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小説の後書きとかいい訳とか。あとは雑記。
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  九月。
早いですねぇ。

朝晩は少し秋めいてきた気配。
鈴虫の音を聴きながら寝るのは、贅沢なのか、単に煩いだけなのか。
嫌いじゃないからいいんですけどね。
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 少なからぬひとの足音の合間に、ひそやかに、間遠な鈴の音が、聞こえる。
 ゆるゆると木々の合間に見え隠れするのは、松明に灯した臙脂色の火の色である。
 白装束をまとった十人の若衆が、輿を担いで山道を登っていた。
 輿に乗せられているのは、やはり白装束をまとった、十五、六に見える少年だった。
 見るものが見れば愛しいと思うだろう、それなりに整った造作の顔は、青ざめ、朦朧としているようである。
 それもそのはず、少年――藤沢透――は、後ろ手に縛められ、輿に乗せられている。彼の後ろには、意識のない従者がふたり、折り重なるように倒れている。そのほうが、いっそ、幸いなのかもしれなかった。
 黒い瞳が、ゆるゆると、熱に浮かされたように、揺らめく。年に似合わぬ諦観が、透の瞳には、刷かれていた。透が瞳に映しているのは、ただ、重なり合う梢のあいまに見える、十六夜(いざよい)の月だった。
(凉也―――)
 透は、弟の名を、心の中でつぶやいた。
 
 
 藤沢の荘の荘園領主には、異母兄弟がいた。
 兄を透、五つ違いの弟を凉也といった。
 透の母親は、透を生み、ほどなく姿を消した。それは、不思議なことであったが、元が流れの巫女(みこ)であったということもあり、自由が恋しくなったのだろうということで、おさまった。後添いの妻は隣の領主の娘ということもあり、それに、長子――透があまり丈夫ではないということも知られていたため、藤沢の跡継ぎは、弟だろうという空気が、領主の館の中にはただよっていた。
 そんな空気の中にあって、今年十五を迎えた長子は、ひっそりと、母屋とは庭を挟んでわずかに遠い離れの棟で日々を過ごしていた。
「兄上!」
 丹念に彫り上げられた若武者人形のような顔をほころばせて、凉也(すずや)が駆けてくる。
 大きな瞳が、きらきらと輝く。
 それがあまりにも眩しすぎて、思わず透は視線をそらせた。
 そんなことなど気にかけることもなく、透の暮らす棟の濡れ縁に腰を下ろし、凉也が懐から、蒔絵作りも美しい、横笛を取り出した。
「はい。兄上」
「なに?」
 思わず 凉也の顔を見返した。
「この間、笛をなくしたって言ってたでしょ、だから、これ」
 差し出された横笛は、しかし、
「おまえ、これは、確か、頂きものだったろう。僕は貰えないよ」
「僕はどうせ笛へただしさ」
「凉也」
「だって、兄上に吹いて欲しいだけなんだもん」
 そう言って顔をゆがめる弟に、逆らえるものなどいるだろうか。
「わかった」
「じゃあ」
 凉也の顔が、たちまち明るくなる。
「でも、もらえない。借りるだけだ。凉也の好きなのを、好きなだけ吹いてあげる。だから、これを貸しておくれね」
 ぷうとふくれっつらをしかけた凉也の顔が、再び満面の笑顔に変わった。
「うん」
 弟のまぶしい笑顔を、透は目を眇めて眺めやる。
 どだい、この屈託のない少年を嫌えるものなど、いないのだ。
 自分だとて、どれほど、この母親違いの弟のことを大切に思っているかしれやしない。そう、誰にも好かれる弟を、羨ましいと思うことはあっても、決して、嫌ってはいない。
 凉也にせがまれるままに、一曲もう一曲と、笛を吹く。
 自分になにかとりえがあるとすれば、それは、笛を吹くことくらいだろう。そんな透の鬱屈が曲に現われるのか、ともすれば、笛の音は、沈みがちだった。
 
 透に養子の話が持ち上がったのは、その年が明けてしばらくしてからのことである。
 遠縁の荘園領主の跡継ぎとして、この家を出てゆかなければならないというのだ。
 透には、反論する気は毫ほどもありはしなかったが、お兄ちゃん子である凉也にしてみれば、耐え難いことであったのだろう。
「兄上っ」
 濡れ縁から駆け上がってきた凉也が、
「なんでだよ! この家を継ぐのは兄上に決まってるじゃないか」
 声を荒げて、透に詰め寄る。
「だって、父上と母上が」
「イヤだって言えばいい」
 地団太を踏まんばかりの凉也のようすに、透は、ふっと、笑った。凉也ならば、そう言うだろう。言って、両親も、考え直すのに違いない。けれど、自分は――
「無理だよ」
 自分のところに話が来るころには、それは、既に決定事項なのだ。凉也とは違い、自分の意見など、聞き入れられた記憶もない。
「!」
 透の笑顔になにを感じとったのか、凉也の顔が強張りついた。
 ふと、両肩に、凉也の陽に焼けた手がのせられた。
「凉也?」
 見上げる透のくちびるに、凉也のそれが重なったのは、ほんのわずかな間のこと。
 驚き目を見開いた透に、
「僕は、兄さんが好きなんだ」
 凉也は、透を抱きしめた。
 それは、決して、あってはならないこと。
 実の弟が、実の兄に、愛を告白するなど、ひととして許されることではない。
 だから、透は、すぐにも養子に出たいと、父に申し出たのだった。
 透と一緒に供としてあちらの荘園へと行くのは、ふたり。あちらにゆけば、すべてはあちらが用意して待っているとはいえ、それは、あまりにも少ない頭数だった。
 
 透を主(あるじ)とする総勢三名は、その二日後、夜陰に乗じて屋敷を後にした。
 あまりに寂しい出立ではあった。
 寡黙な主従は、それより三日後に、とある村に差し掛かった。
 どことなく落ち着きなくざわめいた村に、三人は、宿を借りることになった。
 村をぐるりと囲い込む柵の外からでも、あまり陽気とは感じられない興奮が、感じられ、できれば素通りしたかったのだが、わらわらとまとわりついてきた子どもたちを追い払うこともできず、村に引き込まれたのだ。
「祭ですのでご遠慮なさらず」
と、のっぺりとした顔の村長のことばに、なにがしかの不安がなかったといえば嘘になるだろう。
 しかし、透は、妙に押し出しの強い村長に、断りきることができなかったのだ。
 そうして、透の不安は的中する。
 夕餉の席で、まずは従者二人が昏倒し、透は捕らえられた。
「申し訳ございませんなぁ。………今宵は、大切な、百年に一度の大祭なものでして。客人(まろうど)どのに、我らが神の贄(にえ)になっていただかねばならぬのですよ」
 ひやりと冷たい笑みをたたえた、半白の髪ののっぺりとした男が、縛められた透の頬をその手でぞろりと撫でさすった。
 無理やり嚥下させられた、生臭い草の汁のせいで朦朧となった透は、そのまま禊(みそぎ)をさせられ、白い着物に着替えさせられた。
 篝火がたかれた村の広場で、神主に、なにやらわからぬ祝詞(のりと)らしきものをふるまわれ、透は輿にかつぎあげられた。
 ちりん――――と、古びた金の鈴が音をたて、それが合図であったのか、若い衆がぐっと一歩を踏み出した。
 
 
 黒々とした影を田畑に落とすその山は、足を踏み入れようとするものたちに心理的重圧を抱かせる。
 風が吹きはじめていた。
 雲が追いやられ、月の光を幾度もさえぎる。
 ざわめく木々のこずえが、ありえない化け物の影を、地面に投げかける。
 行きたくない――と、背筋を這い上がる拒否感がぞろりと全身に絡みつき、いやな汗がにじむ。
 それでも、これは、欠かせぬ奉納の儀式なのだ。
 しかも、百年に一度の、闇の大祭。
 欠かせぬのは、生きたひと。
 毎年の贄なれば、家畜を差し出すが、今年はそうもゆかぬのだ。
 彼らが神は、血を、殊(こと)に、ひとの血肉を、悲鳴を、何よりも好んだ。
 だから、彼ら若衆は、輿の上の贄を彼らの聖地である山の中腹へと運んだ後、死に物狂いで逃げなければならない。でなければ、彼らもまた、神の贄となりかねない。
 村長に受けた説明を、若衆たちは思い返しつつ、山を登りつづける。
 そうして、やがて、十六夜の月に照らし出された、聖地に到着した。
 急峻な山肌が迫ってくる、細い道の行き止まりに、ぽっかりと開けた空き地がある。その行き止まりには、黒々とした洞窟が、口を開けていた。
 空き地の中央に、注連縄(しめなわ)の巻かれた、黒光りする丸くたいらな台がある。
 台の上四箇所と、台の足元に四箇所、銅製なのか、青く錆を吹いた輪が穿たれていた。その輪に、生贄を縛めるのだと、知れる。
 若衆たちは、手際よく、ことを進めた。
 透は、飲まされた護摩汁(ごましる)に半ば意識を絡めとられている。そんな彼を台の上に縛めるのに、さしたる手間はかからない。
 透の従者を、また、彼らは、台の下の輪に、縛りつけ、異国風の響きの祝詞を、唱えはじめた。
 詠唱は、風や木々の悲鳴に不意にかき消されながらも、聖地に満ちていった。
 そうして、どれほどの時間が過ぎただろうか。
 生臭い風が、化け物の顎(あぎと)のような洞窟の奥から噴出した。
 ぴたり――と、十人の若衆たちの声が、あわせたように途絶えた。
 一様に青ざめた顔を見合わせ、じりと後退する。
 手にした刃で、生贄に傷を負わせることすら忘れ、彼らは、ひときわ生臭い風が吹き出したそのとき、後も見ずに、逃げ出したのだった。
 
