小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
<BR>
<BR>
<BR>
それを何と呼ぶのか。<BR>
薄れ行く意識の中で、郁也は嗤った。<BR>
襲われたというのにいまだ信じようとはしない自分自身をなのか、それが実在するという現実をなのか、郁也には判らなかった。<BR>
くそったれ。<BR>
まぶしいばかりの白銀の月が、既に遠ざかり行く男の姿を黒い墨としていた。<BR>
<BR>
それが、昨夜のことだ。<BR>
塾帰りの街角で、いきなり襲われたのだ。<BR>
駅に向かう繁華街は、本道さえはずれなければ、街灯に照らされて昼のようだ。<BR>
ひとの姿も絶え間ない。<BR>
それなのに、なぜ。<BR>
何故、自分だったのか。<BR>
通り魔だったろう。<BR>
名の通りに。<BR>
憎いと思っても、名も顔も知りはしない。<BR>
ひとならざるもの。<BR>
ブラインドを下ろした部屋の中、布団をかぶって尚日射しがまばゆい。<BR>
郁也は震えた。<BR>
頭が痛い。<BR>
気分が悪い。<BR>
喉が渇く。<BR>
心臓の音がうるさい。<BR>
血液が管を流れる音が、うるさくてたまらない。<BR>
ああ。<BR>
もう。<BR>
自分は。<BR>
ひと。<BR>
では………。<BR>
なくなったのだ。<BR>
なくなってしまったのだ。<BR>
引きずり込まれた細い路地裏で、見上げた細い銀の月をまぶしいと感じた時から。<BR>
あの墨のような男に血を吸われてから。<BR>
このままでは自分が何をするのか、郁也には判った。<BR>
痛いくらいにわかっていた。<BR>
それは、映画や漫画、そうして小説からの知識だったが。<BR>
そう外れてはいないだろうとことが、判っていたのだ。<BR>
家族を襲う。<BR>
病院に入れられる。<BR>
もしくは。<BR>
この渇きと苦痛に堪えられず、狂ってしまうだろう。<BR>
そうなれば、おそらく。<BR>
見境のない化け物になってしまうのだ。<BR>
血に飢えた、化け物。<BR>
怖い。<BR>
自分が。<BR>
自分を殺そうとするだろう、世界が。<BR>
殺される前に。<BR>
殺す。<BR>
想像が郁也の心を戦かせる。<BR>
駄目だっ!<BR>
それくらいならいっそ病院に?<BR>
それも、恐ろしかった。<BR>
研究対象とされる日々はやはり怖い。<BR>
狂ってしまえばそうではないだろうが。狂えないままの日々は、苦しいだけだろう。<BR>
家を。<BR>
「出るしかないのか………」<BR>
幸い自分は一人息子ではない。両親も最初は寂しがるだろうが、やがては諦めるだろう。<BR>
失踪する人間など山のようにいる。<BR>
自分もそのひとりになるだけだ。<BR>
問題は、どうやって暮らしてゆくか。それだった。<BR>
自分の貯金をかき集めたとしても、どれほどにもならないだろう。<BR>
いいところ数万か。<BR>
バイトもしない高校生などそんなもんだ。<BR>
夜の街に受け入れてもらうにしても、自分はまだ十六だ。歳をごまかせたとして、住む所はどうする? 働き先は?<BR>
ホームレスにまぎれて、日々をどうにか。<BR>
そんな日々が頭に浮かんだ。<BR>
イヤだ。<BR>
イヤだ。<BR>
イヤだっ!<BR>
夢もあった、希望もだ。<BR>
それが突然理不尽にも奪い去られた現実に、郁也は首を振った。<BR>
目が回る。<BR>
その時だ。<BR>
「郁ちゃん。お昼食べられる?」<BR>
ドアをノックする音がして入って来たのは、年の離れた姉だった。<BR>
「どうしたの? ブラインドも開けずに」<BR>
「駄目だっ! 開けるな」<BR>
思わず布団から飛び出して姉を遮る。<BR>
「危ない。やけどするじゃない」<BR>
ブラインドを背に姉の前に立つ。<BR>
握った姉の手から伝わる熱に、その血液の脈動に、喉が鳴った。<BR>
欲しい。<BR>
飲みたい。<BR>
思考がそれだけに支配されそうな恐怖に、郁也は戦慄する。それは、まぎれもない、絶望を伴うものだった。<BR>
