小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
少なからぬひとの足音の合間に、ひそやかに、間遠な鈴の音が、聞こえる。
ゆるゆると木々の合間に見え隠れするのは、松明に灯した臙脂色の火の色である。
白装束をまとった十人の若衆が、輿を担いで山道を登っていた。
輿に乗せられているのは、やはり白装束をまとった、十五、六に見える少年だった。
見るものが見れば愛しいと思うだろう、それなりに整った造作の顔は、青ざめ、朦朧としているようである。
それもそのはず、少年――藤沢透――は、後ろ手に縛められ、輿に乗せられている。彼の後ろには、意識のない従者がふたり、折り重なるように倒れている。そのほうが、いっそ、幸いなのかもしれなかった。
黒い瞳が、ゆるゆると、熱に浮かされたように、揺らめく。年に似合わぬ諦観が、透の瞳には、刷かれていた。透が瞳に映しているのは、ただ、重なり合う梢のあいまに見える、十六夜(いざよい)の月だった。
(凉也―――)
透は、弟の名を、心の中でつぶやいた。
藤沢の荘の荘園領主には、異母兄弟がいた。
兄を透、五つ違いの弟を凉也といった。
透の母親は、透を生み、ほどなく姿を消した。それは、不思議なことであったが、元が流れの巫女(みこ)であったということもあり、自由が恋しくなったのだろうということで、おさまった。後添いの妻は隣の領主の娘ということもあり、それに、長子――透があまり丈夫ではないということも知られていたため、藤沢の跡継ぎは、弟だろうという空気が、領主の館の中にはただよっていた。
そんな空気の中にあって、今年十五を迎えた長子は、ひっそりと、母屋とは庭を挟んでわずかに遠い離れの棟で日々を過ごしていた。
「兄上!」
丹念に彫り上げられた若武者人形のような顔をほころばせて、凉也(すずや)が駆けてくる。
大きな瞳が、きらきらと輝く。
それがあまりにも眩しすぎて、思わず透は視線をそらせた。
そんなことなど気にかけることもなく、透の暮らす棟の濡れ縁に腰を下ろし、凉也が懐から、蒔絵作りも美しい、横笛を取り出した。
「はい。兄上」
「なに?」
思わず 凉也の顔を見返した。
「この間、笛をなくしたって言ってたでしょ、だから、これ」
差し出された横笛は、しかし、
「おまえ、これは、確か、頂きものだったろう。僕は貰えないよ」
「僕はどうせ笛へただしさ」
「凉也」
「だって、兄上に吹いて欲しいだけなんだもん」
そう言って顔をゆがめる弟に、逆らえるものなどいるだろうか。
「わかった」
「じゃあ」
凉也の顔が、たちまち明るくなる。
「でも、もらえない。借りるだけだ。凉也の好きなのを、好きなだけ吹いてあげる。だから、これを貸しておくれね」
ぷうとふくれっつらをしかけた凉也の顔が、再び満面の笑顔に変わった。
「うん」
弟のまぶしい笑顔を、透は目を眇めて眺めやる。
どだい、この屈託のない少年を嫌えるものなど、いないのだ。
自分だとて、どれほど、この母親違いの弟のことを大切に思っているかしれやしない。そう、誰にも好かれる弟を、羨ましいと思うことはあっても、決して、嫌ってはいない。
凉也にせがまれるままに、一曲もう一曲と、笛を吹く。
自分になにかとりえがあるとすれば、それは、笛を吹くことくらいだろう。そんな透の鬱屈が曲に現われるのか、ともすれば、笛の音は、沈みがちだった。
透に養子の話が持ち上がったのは、その年が明けてしばらくしてからのことである。
遠縁の荘園領主の跡継ぎとして、この家を出てゆかなければならないというのだ。
透には、反論する気は毫ほどもありはしなかったが、お兄ちゃん子である凉也にしてみれば、耐え難いことであったのだろう。
「兄上っ」