 
 白銀の光が、はるか上空から、このさまを見ているのに気づいたのは、はたして、いたのだろうか。いたとするなら、聖地に封印されている、当の神であったろう。しかし、村人により神と呼ばれているそれは、一年に一度の、そうして、百年に一度のご馳走に、すべての意識を絡めとられていた。
 飢えのゆえに、その神は、白銀の光の存在を意に介さず、無造作に、その食卓に姿を現わしたのだ。
 ぬらりと吐き気をもよおす臭気をまとい棲み処から現われたのは、なんとも曰く言いがたい、触手の化け物だった。
 おびただしい数の、粘液を滴らせる赤黒い触手が、ゆらゆらと、次いで、信じられないほどの速さで、意識を失ったまま縛められている、従者の一人を絡め取った。
 無造作に、男を縛めている縄ごと、凄まじい勢いで引きちぎり、持ち上げる。
 その衝撃に意識を取り戻した従者は、己の状況に、悲鳴をあげた。
(な、んだ?)
 透の意識が現実を認めたのは、まさに、従者の爆(は)ぜるような悲鳴のためだった。
 手と足を大の字に縛められ、自由になるのは首から上だけという、あまりといえばあまりな自分のありさまに、透の血の気のない顔が、引き攣れた。
 細い手首と足首に食い込むほどの縄が、透に千切れようはずもない。
 必死に頭をもたげて状況を確認した透は、悲鳴をあげることすら忘れて、ただ眼前の光景を、その両眼に映していた。
 魂消える絶叫とともに、従者の手足が引きちぎられた。
 ぼたり――と、従者の血しぶきが、透の全身をしとどに濡らした。
 
 二人目の従者が、骨の折れる気味の悪い音ととともに潰されてゆくさまを、透は、見ていた。
 全身は瘧(おこり)にかかったように震え、ぬめる血に、脂汗が、にじむ。
 なぜ、どうして、自分が、自分の従者たちが、こんなことに巻き込まれるのか。
(すまない………)
 自分についてきたばかりに。
 あやまっても、彼らが許してくれることはないだろう。
 恨まれても、当然に違いない。
 流れる涙は、彼らに対する謝罪からのものなのか、純粋な恐怖からのものなのか、透にはわからなかった。
 
 
(でも、すぐに、僕も………)
 現実のこととは思えない恐ろしい化け物と、今まさに食われようとしている、肉の塊と化した二人目の従者を、透は、呆けたように見上げつづけた。
 次は、自分だ――。
 逃げるすべすら奪われて、こんなにも非力な自分が、助かるはずもない。
 ぐしゃり――と、身の毛のよだつような音がして、ゆらりと血と粘液とにまみれた触手が、透のすぐ目の前に、迫っていた。
(ああ……………)
 目を閉じることすらできない。
(凉也)
 自分を慕ってくれた弟の名を、呪いかなにかのようにつぶやき、透は、ただ、迫り来る触手を、凝視しつづけていた。
 と、不意に、一陣の風が吹き、その場の吐き気をもよおすような臭気を吹き払った。
 そうして、まばゆいばかりの白銀の光が、透の目を灼いた。
 
 
 知り合いのところからの帰りだった。
 一瞬で住処に戻ることができる佐久良であったが、その夜は、好みに合った酒の余韻を楽しみながら、夜風に吹かれて帰ろうか―――との、まさに酔狂で、夜空の散歩としゃれこんでいたのだ。
 心地好い酔いに身をまかせてどれほどが過ぎたころだったろうか。
 ふと、佐久良の鼻腔を、不快な匂いが満たした。
(これは――)
 知らぬ匂いではない。
 だからといって、親しい匂いではないが。
 それは、どちらかといえば、対立する存在の匂いだった。
(このようなところに)
 佐久良の秀麗な眉間に、くっきりと縦皺が刻まれる。
 ひとの目にはかからぬだろう上空から、佐久良は、眼下を見晴るかした。
 そうして、
「ふん」
 黒い石に括りつけられている、ひとりの少年が、彼の興を惹いた。
 青ざめ、震えている、白い顔。今は血に汚れているが、汚れを拭えば、線の細い、やわやわとした、愛らしい顔が現われるだろう。
 私のいる真下でいい度胸だ――と、考えていた佐久良だったが、この瞬間、彼は心を決めたのだった。
 
 
 周囲が焼け焦げる凄まじいばかりの異臭に、意識を手放しかけていた透は、目を開いた。
 とっさに閉じたとはいえ、目はまだ映像を結ばない。
 しばらく瞬きを繰り返し、ようやく見ることができたのは、黄金色のまなざしだった。
 信じられないくらいに整った、白皙の美貌に、流れ落ちる滝のような、銀の髪。
 知らず、透の全身が、がくがくと震えた。
 眼前に、自分を見下ろしている美男が、ひとならざるものであると、透の本能が、告げていた。
「あ……ありが…………」
 金のまなざしが、自分から離れない。
 その密度の濃さに、透の声が、尻すぼみに小さくなってゆく。
 と、やはり優美な先細りの指が、伏せた透の頤(おとがい)に添えられ、持ち上げられた。
「名は?」
 無造作な、それでいて玲瓏と響く声に、透は、意識せず名を告げていた。
「透か。私は佐久良だ」
「え? あ……」
 気がつけば、透は、はるかな高みに、佐久良と名乗ったひとならざるもの――神に抱かれて、夜空に浮かんでいた。
 あまりのことにうろたえおびえる透に、
「慣れろ」
と、短く言ってのけ、佐久良は、その場から姿を消したのである。もちろん、透もともに。
 
 
 次に透が気づいたとき、そこは、まるで見知らぬ場所だった。
 ゆらゆらと揺れる蝋燭の光。
 薄ぼんやりとした灯りに照らし出されているのは、
「神さま」
 白銀の神が、透のこぼしたことばに、ふっと笑った。
「私のことを神と呼ぶか」
 金の瞳が、面白そうに、透を見下ろしていた。
 自分が神の膝に抱かれていることに気づき、透が真っ赤になる。
「ぼ、僕を助けてくださいました………」
「そうか。だが、私のことは、佐久良と呼べ」
「佐久良さま……」
「さん――で、いい」
「佐久良さ……ん」
「そうだ。透はいい子だな」
 なぜとはわからず、透が落ちつかなげに身じろいだ。
  刹那、降ってきたようなくちづけに、透が、硬直する。
 二度目のそれには、もちろんのこと凉也のようなたどたどしさはなく、透は抵抗することすらできぬままに、甘んじて、佐久良を受け入れたのだ。
 
 
 静かな屋敷には、ひとの姿もない。
 白木の欄干に胸をあずけて下を覗き込めば、そこには清らかな小川が流れている。川の中には、小魚や昆虫の姿が見える。ほとりには、水仙が咲き乱れている。たまさかに、庭に植えられているあまたの白梅の香に誘われたのか、鶯が鳴き交わす声ばかりが、せせらぎに混ざって、耳にやさしい。
 透のすべてが佐久良のものになって、わずかに十日ばかり。
 今日は、佐久良は、不在だった。
 佐久良は、やさしい。
 そう、あの得体の知れない化け物を瞬時に滅ぼしたほどの力を持ちながら、佐久良が透に酷い扱いすることはなかった。
 もちろん、あの行為そのものは、透にとって、苦痛であり羞恥のきわみでこそあったが、嫌悪感はなかった。
 ほんの戯れに――おそらく、それこそが真実だろうと透は思っていたのだが――自分を救ってくれた神に、すべてを捧げることは、ある意味法悦に近いものですらあったのだ。
 透は、満たされていた。
 ただ、気がかりがあるとすれば、それは、父でもましてや継母のことなどではなく、ただひとりの、弟のことであった。
 弟を避けるように旅立って、半月ほど。当初の予定であれば、養家に疾うについていなければならない。
 自分たち――ふたりの従者のことを思えば、胸が痛む――が着いていないことが、もう、藤沢の家に知らされているころだろう。
「凉也………」
(寂しがっていなければいいんだけれど)
 透の薄いくちびるから、吐息がこぼれ落ちた。
 そのとき、透の頬に、熱風が薙いだかの錯覚が襲い掛かった。
 したたかに、床の固さを味わい、透はぶれる視界を懸命に見開いた。
 そこには、
「佐久良さ……ん?」
 これまでにない厳しい金のまなざしが、透を見下ろしていた。
 なにが起こっているのか、透にはわからない。
 ただ、佐久良は、無言のまま透の襟元を掴み、立ち上がらせた。
「誰だ?」
 食いしばった佐久良のくちびるから、低い声音が、押し出された。
「?」
 突然の佐久良の変貌に震えながら、透は、佐久良を見上げるよりない。
 自分の何が、神の逆鱗に触れたのか、透には、わからないのだから。
「凉也とは、おまえの、なんだ?」
 目を覗き込むようにして、搾り出された問いに、透の震えがおさまる。
「……凉也は、僕の、弟です………」
 答える声は、か細い。
「弟?」
「はい。母親の違う、弟です」
 おそらく、自分がなぜ怒ってしまったのか、この少年にはわかっていないのだろう。あどけないような表情で、自分を見上げる透に、ふっと、佐久良の強張った表情がほどけた。
 おそらくは、自分を知る誰に語ったとて、一笑にふされることだろうが、自分は、この子供を一目見て、惹かれたのだ。
 自分のものにしたい――と。
 だからこそ、あの忌々しい化け物から救い出し、独りになりたいときに使っているこの空間に招き入れまでしたのだった。
 その少年の口からふいにこぼれた未知の名を見過ごしにできるほど、自分は心が広くはないのだ。
「僕が、養家に着いていないことを知ったら、弟は悲しむかなと思ったんです。あの、佐久良さん、僕が生きていることを、凉也に知らせては、ダメですか?」
「文を書け。届けさせる」
 佐久良のひとことに、透の頬にうっすらと、佐久良が張ったのとは違う血の色がのぼった。
「ありがとうございます」
 その表情が、なんとはなく色っぽく思えて、佐久良は、
「ただし、それ以降、おまえのこのくちびるが綴っていいのは、いいか、私の名前だけだ」
 付け加えずにいられなかったのである。
「………」
「わかったか」
「はい……」
 ふたりの視線が、からみあう。
 佐久良は、透にくちづけを落とし、透は、それを、おとなしく受け入れた。
 
