父よりも歳若い、黒い髪と黒い瞳の、どこかエキゾチックな美貌の青年は、数日間館に滞在する予定らしい。
義父がやけに青年に対して丁寧な態度をとるのが目の端に映っていたが、そんなことはどうでもよかった。
とにかく、この機会を逃しては、次はないかもしれない。そんな不安が強かった。
じりじりと、夕飯が終わるのを待った。
長かった晩餐がやっと終わって、部屋に戻れるとそっと溜息をついた時、突然義父が、バイオリンを弾くようにと命じてきた。
ひとに聞かせるほどの腕ではない。しかし、義父の瞳には、拒否を許さないきつい色が宿っていた。それは、夜毎に向けられる瞳とは違っていたが、怖いことに変わりはない。ぼくは、移動した遊戯室で、習ったばかりのセレナーデを数曲披露することになったのだ。
楽器にはよく弾くひとの心が現われますからね――と、家庭教師に言われていたことを思い出し、数度の深呼吸を繰り返した。静かに、内心の焦りが表れないように弓を弦にすべらせる。
青年が自分を見ているのは感じていた。
けれど、まさか、弾き終えお辞儀をした後で、真直ぐに見つめられるとは思ってもいなかった。
漆黒のまなざしが、ただ静かに、ぼくを見ていた。
なにもかもを見透かすような、心の奥底にまで突き刺さるかのような、不思議な目。
しかし、それは、ほんの数瞬の間のことに過ぎず、義父に話しかけられて、すぐに逸れた。
だから、ぼくはそれをすぐに忘れてしまった。
なにより、これで、やっと、ここから出てゆける――早く逃げなければという思いのほうが強かったのだ。
三階の部屋にもどって、着がえた。
動きやすい外出着と、夜は冷えるので暖かくて軽いジャケットを重ね着する。
こっそりと、部屋を出て、屋根裏部屋に忍び込む。母の持ち物が無造作にそこに運び込まれたのをぼくは知っていた。あまりの辛さや切なさに母が恋しくてならなくて、何か母をしのべるものはないかと求めて何度も忍び込んだから、どこに何が置かれているのか知っている。
母が残していった宝石箱の中の指輪やネックレス、ブローチやイヤリング、ブレスレット、きらきらと光るたくさんの宝石類をできるだけジャケットとズボンのポケットに移し込んだ。
いけないことだと思ったけれど、どうせ、誰も助けてはくれないのだ。
自分でどうにかしなければならないのだから、母の残していったものをもらうくらい、誰にだかわからないけれど、多めに見て欲しかった。
それに、これだけたくさんの宝石があれば、悪夢のようなひもじく辛い現実をもう一度味わいはしなくてもすむのじゃないかと、そう考えた。
そうして、ふと、目を惹かれたのは、壁際に置かれたライティング・ビューローの上に出しっぱなしになっている、銀の持ち手に象牙の刃のペーパーナイフだった。銀の持ち手には、小さな宝石が花を描くように配されている。
深く考えたわけではない。
ただ、これも持ってゆこうと、上着のポケットに入れたのにすぎない。
ひもじいのも寒いのも辛いのも、もう、あんな目にあうのは、厭なのだ。 もういいだろうと、もう一度三階に戻ったぼくは、ぐずる妹をベッドから引きずり出し、着換えさせた。
屋敷を抜け出し、振り返った。
新月の闇の中、黒々と沈む広い城が覆いかぶさるかのように見える。
気づかれたような気配はない。
今のうちに。
いやだとぐずる妹の手を引っ張りながら、足を速めた。
そうして、やっと、門にたどり着いた。
門番も眠っているのか、誰もいない。
もういいんだ。
もう、あんなことをされて我慢していなくても、いい。
妹を枷だと憎まなくてもすむ。
涙が出てきた。
嬉しかった。
これから先の不安があったけれど、でも、悪夢から逃れられたのだと思えば、思いはひとしおだったのだ。
月がないと、時間もわからない。
都とは違ってガス灯も人気もない。どこまでも続くオレンジ畑の中をぼくは、あてどもなくただ闇雲に歩いた。