濡れ縁から駆け上がってきた凉也が、
「なんでだよ! この家を継ぐのは兄上に決まってるじゃないか」
声を荒げて、透に詰め寄る。
「だって、父上と母上が」
「イヤだって言えばいい」
地団太を踏まんばかりの凉也のようすに、透は、ふっと、笑った。凉也ならば、そう言うだろう。言って、両親も、考え直すのに違いない。けれど、自分は――
「無理だよ」
自分のところに話が来るころには、それは、既に決定事項なのだ。凉也とは違い、自分の意見など、聞き入れられた記憶もない。
「!」
透の笑顔になにを感じとったのか、凉也の顔が強張りついた。
ふと、両肩に、凉也の陽に焼けた手がのせられた。
「凉也?」
見上げる透のくちびるに、凉也のそれが重なったのは、ほんのわずかな間のこと。
驚き目を見開いた透に、
「僕は、兄さんが好きなんだ」
凉也は、透を抱きしめた。
それは、決して、あってはならないこと。
実の弟が、実の兄に、愛を告白するなど、ひととして許されることではない。
だから、透は、すぐにも養子に出たいと、父に申し出たのだった。
透と一緒に供としてあちらの荘園へと行くのは、ふたり。あちらにゆけば、すべてはあちらが用意して待っているとはいえ、それは、あまりにも少ない頭数だった。
透を主(あるじ)とする総勢三名は、その二日後、夜陰に乗じて屋敷を後にした。
あまりに寂しい出立ではあった。
寡黙な主従は、それより三日後に、とある村に差し掛かった。
どことなく落ち着きなくざわめいた村に、三人は、宿を借りることになった。
村をぐるりと囲い込む柵の外からでも、あまり陽気とは感じられない興奮が、感じられ、できれば素通りしたかったのだが、わらわらとまとわりついてきた子どもたちを追い払うこともできず、村に引き込まれたのだ。
「祭ですのでご遠慮なさらず」
と、のっぺりとした顔の村長のことばに、なにがしかの不安がなかったといえば嘘になるだろう。
しかし、透は、妙に押し出しの強い村長に、断りきることができなかったのだ。
そうして、透の不安は的中する。
夕餉の席で、まずは従者二人が昏倒し、透は捕らえられた。
「申し訳ございませんなぁ。………今宵は、大切な、百年に一度の大祭なものでして。客人(まろうど)どのに、我らが神の贄(にえ)になっていただかねばならぬのですよ」
ひやりと冷たい笑みをたたえた、半白の髪ののっぺりとした男が、縛められた透の頬をその手でぞろりと撫でさすった。
無理やり嚥下させられた、生臭い草の汁のせいで朦朧となった透は、そのまま禊(みそぎ)をさせられ、白い着物に着替えさせられた。
篝火がたかれた村の広場で、神主に、なにやらわからぬ祝詞(のりと)らしきものをふるまわれ、透は輿にかつぎあげられた。
ちりん――――と、古びた金の鈴が音をたて、それが合図であったのか、若い衆がぐっと一歩を踏み出した。
黒々とした影を田畑に落とすその山は、足を踏み入れようとするものたちに心理的重圧を抱かせる。
風が吹きはじめていた。
雲が追いやられ、月の光を幾度もさえぎる。
ざわめく木々のこずえが、ありえない化け物の影を、地面に投げかける。
行きたくない――と、背筋を這い上がる拒否感がぞろりと全身に絡みつき、いやな汗がにじむ。
それでも、これは、欠かせぬ奉納の儀式なのだ。
しかも、百年に一度の、闇の大祭。
欠かせぬのは、生きたひと。
毎年の贄なれば、家畜を差し出すが、今年はそうもゆかぬのだ。
彼らが神は、血を、殊(こと)に、ひとの血肉を、悲鳴を、何よりも好んだ。
だから、彼ら若衆は、輿の上の贄を彼らの聖地である山の中腹へと運んだ後、死に物狂いで逃げなければならない。でなければ、彼らもまた、神の贄となりかねない。
村長に受けた説明を、若衆たちは思い返しつつ、山を登りつづける。