 静かな空間の中、川のせせらぎと鶯の鳴き交わす声に混じって、あえかな吐息が、花開きこぼれた。
 
 
 それからしばらくして、眠る凉也の枕元に、兄からの文が届けられた。
 
 
おしまい
 <BR>
<BR> 
<BR>
「大丈夫でしたか?」<BR>
 月のない空の下、遠い常夜灯の明がかすかに少年を照らし出す。<BR>
 大丈夫ではないだろう。<BR>
 乱れた着衣が、物語るのは、少年が受けたであろう暴行の痕跡だ。<BR>
「だ、いじょうぶ。最後まではされなかった…………」<BR>
 震える手が、着衣を整えてゆくのを、エンリケは静かに眺めていた。<BR>
 こうして少年を身近に感じていられるのは、幸運なのか、不運なのか。<BR>
 まざまざと見せつけられた、ボスの少年に対する執着の凄まじさを思い返す。<BR>
 思い出すのは、少年の耳にピアスをつけたあの日の出来事だった。<BR>
 少年から立ちのぼっていた、体臭が甘くよみがえる。<BR>
 ボスに拘束されていた少年の痛々しいまでの震え。<BR>
 ただピアスの穴をあけるだけですよと、慰めてやりたかった。<BR>
 しかし。<BR>
 ボスの目は、よけいなことは口にするなと言っていた。<BR>
 震える少年の薄い耳たぶに手を触れた。<BR>
 そのとき、少年の震えが不思議に治まったのだ。<BR>
 おそらくはその事実が、ボスの逆鱗に触れたのだろう。<BR>
 そうして、薄々は彼の気持ちも、ボスは悟っていたのに違いない。<BR>
 あの手ひどい蹂躙のさなか、どれほど、「やめろ」と叫びだしたかったか。<BR>
 少年が微塵も快感を感じていないことが、見て取れた。<BR>
 喘ぎではなく悲鳴が耳を打った。<BR>
 感極まった顔ではなく、痛みに歪んだ顔が、その苦痛を伝えてくる。<BR>
 痛みを堪えようとソファの皮をかきむしる手の動き。<BR>
 引き連れるような足の震え。<BR>
 苦痛にのけぞる喉。<BR>
 食いしばって血をにじませたくちびる。<BR>
 悲鳴を放つために開かれたくちびる。<BR>
 眉がきつく寄せられ、つむった瞳からは涙が迫りあがりこぼれ落ちていた。<BR>
 どれひとつとっても、少年にとってセックスがただの虐待に過ぎないのだという現実が、苦く理解できた。<BR>
 そうして。<BR>
 同時に。<BR>
 少年のそんな姿に、確かに魅せられている自分がいることをも、痛いくらいに感じていたのだ。<BR>
 まぎれもなく。<BR>
 普通の勤め人とは違い裏社会に属する身には、ボスに逆らうイコール生命を賭けなければならないという現実がある。<BR>
 生命を賭けろというのなら、賭けてやろう。<BR>
 恋した者に命を賭けるなど、ロマンティック過ぎて笑えてくるが、それもまた、ひとつの生き方だろう。<BR>
 しかし、自分が恐れるのは、命を賭けることではない。<BR>
 何よりも恐ろしいのは。<BR>
 他ならぬ自分自身だ。<BR>
 そう。<BR>
 この身には、裏の社会に属して来た者の血が脈々と受け継がれている。<BR>
 ボスの手から少年を逃がせば、間違いなく、次は自分がボスと同じことを少年に強いてしまうだろう。<BR>
 救うつもりで、鎖してしまう。そうして、少年の血と肉と涙とを堪能する自分を容易く想像できた。<BR>
 自分もまた、ボスと同じ穴の狢でしかないのだと。<BR>
 少年を救ってやることすらできない自分自身を痛いほどに、感じたのだ。<BR>
 ボスは絶対である。<BR>
 そうだ。<BR>
 絶対なのだ。<BR>
 この身に流れる血を考えれば、少年に対するこの執着は、彼の絶対の遺伝の賜物となるだろう。<BR>
 趣味嗜好は、親に似るというではないか。<BR>
『お父さまが誰か、けして誰にも言ってはいけませんよ』<BR>
 そう微笑んだのは、最期のことばを告げるはかないひと。<BR>
 褐色の髪をした、エンリケの母親だった。<BR>
 全身に惨い傷を負いながら、それでも生き延びたその力強い生命力は、エンリケが五歳のときについに、失われた。<BR>
 ぼろくずのように森の奥に捨てられた血まみれの母を救ったのは、森の管理をする男だった。<BR>
 おそらくは母を害した者たちは、森の獣にでも始末をさせるつもりだったのだろう。<BR>
 東洋の血を引くのだという男が母を助けなければ、自分は産まれることはなかったろう。<BR>
 記憶を失っていた母は、死の間際にすべてを思い出し、そっと父親のことを教えてくれた。そうして、息を引き取ったのだ。<BR>
 自分はそのまま、森番の男の息子として育った。<BR>
 しかし、実の父親に対する興味は失せなかった。<BR>
 マフィアのボスであると言う、実の父親。<BR>
 どんな男なのか。<BR>
 知りたかった。<BR>
 だから。<BR>
 育ての父の死を契機に、新大陸にわたった。<BR>
 そうして、マフィアの入団試験を受けて今に至るのだ。<BR>
 