それまでは、まだ、どこかで妄想を弄んでいるようなものだったのにちがいない。<BR>
それが、リアルな恐怖に取って代わられたのだ。<BR>
血が下がる。<BR>
からだが冷えてゆく。<BR>
寒い。<BR>
震える。<BR>
全身が震え、脂汗が流れる。<BR>
「大丈夫?」<BR>
顔を覗き込んで来る姉の動きに、甘い血の匂いを嗅いだと思った。<BR>
「出てけ」<BR>
だから、郁也は姉を突き飛ばしたのだ。<BR>
姉の怒りは怖くなかった。<BR>
怖いのは自分だったからだ。<BR>
姉を襲い血を飲むだろう自分だった。<BR>
『もう、勝手になさいっ」<BR>
ごめん。<BR>
謝罪は声にはならなかった。<BR>
<BR>
その夜、郁也は姿を消した。<BR>
家族は必死になって郁也を探したが、彼らが郁也を見つけることは決してなかったのだ。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
星の綺麗な夜だった。<BR>
空気は既に冬も深まったことを教えている。<BR>
寒い。<BR>
寒くてたまらない。<BR>
だというのに、寒さよりも孤独が、孤独よりも飢えが、身をより苛んだ。<BR>
血を得る術を郁也は知らない。<BR>
ひとを襲うことをよしとはできなかった。<BR>
だけに、いや増す飢渇が郁也を苦しめる。<BR>
しかし、これだけは、譲れなかった。<BR>
自分にこんな意地を張ることができるなど、郁也は考えたこともありはしなかったが。<BR>
やればできるもんなんだな。<BR>
漠然とそうとだけ思う郁也だった。<BR>
家を出て、一ト月になるだろうか。<BR>
その間口にしたものと言えば、水だけだった。<BR>
案外生きれるもんだな。<BR>
化け物が生きてるって言えるのかどうかは知らないけどな。<BR>
肩を竦める。<BR>
ふらふらと町をさまよい、町を出た。<BR>
ひとを襲いそうになる自分を恐れて、ひとがいない場所を選びつづけて遂に、山に踏み込んだ。<BR>
現代っ子の郁也にはサバイバル経験も知識もない。火をつけることすら道具なしにはできないのだ。ましてや、獣を獲る術など。あるのはただ、ひとではなくなったからだひとつである。<BR>
それが幸いか災いか、は、既に郁也の中では決着がついている。<BR>
言うまでもなく。<BR>
考えるまでもなく。<BR>
山奥に見つけた洞窟で夜露をしのぎながら、郁也は考える。<BR>
考えようとする。<BR>
しかし。<BR>
頭を占めるのはもはや、ただ、飢渇ばかりだ。<BR>
空腹と、喉の渇き。<BR>
血が飲みたいという欲望ばかりだった。<BR>
それを抑えようと含む水は、ただひたすらに虚しさばかりを郁也に与えた。<BR>
そんな自分の震えるからだを両手で抱きしめる。<BR>
治まれと、口癖になったことばを口ずさむ。<BR>
しかし、紡ぐことばは人語にならず、ただの呻き声となり、空気に消える。<BR>
理性が消えるのは時間の問題と思えた。<BR>
もとより、我慢強い方ではない。<BR>
一ト月も、よく保ったと言えるだろう。<BR>
見えるものは、もはや、死だけだった。<BR>
化け物になって、死ぬのか。<BR>
突然脳裏をよぎった予想に、郁也の呻きが嗤いに取って代わった。<BR>
ケラケラと、狂ったような空虚な嗤いが、銀粉をまぶしたかの星空に消えてゆく。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
「強情な」<BR>
黒衣をまとった男がつぶやいた。<BR>
星の美しい夜の底で、郁也が嗤っている。<BR>
梢の間から、男は行くやを見下ろした。<BR>
見失った個体を見つけてみれば、未だ不完全なままだった。<BR>
簡単に堕ちると思ったのだ。<BR>
「意外や骨があったのか」<BR>
今時の若者らしく柔軟と言えば聞こえがいいが、精神面が脆弱そうな少年に見えたのだが。<BR>
「堕ちてこい」<BR>
誰でもよかったのだ。<BR>
実を言えば。<BR>
男でも女でも、若かろうと幼かろうと歳を寄せていようと。この永い生に飽いた自分を楽しませてくれるのなら。<BR>