そうして、やがて、十六夜の月に照らし出された、聖地に到着した。
急峻な山肌が迫ってくる、細い道の行き止まりに、ぽっかりと開けた空き地がある。その行き止まりには、黒々とした洞窟が、口を開けていた。
空き地の中央に、注連縄(しめなわ)の巻かれた、黒光りする丸くたいらな台がある。
台の上四箇所と、台の足元に四箇所、銅製なのか、青く錆を吹いた輪が穿たれていた。その輪に、生贄を縛めるのだと、知れる。
若衆たちは、手際よく、ことを進めた。
透は、飲まされた護摩汁(ごましる)に半ば意識を絡めとられている。そんな彼を台の上に縛めるのに、さしたる手間はかからない。
透の従者を、また、彼らは、台の下の輪に、縛りつけ、異国風の響きの祝詞を、唱えはじめた。
詠唱は、風や木々の悲鳴に不意にかき消されながらも、聖地に満ちていった。
そうして、どれほどの時間が過ぎただろうか。
生臭い風が、化け物の顎(あぎと)のような洞窟の奥から噴出した。
ぴたり――と、十人の若衆たちの声が、あわせたように途絶えた。
一様に青ざめた顔を見合わせ、じりと後退する。
手にした刃で、生贄に傷を負わせることすら忘れ、彼らは、ひときわ生臭い風が吹き出したそのとき、後も見ずに、逃げ出したのだった。
白銀の光が、はるか上空から、このさまを見ているのに気づいたのは、はたして、いたのだろうか。いたとするなら、聖地に封印されている、当の神であったろう。しかし、村人により神と呼ばれているそれは、一年に一度の、そうして、百年に一度のご馳走に、すべての意識を絡めとられていた。
飢えのゆえに、その神は、白銀の光の存在を意に介さず、無造作に、その食卓に姿を現わしたのだ。
ぬらりと吐き気をもよおす臭気をまとい棲み処から現われたのは、なんとも曰く言いがたい、触手の化け物だった。
おびただしい数の、粘液を滴らせる赤黒い触手が、ゆらゆらと、次いで、信じられないほどの速さで、意識を失ったまま縛められている、従者の一人を絡め取った。
無造作に、男を縛めている縄ごと、凄まじい勢いで引きちぎり、持ち上げる。
その衝撃に意識を取り戻した従者は、己の状況に、悲鳴をあげた。
(な、んだ?)
透の意識が現実を認めたのは、まさに、従者の爆(は)ぜるような悲鳴のためだった。
手と足を大の字に縛められ、自由になるのは首から上だけという、あまりといえばあまりな自分のありさまに、透の血の気のない顔が、引き攣れた。
細い手首と足首に食い込むほどの縄が、透に千切れようはずもない。
必死に頭をもたげて状況を確認した透は、悲鳴をあげることすら忘れて、ただ眼前の光景を、その両眼に映していた。
魂消える絶叫とともに、従者の手足が引きちぎられた。
ぼたり――と、従者の血しぶきが、透の全身をしとどに濡らした。
二人目の従者が、骨の折れる気味の悪い音ととともに潰されてゆくさまを、透は、見ていた。
全身は瘧(おこり)にかかったように震え、ぬめる血に、脂汗が、にじむ。
なぜ、どうして、自分が、自分の従者たちが、こんなことに巻き込まれるのか。
(すまない………)
自分についてきたばかりに。
あやまっても、彼らが許してくれることはないだろう。
恨まれても、当然に違いない。
流れる涙は、彼らに対する謝罪からのものなのか、純粋な恐怖からのものなのか、透にはわからなかった。
(でも、すぐに、僕も………)
現実のこととは思えない恐ろしい化け物と、今まさに食われようとしている、肉の塊と化した二人目の従者を、透は、呆けたように見上げつづけた。
次は、自分だ――。
逃げるすべすら奪われて、こんなにも非力な自分が、助かるはずもない。
ぐしゃり――と、身の毛のよだつような音がして、ゆらりと血と粘液とにまみれた触手が、透のすぐ目の前に、迫っていた。