 <BR>
<BR>
<BR>
 あ、なんかヤな予感。<BR>
 目の下をピンクに染めて、アルトがオレを見上げてる。<BR>
 その後ろで歳不相応な笑いを口元に刻んでいるのが、オレの甥っ子の史月だ。<BR>
 あ、と。<BR>
 アルトは、有人って書く。オレはもっぱらアルトって呼んでるけどな。えと、戸籍上は、オレの弟になる。けど、オレとの血のつながりは、まるっとない。矢寿馬の甥っ子なんだよな。<BR>
 ふたりとも幼稚園の年中組だったりする。<BR>
 今オレがいるのは、オレ専用のリビングだ。古い城を外国から移築したって言うのが、海桐の屋敷だから、部屋だけは腐るほどある。そのひとつなんだけどさ。この部屋の奥に、まぁ、オレの勉強部屋はあるんだな。オレは、リビングにいるほうが多い。テレビを置いてるのがこの部屋って言うのもあるけどな。こっちのほうがゆったりできるし、庭側の壁が全面ガラス窓だから明るいっていうのもある。もう夕方だし、暗くなってきてるけどな。ともあれ、オレは、テレビをかけながしながら、課題を片付けてる最中だったんだ。<BR>
 来週までにレポートというか、英作文を提出しないといけないんだよなぁ。<BR>
 なんで英文科なんかに進んじまったんだか。<BR>
 潰しがききゃあしない。<BR>
 まぁ、卒業したって、就職はさせてもらえなさそうだけどな。<BR>
 この間の喧嘩の原因がそれだったし。<BR>
 あいつのパートナーって言うのが、オレの現実だからしかたないのか。<BR>
 溜め息だ。<BR>
 やりたいことでもあれば逆らえるんだろうけど、これと言ってやりたいことがないのが、オレの敗因だろう。<BR>
 どうせ草食系男子だよ。ほっといてくれ。<BR>
 おかげで、肉食系のあいつにがっつりととっ捕まっちまってる。<BR>
「ね。イッちゃん」<BR>
 にっこり笑うアルトの隣に、いつの間にかシロがお座りして、オレを見上げてる。<BR>
 しっぽが全力でぴろぴろ揺れてるのが、可愛いが。<BR>
「あ? ごめん。聞いてなかった」<BR>
 とたん、アルトの顔から笑顔が掻き消える。<BR>
 う……。<BR>
「悪かったって」
 オレはしゃがみ込んだ。<BR>
「で? もっかい言ってみな」<BR>
 チロリと史月を見ると、後頭部で腕を組んで、なんか楽しそうだ。絶対何か変なことをアルトに吹き込んだに違いない。<BR>
「あのね。チョコレートくれる?」<BR>
「はい?」<BR>
 チョコが食いたいのか?<BR>
 ローテーブルの小皿の上に、今日大学からの帰りに買って来た板チョコがあるけどさ。あれは、ビターだぜ。<BR>
 おちびには、きつくないか?<BR>
「甘いのが好きだよな」<BR>
「うん」<BR>
 満面の笑みだ。<BR>
 引き取られて来てまだ二月になんないけど、この笑顔が見れるようになるまで、かなり時間が必要だった。<BR>
 仕方ないよなぁ。<BR>
 ここに引き取られたのが、両親の死がきっかけとあっちゃ。<BR>
 アルトからこの笑顔を引き出したお手柄は、彼の横にいる、グレートピレネーズの子犬の、シロにあったりする。クリスマスプレゼントにシロを見つけたときのアルトの笑顔は、凄かった。それまで萎縮していたのが一気にほぐれたみたいな感じでさ。オレも、それを見てほっとしたんだ。<BR>
 オレは、それまでだって一応ねーさんから史月を預かったりしてたから何とかなるだろうと軽く考えてたんだけどな。実際は大違いだった。<BR>
「今はビターしきゃないから、今度買って来てやるよ」<BR>
「ちがぁう」<BR>
 アルトが首を振る。<BR>
「チョコが食いたいんだろ?」<BR>
「食べたいんじゃない。イッちゃんからほしいの」<BR>
 食べたいわけじゃないんだけど、ほしいってか?<BR>
「ごめん。わからん」<BR>
 まだ日本語が不自由なんだなぁ。外国で暮らしてたらしいから、しかたないけど。<BR>
 オレは、史月にSOSを求めた。<BR>
「イッちゃん、明日何の日?」<BR>
 アルトと同い年なのに、変に大人びた訳知り顔で史月が聞き返してくる。<BR>
「明日? あしたっつーと、二月……の………げっ」<BR>
 床に座り込む。<BR>
 いや。へたり込んだ。<BR>
「史月ぃ、おまえ、なにを教えたんだ?」<BR>
「バレンタインデーだよ」<BR>
 毎年イッちゃんがチョコレートケーキをくれるんだって。<BR>
 「イッちゃん。アルトのこと、好きだよね?」<BR>
 おずおずとわくわくの混ざり合ったような、不思議な感じで言われて、オレは複雑な気分だった。<BR>
 もちろん、嫌いなわけはない。懐いてくるちびっ子は、可愛いさ。<BR>
 けどな。<BR>
 バレンタインのチョコレートケーキって。<BR>
 毎年って。去年が最初で最後のつもりだったのに。ねーさんところで高級チョコを見つけてふらふらとチョコ作ったのが原因か。去年のバレンタインが脳裏をよぎる。家に帰ってから矢寿馬に見つかって、勘違いされて、さんざんだったんだよなぁ。
<BR>
 今年もか……。<BR>
「はいはい」<BR>
 オレは、観念してアルトのふわふわの髪の毛を撫でたのだった。<BR>
<BR>
<BR>
<BR>
 唐突に書きたくなった、早過ぎバレンタインネタ。しかも、お、落ちなかったxx
おじさんが出て締めてくれるはずだったのになぁ。
少しでも楽しんでもらえると嬉しいです。
 今更なのに方向性が変になって来た気がする。
ちょこっとしか書けていないくせにこのていたらく。
軌道修正書ける可能性が大です。ご容赦ください。


 *****


一番いてほしくない存在だった。<BR>
 なのに。<BR>
 湊は、自分の次の行動を、信じられない思いで反芻した。<BR>
 なんで。<BR>
 いったい、どうして。<BR>
 空気を吸った反動で、肺が悲鳴を上げた。<BR>
 苦しさにからだを縮こまらせたその背中に、ザカリアスの掌が触れた。<BR>
 いつもなら、からだをこわばらせて、やり過ごすというのに。<BR>
 何が起きたのか、湊には、わからなかった。<BR>
 信じられなかった。<BR>
 湊は、ザカリアスの飽いているほうの腕に、しがみついたのだ。<BR>
「ごめんなさい」<BR>
「もう、出して」<BR>
「お願い」<BR>
「苦しい」<BR>
と、何度も繰り返しながら、泣きながら、しがみつき、そうして、抱きついた。<BR>
 誰に?<BR>
 最も嫌う相手に……だ。<BR>
 なぜ?<BR>
 どうして?<BR>
 これは、オレの、自分の意志じゃない。<BR>
 なにか、別の何かに操られているんだ。<BR>
 そう思うと、体温が下がった。<BR>
 足下が低反発マットのように不確かになる。<BR>
 ぐにゃりと、こどものいたずら書きのように、周囲の景色がすべて輪郭を崩れさせてゆく。<BR>
 嫌だ。<BR>
 嫌でたまらないのに。<BR>
 どうして、オレは、こんな行動をとっているんだ。<BR>
 目の前が薄青い紗の帳に覆われたと思った時、<BR>
 バカだよね。<BR>
 まったく。<BR>
 しばらく、眠ってなよ。<BR>
 そんな声を、聞いたと思った。<BR>

***** と、まぁ、こんな風になっちゃったのでした。な〜んか、やばげな方向性ですよね。う〜む。とりあえず、ここで寝かせてみよう。そのうちいい解決策が見つかるだろう。そう思いたい。
  サイトに更新するほどの量にはならなかったのですが、一応書けたので、こちらにアップしておきます。少しでも楽しんでもらえると嬉しいのですが。

*****
「おや」
知り合ったばかりの女性に軽く手を振って別れたクリスは、ホールのソファに腰をかけているエンリケに気づいた。

「禁煙ですよ」
と、タバコを取り上げる。

「クリスさん」
「おまえさんがタバコとアルコールとは珍しいと思ったが、火もついてないタバコとはね」

全部貰っていいよな?


テーブルの上、琥珀の液体の残るグラスの横、パッケージとライターをスラックスのポケットにねじ込む。
エンリケの目の前にどさりと腰を下ろして、奪った煙草をそのままくわえた。
クリスが指を鳴らすと制服姿のボーイがやってくる。
「お客様お煙草はお控えください」

「火はつけないつけない」

にやけてコーヒーを注文する。
ひらひらと手を振って、ボーイを見送る。

「なにがあった?」

エンリケの黒い瞳を、よく似た黒い瞳が覗き込んだ。

「べつになにも」
「ってツラじゃないだろ」

いつもすかしてるお前とは思えないよな。

「原因は、弟クン……か」

運ばれて来たコーヒーを一口飲んで、クリスが一人語散た。

ぼんやりと何かを堪えているかのように見える虚ろな一対のまなざしが、宙をさまよう。


「惚れた…………か?」
かすかなまなざしの揺らぎに、クリスは答えを知る。
「堅物ってぇ噂のあんたがねぇ。まぁ、親父殿も堅物だしな。弟クンは、そういうのに惚れられるタイプなのかねぇ」
溜め息が漏れる。
「切ないね」
確かにタバコとアルコールでもなけりゃあ、やりきれないか。

「クリスさん」

「どうした。突然あらたまって」
「お願いがあります」

「はは。怖いね」

頭を下げるエンリケに、クリスがおどける。
「私はもう、おそらく彼には近づけないでしょうから」

けれど。
あなたなら、ボスもそう嫌いはしないでしょう。

「とは言われてもねぇ………」

火のついていないタバコがクリスのくちびるの間で上下に揺れる。
父親たちが泊まっている部屋のドアの前で、クリスは肩を竦めた。

ホールには専用のコンシェルジュがデスクについて、用事を申し付けられるのを待っている。
その視線を感じながら、クリスはドアを開けた。
玄関を模したような小さな部屋が現れ、その奥に、広いリビングが広がる。豪華な飾り付けのゆったりとした空間のどのドアを開ければ、湊がいる寝室があるのかあらかじめ教えられていた。


「大丈夫……じゃないよなぁ」
嘯くような声に聞き覚えがある。
そう思ったものの、湊は、動かない。

今の自分の格好は、見られたものではないだろう意識はある。しかし、少しでも動こうものなら、おそらくは、今も自分を苛み続けている忌まわしい器具の存在を他人に知られてしまうだろう。
なぜこんなものを。

 それ以前に、どうして、あんなことを。
あの男の機嫌を量るのが難しいことは骨身に沁みてはいるものの、まさか、人前でされるだなど、考えたこともなかった。
エンリケの目がそらされることもなく、自分に向けられていた。


ひとに見せる行為じゃない。見られて嬉しいはずもない。なのに、あの男は、自分が泣き叫びながら無理矢理イかされ、あの男を受け入れる所を、さいごまで、エンリケに見させたのだ。
何が原因だったのだろう。


わからない。


わかるはずがないのだ。
あの男が考えることなど。

ピアスをつけさえすれば外に出してもらえると、あんなに我慢したというのに。

耳の痛みも、まだ苛まれている箇所の痛みも、じくじくと疼く。

「おい。湊……だったよな? このままじゃ風邪を引くぞ」


この声の主が誰だったか。

ああ。

クリスとかいったはずだ。

義理の兄という続柄になる相手を思い出す。
出会い頭の最低な挨拶にからだがこわばり、痛みが走った。そのはずみに無機物に苛まれている箇所が、脈動を激しく刻む。
「起きれるか?」
目が覚めているのは、知られているらしい。

それでも、従う気にはなれなかった。

どうしてなれるだろう。
クリスは、あの男の息子だというのに。

そうだろう?