今何時だろうと思っても、時計にまでは気が回らなかったから、持って出てはいなかった。
どれくらい歩いただろう。
足の裏が熱をもって痛い。
妹は疾うに歩くのを嫌がったので、背負った。すっかり太ってしまった妹の重さが、ずっしりとのしかかってくる。それでも、後悔だけはなかった。
足が痛くて歩き難いけれど、義父が部屋にくる時間になるまで、できるだけ遠くに逃げていなければならない。
気が急いてならなかったが、逆に、足が動かない。
限界がきているらしかった。
どれくらい歩けばいいのだろう。
田舎の領地の広大さを、ぼくは少しもわかってはいなかったのだ。
それでも。
この広さはぼくにとってと同じくらい、義父にとっても、ぼくたちを見つけるための障害になるのにちがいない。
そう思った。
頑張ろう。
自分で自分を励ました。
けれど、足がいうことをきこうとはしない。
やすみたいと、悲鳴をあげていた。
いいかな。
いいかな。
もう、いいよね。
地面に妹をそっと下ろし、ぼくもその場に足を伸ばした。
オレンジの茂みに腰を下ろす。
足の裏が、ジンジンと疼く。
足は棒のようだ。
腰も、手も、もう、動かせない。
そう思った。
いつの間にか居眠りをしていたらしい。
がくんと首が振れて、目が覚めた。
一瞬どこにいるのかわからなかったけれど、すぐに思い出した。
もう行こう。
そう思って妹を起こそうとした。
その時だった。
聞こえたのは、こんな夜遅くにはふさわしくない、馬の蹄鉄が大地を蹴る音。
馬を急かせて駆けぬけてゆこうとする、なにものか。
逃げないと。
隠れよう。
動こうとはしない足を必死で持ち上げた。
ぼくは自分のことに必死で、妹の存在を忘れていた。
「ビアーンカ!」
「ミケーレ!」
名を呼ぶ声を聞いて身を縮めたぼくとは違い、妹は嬉々として返事をしたのだ。
◆◆◇◆◆
熱病患者のようなぎらぎらとしたまなざしが、ぼくを絶望へと突き落とす。
妹は、ここ――父の部屋にはいない。もう、眠ってしまったことだろう。
悪い子だ――と、義父がかすれた声でささやいた。
もうだめだと、一歩下がった足が、ソファの足につまづき、ぼくは、後ろざまに倒れた。
立ち上がろうとして、ふと、何かが手に触れた。
転がったはずみで、ポケットに入れたままで忘れていた母のアクセサリーと一緒に、ペーパーナイフが落ちたらしかった。
「母親の形見とはいえ、盗んだんだね。悪い子だ」
義父のそのことばに、あの夜の父の目が脳裏を過ぎった。
母を追って行った義父が帰ってきたあの夜の、彼の目だ。
母の死を――母を殺したのが彼なのだと、ぼくは直感していた。
全身に冷水をかけられたような寒気が、ぼくに襲い掛かる。
「悪い子にはお仕置きが必要だ。わかっているな」
義父が近づいて来る。
ぼくは、それを、握りしめ、隠した。
気がついた時、足元は血の海だった。
宝石の散らばる血の海に突っ伏しているのは、まぎれもない義父。
義父を認めて脳裏によみがえったのは、のしかかってきた義父の重み。胸元をはだけられ、這わされたくちびるのぞっとするようなぬめり。それに弾かれるように、ぼくはナイフを振り上げ、そうして振り下ろしたのだ。刹那の、ぞっと全身が粟立つような感触が、まざまざとよみがえる。
憎くて。
どうしようもなく怖くて。
義父が息を吹き返してまた襲ってくるのではないかと、振りかぶっては突き立てた。
疾うに死んでいるというのに―――
何度も何度も。
血飛沫が、ぼくの全身をしとどに濡らしても、ぼくは、やめることができなかった。
「忙しそうですね」
突然かけられたことばに、全身が震えた。
恐る恐る振り向いたぼくの目の前で、平然と、なんら変わったことなど起きてはいないのだとでも言うかのように、笑いさえにじませて、そのひとは、
「手伝いましょうか?」
と、そう言ったのだ。
END
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