(ああ……………)
目を閉じることすらできない。
(凉也)
自分を慕ってくれた弟の名を、呪いかなにかのようにつぶやき、透は、ただ、迫り来る触手を、凝視しつづけていた。
と、不意に、一陣の風が吹き、その場の吐き気をもよおすような臭気を吹き払った。
そうして、まばゆいばかりの白銀の光が、透の目を灼いた。
知り合いのところからの帰りだった。
一瞬で住処に戻ることができる佐久良であったが、その夜は、好みに合った酒の余韻を楽しみながら、夜風に吹かれて帰ろうか―――との、まさに酔狂で、夜空の散歩としゃれこんでいたのだ。
心地好い酔いに身をまかせてどれほどが過ぎたころだったろうか。
ふと、佐久良の鼻腔を、不快な匂いが満たした。
(これは――)
知らぬ匂いではない。
だからといって、親しい匂いではないが。
それは、どちらかといえば、対立する存在の匂いだった。
(このようなところに)
佐久良の秀麗な眉間に、くっきりと縦皺が刻まれる。
ひとの目にはかからぬだろう上空から、佐久良は、眼下を見晴るかした。
そうして、
「ふん」
黒い石に括りつけられている、ひとりの少年が、彼の興を惹いた。
青ざめ、震えている、白い顔。今は血に汚れているが、汚れを拭えば、線の細い、やわやわとした、愛らしい顔が現われるだろう。
私のいる真下でいい度胸だ――と、考えていた佐久良だったが、この瞬間、彼は心を決めたのだった。
周囲が焼け焦げる凄まじいばかりの異臭に、意識を手放しかけていた透は、目を開いた。
とっさに閉じたとはいえ、目はまだ映像を結ばない。
しばらく瞬きを繰り返し、ようやく見ることができたのは、黄金色のまなざしだった。
信じられないくらいに整った、白皙の美貌に、流れ落ちる滝のような、銀の髪。
知らず、透の全身が、がくがくと震えた。
眼前に、自分を見下ろしている美男が、ひとならざるものであると、透の本能が、告げていた。
「あ……ありが…………」
金のまなざしが、自分から離れない。
その密度の濃さに、透の声が、尻すぼみに小さくなってゆく。
と、やはり優美な先細りの指が、伏せた透の頤(おとがい)に添えられ、持ち上げられた。
「名は?」
無造作な、それでいて玲瓏と響く声に、透は、意識せず名を告げていた。
「透か。私は佐久良だ」
「え? あ……」
気がつけば、透は、はるかな高みに、佐久良と名乗ったひとならざるもの――神に抱かれて、夜空に浮かんでいた。
あまりのことにうろたえおびえる透に、
「慣れろ」
と、短く言ってのけ、佐久良は、その場から姿を消したのである。もちろん、透もともに。
次に透が気づいたとき、そこは、まるで見知らぬ場所だった。
ゆらゆらと揺れる蝋燭の光。
薄ぼんやりとした灯りに照らし出されているのは、
「神さま」
白銀の神が、透のこぼしたことばに、ふっと笑った。
「私のことを神と呼ぶか」
金の瞳が、面白そうに、透を見下ろしていた。
自分が神の膝に抱かれていることに気づき、透が真っ赤になる。
「ぼ、僕を助けてくださいました………」
「そうか。だが、私のことは、佐久良と呼べ」
「佐久良さま……」
「さん――で、いい」
「佐久良さ……ん」
「そうだ。透はいい子だな」
なぜとはわからず、透が落ちつかなげに身じろいだ。
刹那、降ってきたようなくちづけに、透が、硬直する。
二度目のそれには、もちろんのこと凉也のようなたどたどしさはなく、透は抵抗することすらできぬままに、甘んじて、佐久良を受け入れたのだ。
静かな屋敷には、ひとの姿もない。
白木の欄干に胸をあずけて下を覗き込めば、そこには清らかな小川が流れている。川の中には、小魚や昆虫の姿が見える。ほとりには、水仙が咲き乱れている。たまさかに、庭に植えられているあまたの白梅の香に誘われたのか、鶯が鳴き交わす声ばかりが、せせらぎに混ざって、耳にやさしい。