 あんな男のこどもなのだ。

それに、クリス自身、オレにあんなことをしでかしたのだ。
あのおかげで、オレはあの後また、酷い目にあった。

何くれとなくいちゃもんをつけてオレをいじめることがあの男のストレス解消なのじゃないかと思えば、クリスとは関わらないほうがいいに決まっている。

放っておいてほしかった。
動くことを考えるだけで、ぞっとする。

「放っておいてくれ」
やっとの思いで言ったのに、

「クーラーも効いている。サマーセーターを羽織ってるだけでは風邪を引くぞ」

そう言って、クリスが肩に手をかけ引っ張った。

「ひっ」

体内の異物が角度を変える。

痛い。
痛くてたまらない。

出したい。

出してしまいたい。

けど、出したりしたら、怒られる。
怒られるのだ。


気絶寸前の朦朧となった意識の中で、


『私が戻るまで出すんじゃない』

出したりしたら、酷いぞ。

そんな風に言われたような気がする。
泥の中に埋まったような、怠くてたまらない全身を、クリスに引き起こされて、湊は、脂汗を流した。


「そら。バスを使うといい。換えの服がないなら、コンシェルジュに買って来てもらおう」

Tシャツとジーンズでいいだろう。


親父さんの趣味はフォーマルすぎるからなぁ。
「くぅっ」


抱え上げられて、異物が動く。

出したい。
痛い。
出してしまいたい。
けど、ザカリアスも怖い。
どうすればいいのか、わからなくなっていた。
「じっくりあたたまるんだぞ。夏の風邪は長引くし辛いからな」

大理石のバスタブにからだが沈んでゆく。
クリスがバスルームを出てゆくのを見るともなく見やりながら、湊は、からだのこわばりがほぐれてゆくのを感じていた。
しかし。
からだの奥から器具がおりてくるような気配に、鳥肌が立つ。
駄目だ。
泣きたい気分で、湊が力をいれる。


刹那に走った痛みに、バスタブの中で足が引き連れるように震え、滑った。

悲鳴を上げる間もなく、気がつけば湯の中でから天井が揺れるのを見上げていた。

遅まきに伸ばした手が、浴槽の縁にとどかない。

焦りが激しくなり、息が苦しくなる。
足が滑る。
どこが浴槽の縁なのか。

ただ闇雲に暴れて、自分がパニックを起こしていることにすら、湊は気づいていていなかった。

「何をやっている。バスタブで溺れ死ぬ気か」
固くこわばりついた声は、一番聞きたくない声だった。

***** とまぁ、こんな感じ。クリスくんのキャラクターが……ベランメェ調の江戸っ子イメージに変わった気がしてなりません。いえ、単なるイメージで、江戸っ子がこういうタイプかどうかは、知りません。おせっかい焼きの下町の兄ちゃん風? ま、まぁ、いいけどね。まだクリスのキャラが固まってない証拠だなぁ。

湊クン、相変わらず酷い目にあってます。な、何を入れられてるんですかぁ……と慌てつつ、ギャグにしか思えないでいるるう子なんですが。シリアスに感じてもらえるかな? 不安です。
 個人的には、その辺にあった文具用品を使われてるような気がしないでもないのですが。いや、ほら、そう言うものを常日頃おじさんが持ち歩いてるって方が気味悪い気がしますよね。ただ、ホテルの寝室に、そうころころと文具用品が転がっているのかどうかという疑問が。う~む。きっとなにかがあったんでしょう。ここシリアスに考えちゃ駄目ですよ。いや、話としては考えないと駄目でしょうが。読む方は気楽に読み飛ばしてください。危ない内容ですからねぇ、ここって。
 やはり、リアルに名前を出すことにはばかりのあるるう子なのですが。何をされているのかは、理解して頂けてますよね? 不安だなぁ




「よいお月さまですねぇ」
 響きの好い声だった。
 くすりと喉を振るわせる笑いをこぼして、男が振り返る。
 赤みの強い大きな真円の月が、振り向いた男の顔を暗く沈める。
 革手袋に包まれた手が、喉元をまさぐり、手繰りだしたのは、鈍く光を放つロザリオだった。
 十字に交差した中央に紅玉の薔薇が埋め込まれたそれに、紅玉に劣らぬ色を宿した男のくちびるが軽く触れた。
「聖母の御加護を」
 一陣の風が吹き、たっぷりとしたコートをはためかせた。
「それでは、お仕事とゆきましょうか」
 言うなり、男は、そこからダイブした。
 二十階建てのビルの屋上から、わずかの逡巡すらみせずに飛び降り、何事もなかったかのように、端然と立つ。
 その姿は、まるで、サーバルキャットのような優美さである。
 獰猛な力をその細身の体躯の奥に潜めた、野生のハンター。
 見るものを惹きつけずにはおかない、そんな天性のオーラが、しかし、すっと、消えた。
 明るい月夜の、少なく深い闇の底に、男が溶け込んだかの錯覚があった。

 甲高い犬の鳴き声が聞こえる。
 何かに怯えたような、威嚇するかのような、声である。
 赤い月の下、不吉に伸び縮みする影があった。
 何かを捜し求めるかのように、蠕動を繰り返しながら、進んでいる。
 それには、手も足もなく、見ようによっては、鎌首をもたげた巨大なアナコンダに見えないこともない。
 日本の住宅地に、直径五十センチはあろうかという大蛇がいるという違和感を除けば――である。
 それが動くたびに、犬の鳴き声が、大きく小さく、グラデーションをおびる。
「うわっ」
 思わずといった風情で、学生服を着た少年が、その場に立ち尽くした。
 ぶるん――と、蛇もどきの影が、少年に顔を向けた。
 どんよりと濁った両眼が、少年を捉える。
 震える少年に先までとは違い一気に距離を詰めたそれが、口だろう部位を上下に大きく割り裂いた。
 どろり。唾液が滴りおちるのを、少年は、ただ、見ているだけだった。
 逃げられなかったのだ。
 あまりにも、非現実的な光景に、自分の身に突然迫る、死という現象の具現化したものに対して、頭が思考を拒否したのに違いない。
 唾液が少年の制服を容易く溶かす。
 強い酸性なのだろう、唾液が落ちた部分の布地が溶けてゆく。
 ちりっとした熱が、肌を焼いた。
 喰われる。
 しかし、足は、アスファルトに張り付いたようになっている。
 生臭い息が、少年の鼻腔いっぱいになる。
 嘔吐きあげそうな、異臭に、少年の顔が、歪んだ。
「見つけましたよ。召喚獣2098」
 静かな、深みのある声が、その場の緊張した空気を震わせた。
「手間をかけさせずに、さっさと召喚者の元に戻りなさい」
 濁った目が、美声の主に向けられた。
 今にも少年を喰らおうと大きく開いていた口がそのままに、動きが止まる。
 その身体が、ぶるぶると細かく痙攣し始めた。
 ずるり――と、それが大きくなったかの錯覚に、少年はその場に腰を落とした。
 気が遠くなりそうだった。
 このまま気絶して食べられたほうが、いっそのこと楽なのではないか。
 そんな気がするほどの不快感に捕らわれながら、呆けたようになって見ていた。
 こんなこと、現実じゃないんだ。
 大きく割り広げられた口が、今にも自分を飲み込みそうな近さで動きを止めている。
 滴る唾液が地面を溶かし、湯気となって異臭が鼻を突く。その少し手前に、銀のナイフが三本突き刺さっていた。
「なにをしているんです」
 降ってきた声に隣に立つ人影を見上げれば、

「召喚獣は、君など二口あれば、食べてしまいますよ」
と。
 食べられたくなければ、逃げなさい。
 そう言われても。
 足にも腰にも、力が入らないのだ。
「君、もしかして、腰が抜けたんですか」
 どこか呆れたような声のトーンに、首から上が熱を帯びた。
「しかたありませんねぇ」
 緊迫した状況を楽しんでいるかのような軽い口調だった。
「うわっ」
「終わるまでここにいてくださいね」
 月を斜交いに、彫の深い顔が影を宿す。
 その少し垂れた目が、ウィンクを投げかけたかと思えば、少年は、先ほどの場所からさほど離れてはいない家の屋根に移動していた。
 ごつごつとした瓦屋根の感触が、やはりこれが夢ではないのだと、少年に痛いほど教えていた。


 たっぷりとしたコートの裾が優美に翻える。
 月光を弾いて光る銀のナイフがその周囲に円を描いた。
 どこから取り出したのか細長い剣を、無造作な跳躍で召喚獣よりも高くに飛び上がり、頭頂部に突き立てる。
 それだけで、身震いするほどに不気味だったものは、のたうちながら、その姿を少しずつ小さくしてゆき、最後には、跡形もなく消えたのだ。
 後には、そんな闘いがあった気配すら残ってはいない道に、細身の男が、すらりと立ち尽くしている。
 ただ異質なものは、その手に握られた細長い剣ばかり。それを男が一振りするや、剣すらもどこかに消えうせた。
 少年は、ただ、魅せられたように、その光景を一部始終見ていたのだ。
 男は、少年を屋根から下ろすと、
「内緒ですよ」
と、片方の口角をもたげて笑うと、どこかへ去っていった。
 礼を言うのを忘れたと、少年が気づいたのは、ずいぶんと後になってからのこと。
 不気味な姿をした召喚獣に、再び襲われた時だった。
「また君ですか」
と、おかしげに小さく笑った男が、その獣を消してのけた後のことだった。