だというのに。<BR>
あの若者は、自分が血を吸った後の飢渇を、一ト月もの間耐えているのだ。<BR>
すぐに折れ、ひとの血を吸うことにも慣れると思ったのだが。<BR>
吸わなければ、完全体になることはない。ならないからこそ、吸うことを堪えられるのか。しかし、吸わなければその身を襲う飢渇は地獄の責め苦にも似たものなのだ。すなわち、絶えることのない苦痛である。<BR>
この一ト月で、郁也の身はやせ細り、目は飢えに苦しみにぎらついている。幾度も噛み破ったのだろう、くちびるはかさつき血を滲ませる。<BR>
男の舌が、己がくちびるを舐め湿した。<BR>
ビルの谷間で吸ったあの血の味を思い出す。<BR>
芳しく甘かった。<BR>
男は喉を鳴らした。<BR>
からだの奥深くで、久しく打つのを止めた鼓動が刹那の間よみがえる。<BR>
束の間とはいえ、冷えきったからだに熱がともったのだ。<BR>
戯れなどではなく、心の底から飲みたいーーーと。<BR>
男は、郁也を見てはじめて、そう思った。<BR>
黒衣の男がその手を郁也に伸ばした。<BR>
その手が郁也に届くかに思えた時。<BR>
「チッ! 物好きな」<BR>
男の舌打ちが聞こえ、梢の狭間に気配が消えた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
あたたかい。<BR>
どうしてこんなに気持ちいいんだ。<BR>
しかし。<BR>
欲しい。<BR>
目覚めた視界いっぱいのまばゆい光に、刹那の心地好さは、瞬時にして凶暴なまでの飢えに取って代わられた。<BR>
寒い。<BR>
喰わせろ。<BR>
飲みたい。<BR>
凶悪なまでの衝動に、手を伸ばした。<BR>
振り払おうともがく感触に、力をこめる。<BR>
そのまま引き寄せ、無意識の命じるままに引き倒したものの首筋に顔を埋めようとした。<BR>
そうして、我に返る。<BR>
なにをしようとしたのだ。<BR>
立ち上がると同時に後退する。<BR>
本能が警鐘を鳴らす。<BR>
駄目だーーーと。<BR>
飲んでは駄目だ。<BR>
ひとを喰らったら最後だ。<BR>
そうすれば、じぶんは、ひとではなくなってしまうだろう。<BR>
嬉々としてひとの血を啜る鬼になる。<BR>
なってしまう。<BR>
郁也は口を押さえた。<BR>
おそらくは。<BR>
なってしまえば、自分はひとを獲物としてしか見なくなるだろう。<BR>
そうなれば、次々と、飢えにせっつかれるままひとの血を啜りつづけるようになってしまう。<BR>
なってしまった方が楽なことは判っていた。<BR>
それでも。<BR>
しかし。<BR>
自分はひとなのだーーーと。<BR>
郁也は思うのだ。<BR>
ひとでいたいーーーーと。<BR>
既にこの身はひとではないとしても。<BR>
心までも化け物になってしまいたくはないのだと。<BR>
そんな自分がいるなどと、ひとであったころには考えもしなかった。<BR>
どこかひとつでよかった。<BR>
他人とは違う自分でありたかった。<BR>
他人よりも優れている。<BR>
他人とは違って何かがある。<BR>
そうでありたいとどれだけ夢見ただろう。<BR>
しかし、また、それは夢でしかないのだとイヤになるくらいに判っていた。<BR>
夢は夢でしかないのだと。<BR>
なのにどうして。<BR>
叶ってしまったのだろう。<BR>
何もない者に、なってしまった。<BR>
何もない。<BR>
家も家族も、熱も。<BR>
なにもありはしないのだ。<BR>
自己憐憫の涙が郁也の頬を濡らした。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
痩せて汚れた男が声もなく涙を流す。<BR>
鷺沢柊悟はそれを見上げていた。<BR>
ひとではないかのような力だった。痩せた手からは考えられないほどの力で引き寄せられ、引き倒された。そうして、発達した犬歯が剣呑な光を宿したと思った。<BR>
手を押さえ、首筋に触れたくちびるは、恐ろしいほどに冷たかった。<BR>
まるで、死人ででもあるかのように。<BR>