透のすべてが佐久良のものになって、わずかに十日ばかり。
今日は、佐久良は、不在だった。
佐久良は、やさしい。
そう、あの得体の知れない化け物を瞬時に滅ぼしたほどの力を持ちながら、佐久良が透に酷い扱いすることはなかった。
もちろん、あの行為そのものは、透にとって、苦痛であり羞恥のきわみでこそあったが、嫌悪感はなかった。
ほんの戯れに――おそらく、それこそが真実だろうと透は思っていたのだが――自分を救ってくれた神に、すべてを捧げることは、ある意味法悦に近いものですらあったのだ。
透は、満たされていた。
ただ、気がかりがあるとすれば、それは、父でもましてや継母のことなどではなく、ただひとりの、弟のことであった。
弟を避けるように旅立って、半月ほど。当初の予定であれば、養家に疾うについていなければならない。
自分たち――ふたりの従者のことを思えば、胸が痛む――が着いていないことが、もう、藤沢の家に知らされているころだろう。
「凉也………」
(寂しがっていなければいいんだけれど)
透の薄いくちびるから、吐息がこぼれ落ちた。
そのとき、透の頬に、熱風が薙いだかの錯覚が襲い掛かった。
したたかに、床の固さを味わい、透はぶれる視界を懸命に見開いた。
そこには、
「佐久良さ……ん?」
これまでにない厳しい金のまなざしが、透を見下ろしていた。
なにが起こっているのか、透にはわからない。
ただ、佐久良は、無言のまま透の襟元を掴み、立ち上がらせた。
「誰だ?」
食いしばった佐久良のくちびるから、低い声音が、押し出された。
「?」
突然の佐久良の変貌に震えながら、透は、佐久良を見上げるよりない。
自分の何が、神の逆鱗に触れたのか、透には、わからないのだから。
「凉也とは、おまえの、なんだ?」
目を覗き込むようにして、搾り出された問いに、透の震えがおさまる。
「……凉也は、僕の、弟です………」
答える声は、か細い。
「弟?」
「はい。母親の違う、弟です」
おそらく、自分がなぜ怒ってしまったのか、この少年にはわかっていないのだろう。あどけないような表情で、自分を見上げる透に、ふっと、佐久良の強張った表情がほどけた。
おそらくは、自分を知る誰に語ったとて、一笑にふされることだろうが、自分は、この子供を一目見て、惹かれたのだ。
自分のものにしたい――と。
だからこそ、あの忌々しい化け物から救い出し、独りになりたいときに使っているこの空間に招き入れまでしたのだった。
その少年の口からふいにこぼれた未知の名を見過ごしにできるほど、自分は心が広くはないのだ。
「僕が、養家に着いていないことを知ったら、弟は悲しむかなと思ったんです。あの、佐久良さん、僕が生きていることを、凉也に知らせては、ダメですか?」
「文を書け。届けさせる」
佐久良のひとことに、透の頬にうっすらと、佐久良が張ったのとは違う血の色がのぼった。
「ありがとうございます」
その表情が、なんとはなく色っぽく思えて、佐久良は、
「ただし、それ以降、おまえのこのくちびるが綴っていいのは、いいか、私の名前だけだ」
付け加えずにいられなかったのである。
「………」
「わかったか」
「はい……」
ふたりの視線が、からみあう。
佐久良は、透にくちづけを落とし、透は、それを、おとなしく受け入れた。
静かな空間の中、川のせせらぎと鶯の鳴き交わす声に混じって、あえかな吐息が、花開きこぼれた。
それからしばらくして、眠る凉也の枕元に、兄からの文が届けられた。
おしまい
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