 

おわり

 と、まぁ、BLとも思えないSSを一話アップしておきます。一月に一回はここに足跡を残しておきたいので。
 一応BLのつもりなんですけどね。
 主人公らしい戦う青年を書きたかっただけなんですが。
 巻きこまれがた被害者の少年は~以降も何度も青年と出会うんです。ライトノベルじゃお約束vv かな? 最近読んでないからなぁ。
 気づいた方が楽しんでくださいますように。
 そのうちサイトのほうに移しますが。

「あれ?」 
 ふと気がつくとまったく知らない場所にいた。 
 いや、まぬけな台詞だけど、マジだったりする。 
 まえにテレビで見たブラックオパールのような空は、よくよく見れば、葉の茂りでさ。 
 どうやら、オレはどこぞの森か林か山か、そんなところにいるらしい。 
 有名な自殺の名所じゃなければ、ま、いいか。 
 そのうちどっかに辿り着くだろう。 
 いたって暢気に構えてしまった。 
 う~ん。どうやらそれは、ここが現実味に乏しい場所だからかもしれない。 
 夢かもしれない――――。 
 それがオレの本音だったりするわけだ。 
 えと、オレの名前は―――――――と、考えてちょっと焦った。 
 思い出せないんだもんよ。 
 いくら夢でも自分の名前を思い出せないってことがあるか? 
 首をひねる。 
 でも、ま、いっか。 
 オレってば、どうやらとことん楽天家らしい。 
 あまり人が踏み分けた気配のないところなのに、すいすいと歩く。 
 う~ん。 
 石とか木の根とか邪魔になるのがないんだよな。 
 地面も平坦。 
 まるで現実を知らない子どもが画用紙に描いた絵みたいな感じ。 
 下生え自体根っこがあるのかないのか、邪魔にはならない。 
 蛇もいなけりゃ虫とかの気配もない。 
 そういや、鳥とか小動物の姿もないような………。 
 楽に歩けるのはいいんだけどさ。 
 獣に出くわさないのも助かるんだけどさ。 
 そんなことを考えながら、結構歩いたと思う。 
 いきなり視界から木々が消えた。 
 と思うと、そこは一面の緑の野原だった。 
「うわあ」 
 こんなとこで昼寝したら気持ちよさそう。 
 そよ風に吹かれて、緑の草がさざめいてる。さざめく葉は太陽を反射して、きらきらと輝く。 
 けど、この草原も、なんだか変だった。 
 しゃがんですかしてみたけど、デコボコがないんだよな。 
 ほら、犬とかの排泄物がある所は、ない所より草が成長してたりするじゃん。それがない。 
 まるで誰かに管理でもされてるかのように、ぜ~んぶ同じ背丈なんだ。 
「放牧地か?」 
 いや、それだと放されてるモノがいないのがおかしい。 
「草刈場?」 
 そういうのがあるかどうかは知らないが。だとしても、デコボコはある気がする。 
 それになにより、一種類しか草がないみたいにも見えるんだ。 
 それに、やっぱり、羽虫とかが飛んでいない。 
 管理されつくされた実験場なんだろうか? 気持ちがいい場所なのに、なんだか無機質だ。 
「ちょ~っと薄ら寒いかな」 
 シャツの上から腕をさすった。 
 その時だ。 
 馬の蹄が地面を蹴るような音が聞こえてきた。 
 音のほうを見れば、小さな点が段々大きくなってきた。 
 ゴマが豆に、豆がトマトに、トマトがメロンに…………そうして、見る間に、目の前に五騎の人馬が立っていた。 
「遅くなって申し訳ありません」 
 馬から下りた西洋の騎士めいた服装をした男が、オレの前に、膝まづく。 
 なんだかどっかで見たような気がする顔ぶれだ。 
「王がお待ちでございます」 
 オレの頭の中は疑問符でいっぱいだ。 
 え~と。 
 これは。 
 この状況は。 
 もしかして。 
 なんだろう。 
 変なデ・ジャ・ヴュめいたものが湧いてくる。 
「そうだ!」 
 オレは手を打った。 
「異世界召喚っ!」 
 そう。 
 そうだ。 
 ライトノベルとかファンタジーとかでお約束のあれだ。 
 とすると、オレは、勇者………だろうか。 
 オレが剣を手に、魔物と戦うのか? 
 オレが? 
 ひょろりと力こぶも情けない腕を見た。 
 魔法が仕える? 
 手を振ってみる。 
 指を擦り合わせてみる。 
 何も起きない。 
「何をなさっておいででしょう」 
 おそるおそるといったように、騎士がオレに話しかけてきた。 
 バツが悪くなって、 
「あ、なんでもない」 
 笑ってごまかす。 
「それでは、どうぞ、私の馬に」 
 迫力のある馬にどうにか乗ったオレの後ろに、騎士がひらりと飛び乗った。 
 
 それから何が起きたかというとだな。 
 お約束といえばお約束。 
 でっかい城に連れてかれたオレは、謁見の間かどこかで、王を待ってるのだった。 
 たしか王がおまちです――って言わなかったか? 
 まぁいいけどな。 
 オレを連れてきた五人の騎士以外はだれもいない。 
 閑散とした城だ。 
 そう。 
 城に来るまでも、ほかにひとの気配なんかなかった。 
 これ、ほんとに、国なんだろうか。 
 不安だった。 
 うん。 
 薄ら寒い。 
 やがて、五人が膝まづいたので、オレは人が入ってきたのに気づいた。 
 三段くらい高くなってる玉座に人が座っている。 
 天井のステンドグラスから色とりどりに染まった光が降り注ぐ。 
 黒い衣装を身にまとった黒い髪の男がオレを見ている。 
 その薄い色のまなざしに見つめられた瞬間、オレはからだが傾いでゆくような気がしたんだ。 
 そう。 
 その色の薄いまなざしにオレは捕らわれてゆくような錯覚を覚えていたんだ。 
「さあおいで」 
 落ち着いた深い声がオレを呼ぶ。 
 けれど、オレは動けなかった。 
 少しでも動けば、この場に倒れてしまいそうだった。 
 黒い衣装の袖から、白い手がオレに差し伸べられている。 
「私の魔王よ」 
 魔王? 
 オレが? 
 王の声が、頭の中で高く低く鳴り響く。 
 オレがその場から動かないのに焦れたのか、王が玉座から立ち上がり、オレの目の前にやってきた。 
 王はオレを抱きしめた。 
 そうして。 
「ようやく捕まえた」 
 オレの耳元で言って、クツクツと笑ったのだ。 
 
 
 
「先生っ」 
 電気ショックで患者のからだが大きく跳ねる。 
 繰り返し鳴り続ける電子音は次第に忙しなさを増していた。 
 
 
 
 そのひとは、しずかに目覚めた。 
 薄暗い室内は、ここから出ることができない彼のために居心地好くしつらえられている。 
 成人することは難しいだろうと生まれたときに医者に言われた彼は、それでも生と死の間を行きつ戻りつしながら、二十歳を越えた。 
 からだを起こして、ふっと微笑む。 
 それだけで、青ざめた白皙に色艶がやどった。 
 時計の針がそろそろ午後五時を指そうとしていたからだ。 
 もうすぐ彼がやってくる。 
 誰もいない自室に、彼の独り語散る声が流れて消えた。 
「幸せな夢を見ていたような気がします」 
 ベッドの上に起き上がりさらりと前髪が目にかかったのを邪魔そうにかきあげる。 
 そう。 
 それは、幸せな見果てぬ夢。 
 愛してやまない三つ年下の幼馴染の夢だった。 
「愛しくて憎い、魔王のような君をやっと僕だけのものにすることができた…………」 
 色の薄いまなざしが、夢を反芻して眇められる。 
 無邪気で明るい幼馴染に、どれだけ救われ、あこがれたことだろう。 
 彼のように丈夫になりたいとの思いはいつしか、彼への思慕に変化した。 
 それでも。 
 同性という事実を差し引いても、自分が彼には相応しくないことはわかっていた。 
「ですから。夢の中で君を僕のものにするのくらい、許してくださいね」 
 毎日一度は自分のところに顔を見せる幼馴染に、そっと謝罪する。 
 
 彼は知らない。 
 彼の焦がれる幼馴染がほんの少し前、事故にあったことを。 
 幼馴染の命が風前の灯であるということを彼が知るのは、今しばらくしてからのことである。 
 

 

17:49 2009 09 29
19:50 2009 09 29



「忙しそうですね」
 かけられたことばに、全身が震えた。



◆◆◇◆◆



「いやだっ」
 どんなに藻掻こうと、大人の力にはかなわなかった。
「たすけてっ!」
 どれほど叫ぼうとも、誰一人助けてくれる人は現われなかった。
「かみさまっ!」
 救済者だという、神ですら、顔を背け、耳を塞いでいるのにちがいなかった。
 あんなにも、祈りつづけたのに、日曜ごとの教会を休んだことなどなかったのに。
「だれか」
 かすれる声が罅割れて、やがてすすりあげるしかできなくなっても、ただ痛みだけが、ぼくを唾棄したい現実に縫いとめていた。