犬歯が当てられた箇所がいっそ熱いほどだった。<BR>
若い男の唇が触れた箇所をするりと撫でた。<BR>
鷺沢は、若い男から視線を外して己の掌を見た。<BR>
どうもなっていないようだった。<BR>
鷺沢は何故だか判らないままで、ほっと安堵した。<BR>
<BR>
気分転換に別荘を抜け出した先で、彼はそれを見つけた。<BR>
薄汚れた若い男だ。<BR>
苦しそうに呻き、意識もそぞろのようだった。<BR>
触れた額の熱は恐ろしいほど低かった。<BR>
このままでは死ぬか。<BR>
そう考えて、鷺沢は若い男を別荘へと連れ帰ったのだ。<BR>
<BR>
荒い息は獣じみている。<BR>
ぼさぼさの前髪の下の目もまた、飢え餓えた獣のようだ。<BR>
赤く輝き、渇望しつつ、怯えている。<BR>
何に怯えているのか。<BR>
思うのはただ、哀れなというそれだけだった。<BR>
「大丈夫だ」<BR>
ひそやかに、相手をあれ以上怯えさせないように、鷺沢はささやくように告げる。<BR>
落ち着くのだと。<BR>
そんなに涙を流すなと。<BR>
そんなに怯えないでくれと。<BR>
<BR>
薄汚れた、おそらくはひとではないだろう相手にだ。<BR>
<BR>
それは、鷺沢の芸術家としての直感だったのかもしれない。<BR>
<BR>
「血を、飲みたいのか」<BR>
問いかけに、若い男の肩が跳ねた。<BR>
動きを止めて、赤い目が鷺沢を見返す。<BR>
不安げに揺れる赤いまなざしに、<BR>
「ちょっと待て」<BR>
鷺沢は笑んで見せた。<BR>
テーブル上のナイフを取る。<BR>
怯む男に目交ぜをして、掌に刃をすべらせた。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
渇望した赤が目の前にある。<BR>
目の前が大きく回る。<BR>
視界はただ深紅に染まった。<BR>
大きく呻くや、郁也は男の掌に顔を近づける。<BR>
甘い匂いだ。<BR>
求めつつ忌避した匂いだ。<BR>
飲みたい。<BR>
駄目だ。<BR>
駄目なんだ。<BR>
けど!<BR>
限界だ。<BR>
もう、限界なんだ。<BR>
「遠慮は要らん」<BR>
男の落ち着いた声が、郁也の葛藤に決着を付けた。<BR>
くらくらとくらむ視界のその中に、郁也は男の顔を見出した。<BR>
三十くらいだろう、育ちの良さそうな美丈夫だった。<BR>
その掌に血をたたえて、男は郁也に笑みかけていた。<BR>
「ありがとう」<BR>
掠れた声が、郁也の喉から押し出された。<BR>
結局郁也は鷺沢の掌の血を飲むことはなかった。<BR>
冗談めかして「もったいない」と言われたものの、できなかったのだ。<BR>
<BR>
目ばかりが目立つ。<BR>
いつの間に赤くなってしまっていたのか、鏡の中から己を見返す目に、怖気が出た。<BR>
痩けた頬。<BR>
色艶の悪い肌。<BR>
バサバサに伸びた、髪。<BR>
鏡にまだ自分が映るのだと、どこかでほっとしている自分がいる。<BR>
それで言うなら、水も飲めないところだろうが。<BR>
ならファンタジーの何処までが真実なのか、虚偽なのか。<BR>
郁也はぼんやりとただ湯に浸かっていた。<BR>
血を飲んだわけでもないというのに、なぜか飢渇は薄れていた。<BR>
あれほどまでに自分を苛んでいたというのにだ。<BR>
一体何が起きたのか。<BR>
何故こんなにも心穏やかになれたのか。<BR>
からだを拭き、鷺沢のものだろうサイズの違うパジャマを身に着ける。<BR>
それだけで、なんだかひとに戻れたような錯覚があった。<BR>
「ふ」<BR>
と、笑う。<BR>
不思議なひとだ。<BR>
『使うといい』<BR>
鷺沢は、何も聞かずそう言ってこの部屋を貸してくれた。<BR>
「襲ったんだけどな」<BR>
失敗したが。<BR>
おそらくは、失敗してよかったのだろう。<BR>
「殺さなくてよかった」<BR>
2011/12/10 20:25
2011/12/11 11:13
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