◆◆◇◆◆



 母が新たな結婚をして、ぼくは大きな屋敷のお坊ちゃまになった。
 ぼくが九つになったばかりの初夏のことだ。
 食べるものにも寝るところにも困らない、幸せな毎日。
 新しい父はやさしい紳士で、ぼくと六つ違いの妹は、彼が大好きになっていた。
 毎日は、紅茶とミルク、焼きたての菓子や薔薇の花のにおいであふれた。
 けれど、すべては、まやかしでしかない。そう思えてならなかった。
 なぜなら。
 それは、ほんの少し前には当然のように目の前に差し出されていた、あたりまえのものだった。だけど、一度与えておいて、運命は、すべてを奪い去ったのだ。
 母が新しい父と結婚する二年ほど年前のことだった。
 それは暦が次の一年へと変わろうという時。貿易商をしていた父の船が嵐で全滅し、大好きだった兄も父も、船や荷物と一緒に帰らぬひとになってしまった。そうして、母とぼくと妹とは、住むところすら失ってしまったのだ。
 母は母国を捨て一族を捨てて父と駆け落ち同然に結婚したため、この国には頼れるあてもなかった。
 生まれてこのかた働いたことのない贅沢に親しんだ母やぼくには、どうすれば生きてゆけるのかも、霧の向こうのことのようだった。
 寒さと空腹、絶望だけが、ぼくたちのすべてだった。
 母が町の女に身を落とすまで、どれほどもかからなかった。
 冬の最中で、寒かった。
 なによりも、ひもじくてならなくて。
 あてどもなく町を彷徨っていたから、すぐに男たちに袖を引かれてしまったのだ。
 最初の数日は、母もきっぱりと断りつづけた。いろんな、女でもできる仕事についた。厭いさえしなければ、ささやかな食事にありつける仕事はあったのだ。ぼくも、母と一緒に掃除や洗濯水汲み皿洗いなどの下手間をした。けれど、些細な失敗を繰り返して、首になる。その繰り返しだったのだ。
 その日は銅貨すらもらえず首になった。だから、母は袖をひく男たちに逆らえなかったのだ。
 それほどまでに、母もぼくも、そうして妹も、寒くて寒くて餓えていたのだ。
 母の絶望に投げ与えられた代価で、母とぼくと妹とは、下町の路地の裏、今にも倒れそうな木造の安宿に泊まることができた。
 そうして、母は、夜の町に立つようになった。
 金の薔薇と謳われるほどに美しかった母は一気に老け込んだ。艶々としていた金髪は、灰色に色褪せ、安いジンに耽溺した。その代価は、最初母の代価よりもはるかに安いものだった。しかし、母がやつれてゆくほどに、酒代のほうが高くなっていった。そうして、一日働いてもジンを買えるだけの金にならなくなったころ、母はぼくを、いくばくかの代価と引き換えに、上流の男たちのおもちゃとして貸し与えたのだ。
 泣きたかった、叫びたかった。
 死んでしまいそうなくらい、怖くてならなかった。
 けれど、そこへと迎えにくる馬車に乗らなければ、母と三人で、冬を越せずに野垂れ死んでいたにちがいない。
 ひもじいのも、寒いのも、辛い。それに、何度も想像したその果ての死は、男たちの残酷な遊びに参加させられることよりも恐ろしくてならなかった。
 だから、我慢したのだ。ぼくが男たちの秘密の社交場で彼らのおもちゃになっていれば、ぼくたちは、少なくとも餓えることはない。


 最低な日々をやっとのことで生き延びていたぼくたちに救済の手を差し延べてくれたのは、母の従兄弟になるというひとだった。
 父の訃報を遠い異国の地で知り、あわてて駆けつけたときには、屋敷は既に人手に渡り、そうして、母とぼくの行方は知れなくなっていた。
 数ヶ月の間方々探したと、そう言って母とぼくと妹とを抱きしめてくれたのは、どこか美しかったころの母に似た、蜂蜜色の髪の男性だった。

  そうして、ぼくたちは、母の従兄弟に連れられて、海をわたり、山を越えた。

 母のふるさとは、広大な大地に寒暖差の厳しい気候の国だった。
 見晴るかす限りのオレンジ畑の中にぽつんと建つ、白い城。それが、母の生まれた家だった。母の両親は既に身罷(みまか)り、母の祖母だという高齢の女性一人が城に暮らしていた。
 母はこの国の貴族の出で、富裕だが平民の父とは、生まれも育ちも、何もかもが違っていた。それでも、ふたりが本当に愛しあっていたのを、ぼくは、おぼえている。
 一月も経つころには、母は以前の美しさを取り戻していた。
  母とぼくたちをあたたかく迎えてくれた母の祖母の提案で、父と兄の喪が明けるのを待って――ぼくたちの地獄のような日々は、父と兄の死から、ほんの数ヶ月しかたっていなかった間のできごとにすぎなかったのだ。――、母は従兄弟と結婚した。
 それを見届けると曾祖母は満足したのか、ほどなくして神の身元に召されていった。
 曾祖母の死から一月後、ぼくたちは家族四人でこの国の都へと移動した。
 領地は管財人にまかせ、都にある屋敷のほうへと、引っ越したのだ。
 そこでの母は、水を得た魚のように生き生きと楽しそうだった。
 毎日の夜会、我が家で催すパーティー。木々にぶら下げられた、異国のランタンに灯されたたくさんの明かりの下を、着飾った男女がさんざめき、オーケストラが奏でる音楽にあわせてダンスに興じる。時折り、大きな音とともに花火が夜空で爆ぜて、きらきらと火の粉を撒き散らす。
 もちろん、こどもは参加できない。けれど、差し入れしてくれるご馳走やデザートは楽しみだった。それに、こっそりと部屋からのぞき見たりすることはできた。だから、妹とふたり、バルコニーまで出て眺めた。
 風にのって届く、花や香水、食べ物の匂い。
 幸せだった。
 まだ、過去の悪夢に魘されることはあったけれど、それでもいつしか、あの地獄の日々は単なる悪夢に過ぎなかったのだと、記憶の底に沈んでいったのだ。
  それは、母にしてもおなじだったのにちがいない。
 
 幸せを当然と、あたりまえの日常と感じるようになった心の隙に魔がさした。

 そういうことだったに違いない。

 突然のスキャンダルだった。
 貴族の夫婦に愛人がいても、それは、公然の秘密でしかない。しかし、愛人と駆け落ちしてしまっては、しゃれにならないということだ。
 母に愛人がいたことを、ぼくは知らなかった。だから、青褪めた義父に詰め寄られ問い詰められても、答えられるはずがなかった。
 義父が母を愛していたことは知っていた。
 義父と母とがもともと婚約者だったということも、領地の城の使用人達がささやきあっていたことを耳に入れて知っていた。
 それでも、ぼくは、母に愛人がいることすら知らなかったのだ。
 母は、その生涯で、二度、自分を熱愛する婚約者を裏切ったことになる。
 飛び出していった義父がひとりぎりで帰ってきたのは、その三日後だった。
 やつれ、血の気の失せた義父の顔の中、爛々と光る一対の目が、妹と一緒に彼を出迎えたぼくに向けられた。
 その視線。
 ぞっと、背筋を駆け抜けたのは、記憶の底から這い上がろうとする、封印したはずの悪い記憶だった。
 頭を振って打ち消したぼくの前を、義父はよろめきながら通り過ぎた。
  

 そうして、ぼくは、悪夢がよみがえるのを、体験した。



◆◆◇◆◆



 逃げるようにして領地の城に戻った最初の夜だった。
 アルコールのにおいに、目が覚めた。
 カーテンの隙間から差し込む月の光に、自分の上にのしかかっている影が、まぎれもない義父なのだと、思い知る。
 出迎えた時とおなじ、爛々と光る目が、ぼくに向けられていた。
 アルコールのにおいの混じる荒い息が、顔にかかる。
 逃げようと、本能的に身じろいだ瞬間、夜着を引き裂かれた。
 怖かった。
 疾うに捨ててしまった神の名に縋りつくほどに。
 悲鳴も凍りつくほど怖くてならなくて。
 封印した過去が、男たちにおもちゃにされた、おぞましい記憶が、全身を呪縛していた。

 母の残したツケだと、義父は、言った。
 ツケを払うのは、息子のおまえしかいないと。
 逃げたぼくを捕まえて、もみくちゃにしながら、狂った男の声が、言う。
 この次おまえが逃げれば、妹をおまえの代わりにしようか―――と、憎々しげに、楽しげに、歌うようにさえ、ささやいた。
 疾うに打ち捨てた神の御使い(みつかい)――天使のように愛らしい妹が、まるで当然だというかのように、ぼくの枷となった。
 どうすればいいのかわからなかった。
 夜毎訪れる義父に抱かれ、ぼくは、泣くすべすら忘れていた。
 そうして、ぼくを慕ってくる無邪気な妹を憎んでしまいそうな自分に気づいた。
 妹さえいなければ。
 母に似た金の巻き毛の妹が、母とおなじ褐色の瞳で笑いかけてくる。
 妹を残して、逃げられるはずもない。
 ならば。
 それは、咄嗟の衝動だった。
 ひとりで逃げられないのなら、ふたりで逃げればいい。
 捕まるかもしれない。そんな考えなど、微塵も浮かんではこなかった。
 逃げた後のことも、なにも考えられなかった。
 ただ、逃げよう、妹と一緒に逃げればいい――その考えだけに魅せられていたのだ。


 ぼくは、新月の夜を待った。
 義父に抱かれながら、狂った呪いをささやきかけられながら、ただ、闇を待ち焦がれていた。

 義父が訪れるのは、深夜、家人がすべて寝静まった後のこと。
 だから、その前に家を出なければならない。早すぎると、すぐに見つかってしまう。
 けれど、今日はさいわいなことに、来訪者があった。
 義父よりも歳若い、黒い髪と黒い瞳の、どこかエキゾチックな美貌の青年は、数日間館に滞在する予定らしい。
 義父がやけに青年に対して丁寧な態度をとるのが目の端に映っていたが、そんなことはどうでもよかった。
 とにかく、この機会を逃しては、次はないかもしれない。そんな不安が強かった。
 じりじりと、夕飯が終わるのを待った。

  長かった晩餐がやっと終わって、部屋に戻れるとそっと溜息をついた時、突然義父が、バイオリンを弾くようにと命じてきた。
 ひとに聞かせるほどの腕ではない。しかし、義父の瞳には、拒否を許さないきつい色が宿っていた。それは、夜毎に向けられる瞳とは違っていたが、怖いことに変わりはない。ぼくは、移動した遊戯室で、習ったばかりのセレナーデを数曲披露することになったのだ。
 楽器にはよく弾くひとの心が現われますからね――と、家庭教師に言われていたことを思い出し、数度の深呼吸を繰り返した。静かに、内心の焦りが表れないように弓を弦にすべらせる。
 青年が自分を見ているのは感じていた。
 けれど、まさか、弾き終えお辞儀をした後で、真直ぐに見つめられるとは思ってもいなかった。
 漆黒のまなざしが、ただ静かに、ぼくを見ていた。
 なにもかもを見透かすような、心の奥底にまで突き刺さるかのような、不思議な目。
 しかし、それは、ほんの数瞬の間のことに過ぎず、義父に話しかけられて、すぐに逸れた。
 だから、ぼくはそれをすぐに忘れてしまった。
 なにより、これで、やっと、ここから出てゆける――早く逃げなければという思いのほうが強かったのだ。

 三階の部屋にもどって、着がえた。
 動きやすい外出着と、夜は冷えるので暖かくて軽いジャケットを重ね着する。
 こっそりと、部屋を出て、屋根裏部屋に忍び込む。母の持ち物が無造作にそこに運び込まれたのをぼくは知っていた。あまりの辛さや切なさに母が恋しくてならなくて、何か母をしのべるものはないかと求めて何度も忍び込んだから、どこに何が置かれているのか知っている。
 母が残していった宝石箱の中の指輪やネックレス、ブローチやイヤリング、ブレスレット、きらきらと光るたくさんの宝石類をできるだけジャケットとズボンのポケットに移し込んだ。
 いけないことだと思ったけれど、どうせ、誰も助けてはくれないのだ。
 自分でどうにかしなければならないのだから、母の残していったものをもらうくらい、誰にだかわからないけれど、多めに見て欲しかった。
 それに、これだけたくさんの宝石があれば、悪夢のようなひもじく辛い現実をもう一度味わいはしなくてもすむのじゃないかと、そう考えた。
 そうして、ふと、目を惹かれたのは、壁際に置かれたライティング・ビューローの上に出しっぱなしになっている、銀の持ち手に象牙の刃のペーパーナイフだった。銀の持ち手には、小さな宝石が花を描くように配されている。
 深く考えたわけではない。
 ただ、これも持ってゆこうと、上着のポケットに入れたのにすぎない。
 ひもじいのも寒いのも辛いのも、もう、あんな目にあうのは、厭なのだ。 もういいだろうと、もう一度三階に戻ったぼくは、ぐずる妹をベッドから引きずり出し、着換えさせた。


 屋敷を抜け出し、振り返った。
 新月の闇の中、黒々と沈む広い城が覆いかぶさるかのように見える。
 気づかれたような気配はない。
 今のうちに。
 いやだとぐずる妹の手を引っ張りながら、足を速めた。
 そうして、やっと、門にたどり着いた。
 門番も眠っているのか、誰もいない。
 もういいんだ。
 もう、あんなことをされて我慢していなくても、いい。
 妹を枷だと憎まなくてもすむ。
 涙が出てきた。
 嬉しかった。
 これから先の不安があったけれど、でも、悪夢から逃れられたのだと思えば、思いはひとしおだったのだ。


 月がないと、時間もわからない。
 都とは違ってガス灯も人気もない。どこまでも続くオレンジ畑の中をぼくは、あてどもなくただ闇雲に歩いた。
 今何時だろうと思っても、時計にまでは気が回らなかったから、持って出てはいなかった。
 どれくらい歩いただろう。
  足の裏が熱をもって痛い。
 妹は疾うに歩くのを嫌がったので、背負った。すっかり太ってしまった妹の重さが、ずっしりとのしかかってくる。それでも、後悔だけはなかった。
 足が痛くて歩き難いけれど、義父が部屋にくる時間になるまで、できるだけ遠くに逃げていなければならない。
 気が急いてならなかったが、逆に、足が動かない。
 限界がきているらしかった。
 どれくらい歩けばいいのだろう。
 田舎の領地の広大さを、ぼくは少しもわかってはいなかったのだ。
 それでも。
 この広さはぼくにとってと同じくらい、義父にとっても、ぼくたちを見つけるための障害になるのにちがいない。
 そう思った。
 頑張ろう。
 自分で自分を励ました。
 けれど、足がいうことをきこうとはしない。
 やすみたいと、悲鳴をあげていた。
 いいかな。
 いいかな。
 もう、いいよね。
 地面に妹をそっと下ろし、ぼくもその場に足を伸ばした。
 オレンジの茂みに腰を下ろす。
 足の裏が、ジンジンと疼く。
 足は棒のようだ。
 腰も、手も、もう、動かせない。
 そう思った。
 いつの間にか居眠りをしていたらしい。
 がくんと首が振れて、目が覚めた。
 一瞬どこにいるのかわからなかったけれど、すぐに思い出した。
 もう行こう。
 そう思って妹を起こそうとした。
 その時だった。
 聞こえたのは、こんな夜遅くにはふさわしくない、馬の蹄鉄が大地を蹴る音。
 馬を急かせて駆けぬけてゆこうとする、なにものか。
 逃げないと。
 隠れよう。
 動こうとはしない足を必死で持ち上げた。
 ぼくは自分のことに必死で、妹の存在を忘れていた。
「ビアーンカ!」
「ミケーレ!」
 名を呼ぶ声を聞いて身を縮めたぼくとは違い、妹は嬉々として返事をしたのだ。



◆◆◇◆◆



 熱病患者のようなぎらぎらとしたまなざしが、ぼくを絶望へと突き落とす。
 妹は、ここ――父の部屋にはいない。もう、眠ってしまったことだろう。
 悪い子だ――と、義父がかすれた声でささやいた。
 もうだめだと、一歩下がった足が、ソファの足につまづき、ぼくは、後ろざまに倒れた。
 立ち上がろうとして、ふと、何かが手に触れた。
 転がったはずみで、ポケットに入れたままで忘れていた母のアクセサリーと一緒に、ペーパーナイフが落ちたらしかった。
「母親の形見とはいえ、盗んだんだね。悪い子だ」
 義父のそのことばに、あの夜の父の目が脳裏を過ぎった。
 母を追って行った義父が帰ってきたあの夜の、彼の目だ。
 母の死を――母を殺したのが彼なのだと、ぼくは直感していた。
 全身に冷水をかけられたような寒気が、ぼくに襲い掛かる。
「悪い子にはお仕置きが必要だ。わかっているな」
 義父が近づいて来る。
 ぼくは、それを、握りしめ、隠した。


 気がついた時、足元は血の海だった。
 宝石の散らばる血の海に突っ伏しているのは、まぎれもない義父。
 義父を認めて脳裏によみがえったのは、のしかかってきた義父の重み。胸元をはだけられ、這わされたくちびるのぞっとするようなぬめり。それに弾かれるように、ぼくはナイフを振り上げ、そうして振り下ろしたのだ。刹那の、ぞっと全身が粟立つような感触が、まざまざとよみがえる。
 憎くて。
 どうしようもなく怖くて。
 義父が息を吹き返してまた襲ってくるのではないかと、振りかぶっては突き立てた。
 疾うに死んでいるというのに―――
 何度も何度も。
 血飛沫が、ぼくの全身をしとどに濡らしても、ぼくは、やめることができなかった。
「忙しそうですね」
 突然かけられたことばに、全身が震えた。
 恐る恐る振り向いたぼくの目の前で、平然と、なんら変わったことなど起きてはいないのだとでも言うかのように、笑いさえにじませて、そのひとは、
「手伝いましょうか?」
と、そう言ったのだ。



 
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